第108話 帰すところまで
翌朝、御影ダンジョンの管理棟では、これまでより少し長い打ち合わせが行われた。
今日の目的は調査ではない。リュシアを未記録亀裂の奥にある「境目」まで連れていき、その先が本人の知っている土地だと確認できたうえで、一人でも安全に帰れる条件が整っているなら、そこで救難を終える。その方針自体は昨日のうちに決まっていたが、一度も経験したことのない状況だけに、確認しておくことは多かった。
現地救難班長が、机に広げた第五層の図面を指す。
「人間側で確認できているのは、ここまでです。昨日は二十二メートル地点の先で小型魔物三体と接触しました。今日は入口側と第五層主経路側の両方に人員を置きますが、亀裂内部で通信が切れること自体は変わりません」
神代さんが聞く。
「境目より先には入らない方針でいいですか?」
「原則はそうします。久世さんの《帰り道》が先を示していたとしても、リュシアさんが一人で帰れる場所まで到達したと確認できれば、人間側はそこで止まります」
「分かりました」
俺にも異論はない。
《帰り道》が示しているからといって、その先まで俺たちが付いていかなければいけないわけではない。これまでの救難でも、安全な場所まで送り届けたあとに本人だけで移動できるなら、そこで俺たちの仕事が終わることはあった。
今回違うのは、その「安全な場所」が俺たちには分からないということだ。
リュシアは机の向かい側で話を聞いていた。
「私は一人で帰れる」
昨日から何度も聞いている言葉だった。
班長が確認する。
「境目を越えたあと、町までの道は分かるんですね?」
「分かる。昨日見たところなら、近くに知ってる道ある」
「魔物がいた場合は?」
「避けられる。無理なら戦う」
「怪我は?」
リュシアは医療担当者を見る。
今朝も診察を受けており、右脚と脇腹の傷に悪化はない。歩行にも大きな問題はないが、激しい戦闘や長時間走るような動きは避けるよう言われている。
「歩ける」
リュシアが答える。
医療担当者が補足した。
「昨日の移動後も傷は開いていません。ただし、元通りという意味ではありません。長い戦闘や全力で逃げ続けるような状況になれば、途中で動けなくなる可能性はあります」
リュシアは少し考えてから頷いた。
「分かった」
今日は妙に素直だった。
その理由は、たぶん本人も分かっている。
今日こそ帰れるかもしれないからこそ、ここで無駄に揉めて時間を使いたくないのだろう。
神代さんが、机の端に置かれたリュシアの剣を見る。
「武器は境目まで私が持ちます。その先をリュシアさん一人で進むことになった場合は、そこで返します」
「分かった」
俺は思わずリュシアを見る。
「今日は本当に素直ですね」
「帰る日だから」
「まだ帰れると決まったわけじゃないですよ」
リュシアの眉が寄った。
「ナオト」
「はい」
「今日は、それ言うな」
「どれです?」
「分からない、とか、まだ、とか」
神代さんが少し笑った。
「久世さん、今日は少し控えた方がいいかもしれません」
「俺が一番慎重にしないといけない日だと思うんですけど」
「慎重なのはいいんです。言い方の問題です」
どうやらそこは別らしい。
打ち合わせの途中で相馬さんから通信が入り、班長が今日の方針を説明した。
昨日までの報告はすでに送っているため、相馬さんは細かい経緯を聞き返さず、少し間を置いて俺を呼んだ。
『久世』
「はい」
『今日、何しに行く』
「リュシアを帰します」
『調べるんじゃないな』
「はい」
『向こうに何があるか気になっても、帰すのに必要なければ入るな』
「分かってます」
『本当に分かってるか』
「そんなに信用ないです?」
『人間、知らない穴を見ると入りたがる』
「俺は探索者としても、その辺はあまりないですよ」
『それは知ってる』
褒められたようには聞こえなかった。
相馬さんは続ける。
『神代さん』
「はい」
『久世が光につられて行きそうなら止めてください』
「分かりました」
「また俺だけですか」
『光が見えるのお前だけだからな』
それはそうだった。
通信を切る前に、相馬さんは最後に一つだけ付け加えた。
『帰せるなら帰せ。ただし、お前らまで帰れなくなるな』
「はい」
今日やるべきことは、その一言に全部入っていた。
準備を終え、俺たちは第五層へ向かった。
