第107話 境目まで
翌朝、御影ダンジョンの管理棟へ着いた時には、リュシアの診察がすでに始まっていた。
救護室へ入ると、右脚の固定具を外した状態で短い距離を歩かされている。昨日より足取りは安定していたが、完全に元通りというわけではなく、右脚へ体重をかけるたびにわずかに動きが硬くなっていた。
医療担当者が俺たちを見る。
「短距離の歩行は問題ありません。ただし、狭い場所で長時間立たせるのは避けてください。脇腹の傷も閉じ始めてますが、強く身体をひねればまた開く可能性があります」
「途中で痛みが出たら撤収ですね」
班長が確認すると、医療担当者は頷いた。
「本人が大丈夫と言っても、動きを見て判断してください」
リュシアが不満そうな顔をする。
「私は分かる」
「昨日もそう言ってました」
俺が言うと、リュシアはこちらを見た。
「ナオト、うるさい」
「今日も元気ですね」
神代さんが小さく笑う。
医療担当者は呆れたように俺たちを見たあと、リュシアの脇腹をもう一度確認した。
「少なくとも、昨日よりはいいです。ただし戦闘は避けてください」
リュシアがすぐ反応する。
「必要なら戦う」
「必要にならないようにします」
神代さんが答えると、リュシアは少し黙った。
昨日のうちに決めた通り、リュシアの武器は神代さんが持つことになっている。危険な状況になれば返すが、最初から負傷した本人へ持たせるつもりはない。
そこについては朝から何度か揉めたらしい。
「ミナミ、返す約束」
「必要ならです」
「私が必要と思ったら?」
「私も必要だと思ったら返します」
「厳しい」
「安全のためです」
リュシアは納得していないようだったが、それ以上は言わなかった。
会議スペースへ移動すると、今日の進行が確認された。
亀裂内部へ入るのは、現地救難班長、神代さん、リュシア、俺、現地救難員一人の五人。もう一人の救難員は亀裂入口側へ残り、通信が完全に切れた場合の中継と地上への連絡を担当する。
昨日より人数は増えるが、狭い場所へ一度に詰め込まないよう間隔を取る。
並び順は班長が先頭、神代さん、リュシア、俺、救難員の順になった。
「俺がリュシアの後ろなんですね」
「久世さんは光を確認してください。それと、リュシアさんが歩けなくなった場合にすぐ気づける位置にいてもらいます」
班長が答える。
「戦闘になったら?」
「神代さんが前。後ろから来た場合は最後尾の救難員が対応します。挟まれたら無理に戦わず入口側へ戻ります」
リュシアが聞く。
「私は?」
「基本的には戦わない」
班長が即答した。
リュシアは俺を見る。
「私、強い」
「知ってますよ。でも怪我してます」
「ナオトより強い」
「比較対象を俺にしないでください」
神代さんが笑う。
班長は地図へ視線を戻した。
「今日の目的は二十二メートル先までリュシアさんを連れていき、昨日確認した青い光と本人の記憶を照合することです。その先へ入るかどうかは現場で改めて判断します。最初から向こう側へ抜けるつもりでは行きません」
「分かりました」
俺が答える。
リュシアも少し遅れて頷いた。
「止まる」
「そうです」
「でも帰れるなら?」
「その時に相談します」
「また相談」
「人間はそういうものです」
最近は説明するのを少し諦めている。
準備が終わり、俺たちは地下へ向かった。
第一層から第四層までは昨日までと変わらない。第五層へ入ると一般探索者の姿はなく、西側旧採掘区画は今日も全面的に立入制限がかかっていた。
俺にしか見えない《帰り道》の光は、管理棟を出た時から消えていない。第五層へ下りても方向は変わらず、旧採掘区画の奥にある未記録亀裂を示していた。
昨日リュシアを見つけた場所を通過した時、本人の歩みが少しだけ遅くなった。
「大丈夫?」
俺が聞く。
「大丈夫」
「足?」
「違う」
リュシアは壁際を見た。
「ここにいた」
「そうですね」
「死ぬと思った」
さらっと言われ、返す言葉に少し迷った。
あの時、リュシアは怪我をして、魔物から逃げ、知らない場所で一人になっていた。通信が偶然つながらなければ、俺たちが見つけられたかどうかも分からない。