亀裂内部へ入るのは昨日と同じく、班長、神代さん、リュシア、俺、現地救難員一人の五人。入口側には別の救難員が待機し、通信が途切れた場合にも撤収の遅れを確認できるよう時間を管理する。
《帰り道》は管理棟を出た時から、昨日と同じ方向を示していた。第五層へ下りても変化はなく、旧採掘区画へ入ると、その淡い光は迷うことなく未記録亀裂へ向かって伸びている。
亀裂の前へ到着すると、班長が全員を見る。
「昨日と同じです。途中で一つでも条件が変わったら戻ります。それから二十二メートル地点以降は、その場で改めて判断します」
リュシアも頷く。
神代さんが念を押した。
「今日は勝手に前へ出ないでくださいね」
「分かってる」
「本当に?」
「昨日、一回だけ」
「一回あれば十分です」
リュシアは少し不満そうだったが、反論はしなかった。
俺たちは順番に亀裂へ入った。
最初の数メートルは相変わらず狭く、壁へ装備を擦らないよう身体を斜めにしなければ進めない。昨日通った道とはいえ、一人が足を止めれば後ろの全員も止まる構造は変わらず、誰かが転倒した場合に追い越す余裕もない。
前を歩くリュシアの右脚は今のところ問題なさそうだった。
「痛くない?」
俺が聞く。
「大丈夫」
「今日は一回で信じます」
「毎回そうして」
「それは無理です」
リュシアは振り返らず、小さく息を吐いた。
八メートル付近から通路が少し広くなり、身体を正面へ向けて歩けるようになる。班長が全員の通過を確認し、入口側との通信も試したが、ここまでは音声に問題はなかった。
十二メートルを越えた頃から、岩肌の色に少しずつ青みが混ざり、空気もわずかに冷たくなってくる。
リュシアの歩みが自然と速くなった。
神代さんがすぐ気づく。
「リュシアさん、ゆっくり」
「分かってる」
返事はしたものの、身体より気持ちの方が先へ行っていることは分かった。
十五メートル地点へ来ると、通信に細かなノイズが混じり始める。入口側からの声はまだ聞こえるが、言葉の一部が途切れるようになっていた。
俺は足元の《帰り道》を確認する。
方向に変化はない。
十七メートルを過ぎる頃には、昨日と同じように周囲の音がおかしくなり始めた。目の前にいるリュシアの足音が実際よりずっと遠くから聞こえる一方で、自分の呼吸や服が擦れる音だけは妙に近く感じる。
視界の中では全員の位置が分かっているのに、耳から入る距離だけが合っていない。
俺は少し歩幅を落とした。
「これ、やっぱり慣れないですね」
「久世さんも分かります?」
神代さんが聞く。
「はい。神代さんが目の前にいるのに、足音だけもっと先から聞こえます」
「昨日と同じです」
リュシアが周囲を見る。
「ここ、境目近い」
「もう?」
「まだ。でも近い」
身体も少し軽く感じる。
足を上げた時の感覚がさっきまでと微妙に違う程度だが、昨日班長たちが話していたものと同じだろう。
班長が通信確認をした。
「入口側、聞こえますか」
すぐには返事が来ず、数秒後にノイズ混じりの声が返ってきた。
『……聞こえ……ます』
完全には切れていない。
班長が全員を見る。
「ここからは昨日も不安定でした。二十二メートル地点まであと少しですが、ゆっくり進みます」
神代さんとリュシアが頷き、俺たちも間隔を保ったまま先へ進む。
岩の色は徐々に青みを増し、ライトを向けても遠くまで光が届きにくくなった。霧も煙もないのに、数メートル先から暗さが濃くなっているように見える。
二十メートル地点へ近づく頃には、匂いの違いも俺に分かるようになっていた。
湿った土と草、それに冷たい水の近くにいる時のような匂いが奥から流れてくる。御影ダンジョンの旧採掘区画にはない空気だった。
リュシアが立ち止まる。
「どうした?」
俺が聞く。
「知ってる」
「この匂い?」
リュシアは頷く。
「向こうの匂い」
昨日までの「たぶん」とは違う言い方だった。
神代さんが確認する。
「本当に?」
「間違えない。私の側にある匂い」
「町そのもの?」
「違う。町の外」
少しずつ、リュシアの記憶と今いる場所がつながっていく。
班長はすぐに進まず、全員の体調を確認した。神代さんにも異常はなく、リュシアも右脚の痛みは増えていない。俺と最後尾の救難員にも問題はなく、通信は不安定ながら完全には切れていなかった。
「二十二メートル地点まで進みます。そこで一度必ず止まります」
班長が念を押し、俺たちは再び歩き始めた。