「声が届いてよかったですね」
俺が言うと、リュシアは少し考えてから頷いた。
「ナオトたち、来た」
「来ましたね」
「人間、面倒。でも来る」
「褒められてるのかな」
神代さんが前から振り返る。
「たぶん」
「ならいいです」
会話をしながら歩けているうちは問題なさそうだった。
やがて未記録亀裂が見えてくる。
入口側には救難員が一人待機し、通信状態と時間を記録する準備をしていた。
班長が全員を見る。
「ここから先は昨日確認した範囲でも、通信が不安定になります。予定通り二十二メートル地点で一度止まります。何か一つでも昨日と違うことがあれば、その時点で戻ります」
全員が確認する。
リュシアだけは亀裂の奥をじっと見ていた。
「リュシア」
神代さんが呼ぶ。
「何」
「今からは勝手に前へ出ないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「ミナミ、疑う」
「昨日、何度も先へ行こうとしたので」
リュシアは少し不満そうだったが、最後には頷いた。
「今日はしない」
「お願いします」
班長が先頭で亀裂へ入った。
神代さんが続き、リュシアがその後ろへ身体を滑り込ませる。俺も少し間を置いて中へ入った。
入口から数メートルは、昨日聞いていた通りかなり狭い。肩を少し斜めにしなければ装備が壁へ当たり、場所によっては足を横向きに置かなければ進めなかった。
前にいるリュシアの歩き方も慎重になる。
「足、大丈夫?」
俺が聞く。
「まだ大丈夫」
「まだ、って言いましたね」
「細かい」
「今日は細かく見ます」
俺が答えると、前から神代さんの声が聞こえた。
「久世さん、その調子でお願いします」
リュシアがため息をつく。
それでも歩みは止めない。
五メートルほど進んだところで班長が一度足を止めた。
「全員通過確認します」
前から順番に声を出す。
最後尾の救難員まで返事があり、入口側とも通信できている。
「進みます」
再び歩き始める。
八メートル付近からは通路が少し広くなり、身体を正面へ向けて歩けるようになった。天井も高くなるが、二人が並べるほどの幅はない。
俺は足元の光を見る。
昨日と同じ。
俺たちの進行方向へ続いている。
「久世さん?」
神代さんが聞く。
「光は同じです」
「了解です」
リュシアが振り返ろうとした。
「前見てください」
「見たい」
「光は俺にしか見えません」
「知ってる」
「じゃあ前を」
「ナオト、細かい」
今日何回目だろう。
十二メートルを越えると、通信に少しずつノイズが入り始めた。
昨日も同じだった場所だ。
班長が入口側へ確認する。
「こちら班長。聞こえますか」
『聞こえています。少しノイズあり』
「了解」
リュシアの歩みが少し遅くなった。
俺はすぐ気づく。
「足?」
「違う」
「じゃあ何?」
リュシアは周囲を見た。
「近い」
「何が?」
「私の側」
前を歩いていた神代さんも振り返る。
「もう分かるんですか?」
「匂い」
俺には岩と湿った土の匂いしか分からない。
ただ、リュシアには別の何かを感じ取れるらしい。
「昨日より分かる」
「どんな匂いです?」
神代さんが聞く。
「草。水。石」
「こっちにも全部ありますけど」
俺が言う。
リュシアが少し考える。
「違う」
「説明難しい?」
「難しい」
「なら無理しなくていいです」
班長はその会話を聞きながら端末へ記録していた。
十五メートル地点。
昨日より通信の乱れが少し強い気がした。
班長が止まる。
「昨日よりノイズ大きくないですか?」
最後尾の救難員が端末を見る。
「数値も少し落ちてます」
「戻るほど?」
「まだ大丈夫です」
神代さんがリュシアを見る。
「何か違います?」
リュシアはしばらく周囲を見たあと、首を横に振った。
「昨日ここ来てない」
「そうか」
本人は初めてこの状態で歩いている。
リュシアがこちらへ来た時には、魔物に追われていた。どの地点で何を感じたのか、はっきり覚えていなくても不思議ではない。
班長が言う。
「予定通り進みます。ただし通信がもう一段落ちたら止めます」
十八メートル地点へ近づく。
ここから先は昨日、音の距離感がおかしくなった場所だ。
俺も意識して前後の音を聞く。
神代さんの足音。
班長の装備が擦れる音。
後ろにいる救難員の足音。
最初は普通だった。
それが数歩進むうちに、少しずつおかしくなる。
前にいる神代さんとの距離は二メートルもないはずなのに、足音だけがもっと遠くから聞こえる。
逆に、自分の呼吸だけがやけに近い。
俺は立ち止まりかけた。
「これか」
「久世さんも分かります?」
神代さんが聞く。
「はい。変ですね」
「昨日と同じです」
リュシアが俺たちを見る。
「ここ、境目近い」
「もう?」
俺が聞く。
「まだ。でも近い」
身体も少し軽い。
気のせいと言われればそうかもしれない程度だが、一歩踏み出した時の重さがさっきまでと違う。
俺は《帰り道》を見る。
光に変化はない。
いつもと同じ淡い線が、この先へ続いている。
班長が通信確認をする。
「入口側、聞こえますか」
返事がすぐには来なかった。
数秒後、ノイズの向こうから声が入る。
『……聞こえ……ます』
完全には切れていない。
班長が全員を見る。
「ここからは昨日も不安定でした。二十二メートルまであと少しですが、ゆっくり行きます」
神代さんが頷き、リュシアも黙って前を見る。
俺たちはさらに進んだ。
岩の色が徐々に変わっていく。
灰色だった壁に青みが混じり、ライトを当てても光が奥まで届きにくくなる。霧があるわけでも、何かが浮いているわけでもないのに、数メートル先から暗さが急に濃くなるように見えた。
二十メートル地点へ近づくと、匂いも変わった。
俺にも分かる。
湿った草のような匂い。
少し冷たい水の近くにいる時のような空気。
御影ダンジョンの旧採掘区画にはないものだった。
リュシアが立ち止まる。
「どうした?」
俺が聞く。
「知ってる」
声が少し違った。
「この匂い?」
リュシアは頷く。
「向こうの匂い」
神代さんが聞く。
「本当に?」
「間違えない」
昨日までの「たぶん」と違う。
班長もその違いに気づいたようだった。
「ここから先は、自分のいた場所に近いと?」
「近い」
「町そのものではない?」
「違う。外」
「町の外?」
「そう」
少しずつ情報がつながっていく。
亀裂の先が直接リュシアの町につながっているわけではない。
少なくとも、彼女が知る土地のどこかへ近づいているらしい。
班長はすぐには進まなかった。
「ここで一度、全員の状態確認します」
神代さんは問題なし。
リュシアも歩ける。
俺も後ろの救難員も異常はない。
通信は不安定だが、まだ完全には切れていない。
「二十二メートル地点まで進みます。そこで必ず止まります」
班長が念を押す。
「はい」
俺たちは再び歩き始める。
数メートルしかないはずなのに、妙に長く感じた。
前後の足音はさらに遠くなり、通信機からは細かいノイズが続いている。
それでも視界の中には全員いる。
誰も消えていない。
距離も変わっていない。
頭では分かっているのに、耳から入ってくる情報だけが違う。
二十二メートル地点。
昨日、班長たちが止まった場所に着いた。
通路の先が少し広がっている。
そこから先には、青い光が見えた。
写真で見るよりずっとはっきりしている。
壁や天井に照明があるわけではない。
奥の空間そのものが、うっすら青く明るい。
班長が手を上げた。
「ここで止まります」
全員が止まる。
リュシアだけが、目の前の光を見たまま動かなかった。
「リュシア?」
神代さんが呼ぶ。
返事がない。
「リュシア」
もう一度呼ぶと、ようやく小さく答えた。
「知ってる」
俺も前を見る。
「この光?」
「そう」
リュシアは一歩出そうとした。
神代さんが腕を出して止める。
「ここまでです」
「でも」
「約束しましたよね」
リュシアは神代さんを見る。
「向こう」
「分かっています。でも、まず確認します」
しばらく二人が見つめ合う。
先に折れたのはリュシアだった。
「……分かった」
班長が周囲を確認する。
昨日見つけた小さな足跡が床に残っている。