実際には数メートルしかないはずなのに、音の距離感が狂っているせいで妙に長く感じる。通信機からも細かなノイズが流れ続け、視界の中の仲間を確認しながら進んでいるのに、いつもより一人で歩いているような感覚が強かった。
やがて二十二メートル地点へ到着する。
通路の先には、昨日確認した青い明かりが見えていた。
写真で見た時よりもはっきりしている。
壁や天井のどこかが光っているわけではなく、その先にある空間全体が淡く青みを帯びていた。
班長が手を上げる。
「ここで止まります」
全員が足を止めた。
リュシアは目の前の光を見たまま、しばらく何も言わなかった。
神代さんが呼ぶ。
「リュシアさん?」
「知ってる」
「この光?」
「そう」
リュシアが一歩踏み出しかけたが、神代さんが腕を出して止める。
「ここからは確認してからです」
「でも、向こう」
「分かっています。だから急がないでください」
リュシアは神代さんを見たあと、少し迷ってから自分で一歩戻った。
「分かった」
昨日より、こちらのやり方を受け入れてくれている。
班長が周囲を確認した。
床には昨日見た三本指のような足跡がまだ残っているが、近くに魔物の姿はない。
救難員が簡易測定器を確認する。
「魔力反応、昨日と大きな差はありません」
「通信は?」
班長が聞く。
「ほぼ切れてます。かろうじて信号だけ拾ってます」
入口側へ声を送っても返事は聞こえなかった。
班長は時計を確認する。
「予定通り、ここから数メートルだけ前へ出ます。ただし、青い発光域は越えません」
全員が頷いた。
昨日まで人間側が立ったことのない場所へ、少しずつ進む。
二十三メートル。
二十四メートル。
距離としてはわずかなのに、周囲の様子は急に変わり始めた。
壁の青みが強くなり、足元にあった細かな砂は少なくなる。その代わり、岩の隙間には黒っぽい苔のようなものが付着していた。
神代さんがしゃがんで確認する。
「植物みたいですね」
俺も横から見る。
細く柔らかいものが岩に沿って広がっている。
御影ダンジョンでは見たことがない。
リュシアが頷いた。
「ある。私の側に」
「珍しいもの?」
神代さんが聞く。
「普通。湿った場所にある」
班長は写真だけ撮り、採取はしなかった。
今日の目的は未知の植物を持ち帰ることではない。
さらに少し進むと、青い光の正体がこれまでより分かりやすくなってきた。
目の前の空間には、薄い膜のようなものが立っている。表面そのものが強く光っているわけではないが、その向こう側の景色が淡い青色を通して見えていた。
俺は目を凝らす。
そこに見えているのは岩壁ではなかった。
膜の向こうには黒っぽい土の地面が広がり、その上には背の低い植物がまとまって生えている。さらに奥には細い幹を持つ木らしきものが何本か立っていて、少なくとも御影ダンジョンの通路がそのまま続いている景色には見えなかった。
神代さんも同じ景色を見ながら、慎重に周囲を確認している。
「向こうに空間がありますね」
「はい。ダンジョンの続きには見えないです」
俺が答える。
班長はすぐ注意を入れた。
「見えているだけです。まだ越えません」
「分かってます」
リュシアだけは何も言わなかった。
青い膜の向こうをじっと見つめたまま、しばらく動かない。
俺はその横顔を見る。
驚いているというより、確認しているようだった。
自分の知っているものが、本当にそこにあるのかを一つずつ確かめている。
やがてリュシアの表情から、これまでずっと残っていた硬さが少しだけ抜けた。
「帰れる」
俺はリュシアを見る。
「向こうが分かる?」
「分かる」
班長が聞く。
「本当に、あなたがいた場所だと判断できますか?」
「できる」
今度は迷わなかった。
リュシアは青い膜の向こうを指す。
「あの木、知ってる。黒い葉。湿った場所にある。地面も同じ。匂いも同じ」
「この辺り自体を知ってる?」
俺が聞く。
「近くは知ってる。向こうへ行けば道分かる」
神代さんが聞く。
「町までは?」
リュシアは少し考えてから向こう側の一方向を指した。
「森を抜ける。石の道に出る。そこから町へ帰れる」
「どれくらいかかります?」
「半日より短い」
人間と時間の数え方が同じかは分からないが、少なくとも何日も歩かなければ帰れない距離ではなさそうだ。
班長が俺を見る。
「久世さん、《帰り道》は?」
俺も足元の光を確認する。