三本の指のような跡。
数は一つではない。
奥側からこちらへ来て、途中で引き返したものもあれば、横へ外れているものもある。
神代さんがしゃがんで確認する。
「新しいですか?」
「昨日のままだと思います。ただ、断定はできません」
班長が答える。
後ろの救難員が簡易測定器を出した。
「魔力反応、少し高いです」
「昨日より?」
「昨日はここまで測ってないので比較できません」
「了解」
俺は《帰り道》を見る。
光は目の前の青い空間へ向かっている。
そこで終わっているようには見えない。
さらに先へ続いている。
「久世さん?」
神代さんが聞く。
「光はまだ先です」
「青いところを越えて?」
「そう見えます」
リュシアがすぐ俺を見る。
「なら向こう」
「可能性は高そうです」
「行く」
「まだです」
「ナオトも?」
「俺も止めます」
リュシアが完全に不満そうな顔をした。
班長が言う。
「まず外から確認します。昨日と同じです」
神代さんがライトを青い空間へ向ける。
昨日より近いため、少し先まで見えた。
通路はさらに三、四メートル続き、その先で大きく開けているようだった。
ただ、青い光の向こうは距離感がおかしい。
近いはずなのに、奥行きがうまくつかめない。
「これ、何でしょう」
俺が言う。
班長が首を横に振る。
「分かりません」
リュシアが答えた。
「境目」
「ここが?」
神代さんが聞く。
「たぶん、この光のところ」
「越えたら?」
リュシアは少し考えた。
「私の側」
「戻ってこられる?」
班長が聞く。
リュシアはすぐには答えなかった。
「分からない」
その一言で、誰も先へ進もうとはしなくなった。
帰れる可能性はある。
でも、越えたあとに戻れる保証はない。
俺たち人間まで一緒に入る理由は、まだなかった。
班長が通信機を取る。
「入口側、こちら班長。二十二メートル地点到着。青色発光域を確認。本人は境目の可能性が高いと申告。現時点で通過はしません」
ノイズが強い。
返事は聞こえなかった。
班長がもう一度送る。
「入口側、聞こえますか」
やはり返事はない。
最後尾の救難員が端末を見る。
「完全に切れました」
「ここで?」
「はい」
昨日は多少乱れながらも、まだ通信できていた。
今日は完全に切れている。
班長の表情が少し変わった。
「長居しません。確認できることだけ確認して戻ります」
その時、神代さんが手を上げた。
「静かに」
全員が黙る。
俺も呼吸を抑える。
何か聞こえたのかと思った。
最初は分からない。
しばらくして、青い光の向こうから小さな音が聞こえてきた。
石を擦るような音。
一度だけではない。
続いている。
リュシアの表情が変わる。
「獣」
「昨日の小さいやつ?」
神代さんが聞く。
「たぶん」
班長がすぐ判断する。
「戻ります」
誰も反対しなかった。
しかし、引き返そうとした瞬間、青い光の向こうで何かが動いた。
小さい影だった。
地面に近い。
一つだけではない。
神代さんが剣へ手をかける。
「リュシア、下がって」
リュシアが俺の方へ一歩下がる。
俺もその後ろへ位置を変えた。
青い光の中から現れたのは、俺の膝より少し低いくらいの四足型だった。細い身体に長い尾があり、口元だけが妙に大きい。
一体目が止まる。
こちらを見ている。
その後ろにも影がある。
班長が低い声で言う。
「刺激しない。下がれるなら下がります」
俺たちはゆっくり後ろへ動く。
一歩。
二歩。
魔物は追ってこない。
そのまま離れられるかと思った。
次の瞬間、一体が横へ走った。
神代さんがすぐ反応する。
「来ます」
魔物が壁を蹴り、斜めから飛び込んでくる。
神代さんが剣を抜き、正面ではなく側面から刃を当てた。
狭い通路で大きく振らない。
魔物の身体が壁へ落ちる。
しかし、後ろから二体目が出てきた。
リュシアが言う。
「右!」
神代さんが身体をひねる。
二体目が低い位置から脚へ飛びつこうとしていた。
神代さんは一歩だけ足を引き、剣の柄で頭を逸らす。
魔物が俺たちの横を抜けた。
最後尾の救難員が盾代わりの装備を前へ出す。
逃げ道は狭い。