淡い線は青い境目を越え、その向こう側へ続いていた。
「まだ先です」
「リュシアさんが指した方向と同じ?」
俺は光の向きと、リュシアが示した方向を見比べる。
境目の先で少し曲がっているように見えるが、大きな方向は一致している。
「ほぼ同じです」
リュシアが俺を見る。
「道、合ってる」
「少なくとも方向は同じですね」
「今日は帰れるって言っていい」
「俺に決めさせる気ないでしょう」
「帰れる」
リュシアは少し笑った。
俺も、それ以上は否定しなかった。
その時、境目の向こうにある低い植物が大きく揺れた。
さっきまで少し緩んでいた空気が、一気に変わる。
神代さんが剣へ手をかけ、班長も一歩下がって全員が戻れる位置を確保した。
リュシアは植物の動きを見つめる。
「獣かも」
「昨日の小さいやつですか?」
神代さんが聞く。
「たぶん」
茂みがもう一度揺れる。
ただし、そこからこちらへ飛び出してくるものはなく、しばらく待っても青い境目を越える気配はなかった。
班長が低い声で聞く。
「リュシアさん、確認したいです。この状態で向こうへ一人で行けますか?」
リュシアは自分の右脚を見たあと、向こうの景色へ視線を戻した。
「行ける」
「途中で走る必要が出た場合は?」
少し考える。
「長くは無理」
「魔物が複数いた場合は?」
「避ける。無理なら戦う。でも多いと難しい」
神代さんの表情が少し厳しくなる。
「それなら、まだ一人で返すには危ないですね」
リュシアもすぐには反論しなかった。
自分でも分かっているのだろう。
境目までたどり着けた。
向こうが故郷側であることも確認できた。
それでも、怪我が消えたわけではない。
リュシアが神代さんを見る。
「ミナミは来る?」
神代さんはすぐには答えなかった。
向こうへ入れば、こちらへ戻れる保証がない。
通信もできない。
人間側が何も把握できない場所へ入ることになる。
昨日からずっと考えていた問題だった。
神代さんは青い境目を見たあと、リュシアへ答える。
「今の状態では行きません」
リュシアは怒らなかった。
「そう」
「ただ、ここで一人にしていいかどうかも別です」
班長が続ける。
「一度戻ります」
その言葉で、リュシアの表情が変わった。
「戻る?」
「今日は向こう側の確認までです」
「ここまで来た」
「だからです。あなたの場所へつながっている可能性はかなり高くなりました。次は、一人で安全に町まで帰れる条件を整えます」
リュシアは目の前の境目を見る。
数歩先には、もう自分の知っている景色がある。
そこまで来て、また人間側へ戻れと言われている。
簡単に納得できるはずがない。
俺はリュシアの横に立つ。
「俺も帰したいです」
リュシアはこちらを見る。
「なら行かせて」
「でも、今ここで帰して途中で倒れたら、俺たちはもう助けに行けないかもしれない」
リュシアは黙った。
「境目を越えたら通信もできない。人間側からは追えない。そこで複数の魔物に会って動けなくなったら、ここまで連れてきた意味がなくなります」
少し間を置いて、リュシアが頷く。
「分かってる」
「だったら、もう一回だけ戻りましょう」
「もう一回?」
「向こう側の入口近くにいる魔物を避ける方法と、リュシアが一人で町まで移動できる状態を整える。それができたら、次は本当に帰すつもりで来ます」
リュシアは俺を見る。
「本当に?」
絶対とは言えない。
安全条件が変われば予定も変わる。
それでも、今分かっている範囲では答えられる。
「今の条件なら、そのつもりです」
神代さんも頷いた。
「私もそれでいいと思います」
リュシアはしばらく境目の向こうを見ていたが、最後には自分から一歩下がった。
「分かった」
班長も少し表情を緩める。
「ありがとうございます」
「でも剣」
リュシアが言う。
神代さんが聞く。
「次は境目で返してほしい?」
「返して。向こうでは自分で持つ」
「分かりました。約束します」
今度は神代さんもはっきり答えた。
俺たちは境目から引き返す。
歩き始めてから、俺は足元の《帰り道》をもう一度確認した。
光は変わらず境目の向こうへ伸びている。
俺たちは今、その光とは逆方向へ戻っていることになる。
それでも光は消えない。
神代さんが俺の様子に気づく。
「何か変わりました?」
「いえ。まだ向こうを示してます。ただ、反対方向へ戻っても消えないんだなと思って」