前にも後ろにも簡単には動けない。
リュシアが神代さんを見る。
「剣」
「まだ駄目です」
「来る」
「私が止めます」
三体目の影が青い光の向こうで動く。
その時、一体目だと思っていた魔物が壁際から起き上がった。
倒れていただけらしい。
神代さんの位置からは見えにくい。
「神代さん、左!」
俺が声を上げる。
神代さんが振り向くより先に、リュシアが動こうとしたのを見て、神代さんは腰に固定していた彼女の剣を鞘ごと外し、そのまま手渡した。
「無理しないで!」
リュシアは怪我をしている右脚ではなく左脚を軸に身体をずらし、剣を抜かないまま鞘ごと振るった。起き上がった魔物の頭部へ一撃を当てて進行方向を逸らすと、その隙に神代さんが前へ出て動きを止めた。
起き上がった魔物の頭に当たり、進行方向がずれる。
その隙に神代さんが前へ出て、今度は確実に動きを止めた。
「リュシア、下がってください」
「分かった」
今度は素直だった。
班長が言う。
「全員、入口側へ戻る。神代さん最後尾お願いします」
「はい」
隊列を入れ替える。
班長が先に戻り、その後ろへ救難員、俺、リュシアと続く。
神代さんが最後尾に残る。
「神代さん」
俺が振り返る。
「大丈夫です。進んでください」
「無理しないで」
「久世さんこそ前を見てください」
言い返せない。
俺はリュシアの歩調を見る。
「足は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「今は本当」
それならいい。
俺たちは二十メートル地点へ戻る。
青い光が少しずつ遠ざかる。
魔物が追ってくる音はない。
十八メートル地点を越えると、通信機にノイズが戻ってきた。
完全に切れていたものが、少しずつ音を拾い始める。
『……こちら……入口……』
班長が答える。
「こちら班長。撤収中。小型魔物三体確認、一体処理。負傷者なし」
『了解……』
通信がつながった。
それだけで、かなり安心した。
十五メートル。
十二メートル。
通路の岩が灰色へ戻っていく。
足音も普通に聞こえるようになってきた。
俺は後ろを見る。
神代さんも戻っている。
リュシアが振り返る。
「ミナミ」
「います」
神代さんが答える。
「怪我?」
「ありません」
「よかった」
神代さんが少し笑った。
「リュシアさんもですよ。傷、開いてません?」
リュシアは脇腹を確認する。
「大丈夫」
「地上で見てもらいましょう」
「大丈夫なのに」
「確認します」
「ミナミも細かい」
「久世さんと一緒にしないでください」
「そこ否定します?」
俺が言うと、神代さんは少し笑った。
緊張が少しだけ抜ける。
入口の光が見えてきた。
亀裂の外へ出ると、待機していた救難員がすぐに人数を確認した。
「五人全員確認。怪我は?」
「なしです。リュシアさんだけ念のため傷を確認してください」
班長が答える。
リュシアは嫌そうな顔をしたものの、反論はしなかった。その横で、神代さんは先ほど戦闘のために渡していた剣をリュシアから受け取り、再び自分で預かる。
「これは、まだ私が持っておきます」
「もう終わった」
「今日は安全確認なので」
リュシアは自分の剣を少し名残惜しそうに見たが、最後には神代さんへ預けた。
俺は亀裂の前で《帰り道》を見る。
光はまだ奥を示している。
魔物がいたから変わったわけでもない。
青い光の先へ、まっすぐ続いている。
班長が聞く。
「光は?」
「変わってません」
「やっぱり奥ですか」
「はい」
神代さんが亀裂を見る。
「リュシアさんの言っていた境目までは確認できましたね」
「少なくとも本人の記憶とはかなり合ってると思います」
俺が言う。
リュシアは亀裂を見る。
「向こう、私の側」
昨日までとは言い方が違う。
「今度は『たぶん』じゃないんですね」
俺が聞くと、リュシアは頷いた。
「匂いも、光も、獣も同じ。あそこは私の側」
班長が聞く。
「青い光を越えたら?」
「戻る」
「あなたが?」
「そう」
「俺たちは?」
リュシアは少し考えた。
「来なくていい」
俺はリュシアを見る。