「昨日も地上まで残ってましたよね」
「そうなんですけど、今回は帰る場所を目の前まで確認したので」
リュシアが聞く。
「道に逆らってる?」
「今はそう見えますね。ただ、帰すために一度戻ってるので、これでいいと思います」
「道、怒らない?」
俺は思わず笑った。
「そういうものじゃないです」
「分からない」
「俺も全部分かってるわけじゃないですけど、感情があるスキルではないと思います」
神代さんが前から言う。
「久世さんのスキルに感情まであったら、話がかなり変わってきますね」
「それは本当にやめてください」
リュシアには意味がよく分からなかったようだが、俺と神代さんのやり取りを見て少し笑っていた。
二十二メートル地点から離れ、二十メートル、十八メートルと戻っていく。
青い光が見えなくなるにつれて、リュシアは何度か後ろを振り返った。そのたびに歩みが少し遅くなったが、急かす人はいなかった。
十五メートル地点を越えると、通信機に少しずつ音が戻り始める。
入口側から呼びかける声が聞こえ、班長がすぐ応答した。
「こちら班長。全員無事。境目を確認しました。現時点では通過せず、帰還中です」
『了解』
その声を聞いた瞬間、まだ第五層の地下にいるのに、いつもの場所へ戻ってきたような感覚があった。
十二メートル、八メートルと進むにつれて、岩肌は灰色へ戻り、音の距離感も普通になっていく。
やがて亀裂の入口が見えた。
外へ出ると、待機していた救難員がすぐに人数を確認する。
「五人全員確認。怪我は?」
「ありません」
班長が答える。
リュシアも足を少しかばってはいるが、傷が開いた様子はない。
俺は最後に亀裂を振り返った。
《帰り道》は今も、その奥へ続いている。
ただ、もう完全に正体不明の場所を指しているわけではない。
少なくともリュシアにとっては、自分の知っている土地へ戻る方向だった。
管理棟へ戻ると、すぐに今日の記録がまとめられた。
青色発光域の手前から、御影ダンジョンでは確認していない植生と、その先に広がる別の地形を目視したこと。リュシアが植物、地面、匂いなど複数の特徴から、自分のいた地域だと判断したこと。本人の説明では、そこから町へ通じる既知の経路が存在すること。
そして、人間側は境目を越えていない。
班長が記録を読み上げる。
「これで問題ないですか?」
俺は頷いた。
「いいと思います」
神代さんも同意する。
リュシアが聞いた。
「次、帰れる?」
班長が答える前に、俺はリュシアを見る。
「向こう側の入口付近にいる魔物を避ける方法を考えましょう。リュシアが今の身体でも安全に森を抜けられる状態が作れれば、次は帰すところまで進めると思います」
「倒す?」
「全部倒す必要はないです」
「またそれ」
「帰るのが目的なので」
リュシアは少し考えた。
「なら、音で離せる」
神代さんが反応する。
「音?」
「昨日の小さい獣、大きい音嫌い。遠くで音出せば、そっち見る」
「それなら戦わず通れるかもしれないですね」
班長がすぐに記録する。
俺は少し笑った。
「帰る側の人が一番情報持ってますね」
「私の場所だから」
当然のように答えた。
ここまでずっと、人間側がリュシアをどう守るかばかり考えてきた。
でも境目を越えた先では、リュシアの方が土地を知っている。
俺たちは、全部を代わりにやる必要はない。
一人で帰れるところまで連れていく。
そこまで来たら、最後に必要なのは本人の知識と力なのだと思う。
神代さんがリュシアを見る。
「次は、境目で剣を返します」
「約束」
「はい」
「ミナミも来る?」
「境目までは」
リュシアは少し考えたあと、俺を見る。
「ナオトも?」
「もちろん」
「弱いのに?」
「そこは帰る直前まで言うんですね」
リュシアが笑った。
神代さんも横で笑っている。
俺は机の上の図面を見る。
人間側の地図は、未記録亀裂の奥で終わっている。
昨日までは、その先がただの空白だった。
今日は、その空白の向こうに本当に別の土地が見えた。
だからといって、人間側の地図へ続きを書く必要はない。
俺たちが知るべきなのは、リュシアをどこまで連れていけば一人で帰れるのか、それだけだ。
次に境目まで行ったら、リュシアを帰す。
俺たちは、その向こうへ行かない。
今回の救難で必要なのは未知の場所へ踏み込むことではなく、彼女が自分の足で帰れるところまで安全につなぐことだった。