「一人で大丈夫?」
「境目越えたら分かる。道も知ってる」
「魔物は?」
「いる。でも私の武器あれば帰れる」
神代さんが言う。
「怪我した状態で?」
リュシアは黙る。
まだそこが問題だった。
境目までは人間側が連れていける。
その先はリュシアの知っている場所らしい。
ただし、そこで一人にしていいかは別の話になる。
班長が言う。
「今日は一度戻って整理しましょう。境目まで安全に移動できることは確認できましたが、魔物もいます。それから通信が完全に切れる場所も分かった」
「次は帰れる?」
リュシアが聞く。
「そこを判断するために戻ります」
「また?」
「またです」
リュシアは大きく息を吐いた。
俺は少し笑う。
「でも、昨日より進んでますよ」
「少し」
「かなりだと思いますけど」
リュシアは亀裂を見る。
「もう見える」
「何が?」
「帰るところ」
その言葉に、俺は少しだけ返事が遅れた。
俺たちには青い光が見えただけだ。
その先が何なのかは分からない。
でもリュシアには、自分の知っている場所へ戻る境目に見えている。
管理棟へ戻ったあと、リュシアの傷を確認したが、新しい出血はなかった。
会議スペースでは、今日の記録が整理された。
二十二メートル地点で通信が完全に途絶えたこと。
青色発光域を目視したこと。
リュシアがその場所を「境目」と認識したこと。
小型四足型三体を確認し、一体を神代さんが処理したこと。
リュシアも一度だけ武器を使ったが、戦闘を続けず撤退したこと。
そして《帰り道》の方向は、戦闘前後でも変化しなかったこと。
班長は最後まで原因や意味を書き足さなかった。
「これでいいですか?」
俺が確認する。
「はい。『境目の先がリュシアさんの世界である』とは書きません。本人がそう認識していることだけ残します」
「相馬さんもそれでいいって言いそうですね」
「たぶん」
神代さんが聞く。
「明日は?」
班長は地図を見る。
「人間側として確認できるのは、かなり進みました。次に行くなら、リュシアさんを境目まで連れていって、そこで本人を帰すことを考える段階です」
リュシアがすぐ反応する。
「帰る」
「ただし、一つ問題があります」
「何」
「境目の向こうへ人間が入るかどうかです」
部屋が静かになる。
俺もそこは考えていた。
リュシアを安全に帰すなら、一緒に向こうまで行った方がいいかもしれない。
でも、境目を越えたあとに人間がこちらへ戻れる保証はない。
《帰り道》の光がどうなるのかも分からない。
リュシアは俺を見る。
「ナオト、来なくていい」
「でも途中に魔物がいる」
「向こうなら戦える」
「怪我してますよ」
「それでも知ってる場所」
神代さんが聞く。
「境目を越えたあと、町までどれくらいです?」
リュシアは少し考えた。
「近くない。でも道知ってる」
「一人で帰れる距離?」
「帰れる」
その答えが本当なら、人間が向こうへ入る必要はないかもしれない。
俺は地図を見る。
俺たちの仕事は、知らない世界を見に行くことではない。
リュシアを帰すことだ。
境目まで連れていき、その先を本人が帰れるなら、そこで救難を終えられる可能性がある。
問題は、《帰り道》がそれで終わるのかどうかだった。
俺は足元を見る。
淡い光は今も、御影ダンジョンの奥を示している。
リュシアが完全に帰った時、この光がどうなるのか。
それを確認できれば、今回の救難がどこまでなのかも分かるかもしれない。
ただし、それを確かめるために危険なことをするつもりはない。
俺はリュシアを見る。
「次に行く時は、帰るつもりで行きましょう」
リュシアの目が少し大きくなる。
「本当?」
「境目まで安全に行ける条件が整えば、です」
「また条件」
「そこは諦めてください」
リュシアは不満そうだったが、すぐに小さく笑った。
「分かった」
次にあの亀裂へ入る時は、調べるためではない。
リュシアを帰すために行く。
青い光の向こうへ俺たちが入る必要があるのか、それとも境目で見送ればいいのかは、まだ決められない。
それでも、帰る場所そのものはもう目の前まで来ていた。




