第106話 境目の手前
翌朝、御影ダンジョンの管理棟へ入ると、昨日まで使っていた第五層の地図の横に、新しい図面が一枚増えていた。
正式な地図ではない。昨日、未記録の亀裂へ入れた小型カメラの映像をもとに、確認できた範囲だけを書き起こした簡単な図だ。亀裂の入口から二十三メートルほど先まで細い通路が続き、その途中には通信映像が乱れた地点と、岩の色が変わって見えた地点が書き込まれている。
その先だけが、白いまま残っていた。
現地救難班長は、俺と神代さんがそろったのを確認してから図面を指した。
「今日はここを、人が通れるか確認します。ただし、奥へ行けるだけ行くわけではありません。目的は、昨日カメラで確認できた範囲の足場と壁面、それから通信状態の確認です」
「リュシアは?」
俺が聞く。
「管理棟で待機してもらいます」
予想していた答えだった。
昨日の時点でも本人は行くと言い張っていたが、右脚の傷も脇腹の裂傷も治ったわけではない。短距離を歩けるようになっただけで、狭い亀裂の奥へ連れていっていい状態ではなかった。
神代さんが図面を見る。
「入るのは?」
「俺と救難員一人、それから神代さんにお願いします。久世さんは入口側で待機してください」
「俺は入らなくていいんですか?」
「今日は《帰り道》を確認する日じゃありません。中の安全確認が先です」
「ですよね」
自分でも聞きながら、そう言われると思っていた。
光がどちらを向くのかは、昨日すでに分かっている。今必要なのは、その光が示している場所へ人間が実際に入れるのかを確かめることだった。
班長が続ける。
「亀裂の中は狭いです。もし一人が怪我をしても、久世さんまで入っていたら搬送の邪魔になる可能性があります。入口側に一人残ってもらった方がいい」
「分かりました」
神代さんも頷く。
「先頭は私が行きますか?」
「最初は俺が行きます。昨日の映像と図面を確認しながら進みたいので、神代さんは二番目。救難員が最後です」
「分かりました」
話がまとまったところで救護室の扉が開き、リュシアが出てきた。右脚にはまだ固定具がついているが、昨日より歩き方は安定している。
「行く?」
最初の一言がそれだった。
班長が答える。
「俺たちだけです」
リュシアの表情がすぐに曇る。
「私も行く」
「今日は安全確認です」
「私の道」
「だからこそ、先に確認します」
リュシアは班長を見たあと、俺へ視線を向けた。
「ナオト」
「俺に言っても同じですよ」
「昨日、行くと言った」
「安全が確認できたら、です」
「今日は確認する」
「だから今日は俺たちが先にやるんです」
リュシアはしばらく俺を見ていたが、納得していないのは明らかだった。それでも無理に付いてこようとはしない。昨日までより、少しはこちらのやり方を理解してくれているのかもしれない。
神代さんがリュシアへ言う。
「戻ってきたら、見たものを全部話します」
「本当?」
「はい」
リュシアは神代さんを見る。
「ミナミ、嘘つかない?」
「つきません」
「神代です」
俺が小声で言うと、神代さんはこちらを見た。
「久世さん、今はいいです」
「昨日まで大事って言ってませんでした?」
「状況によります」
リュシアが少しだけ笑った。
「ミナミ」
神代さんは何も言わなかった。
どうやら今日は諦めたらしい。
班長が時間を確認する。
「行きましょう」
準備を整え、第五層へ向かった。
今回、旧採掘区画は完全に立入禁止になっている。昨日確認した魔物については専門班が主経路側を監視しており、未記録亀裂周辺にも反応は出ていない。
それでも、何もいないと決めつける理由にはならない。
第五層西側へ入り、昨日リュシアを見つけた場所を通る。そこからさらに奥へ進むと、例の亀裂が見えてきた。
俺にしか見えない《帰り道》の光は、今日も同じ方向へ伸びていた。管理棟を出た時点から消えずに続いており、ここまで来ると亀裂の奥へ向かう線が昨日よりはっきり見える。
班長が俺に聞く。
「光は?」
「昨日と同じです。中へ向かってます」
「変化は?」
「今のところありません」
「分かりました」
班長はそれ以上、光について聞かなかった。今日は別の確認をする日だと分かっている。
亀裂の前で装備を再確認する。
入口から見ると、ただ岩の間に黒い隙間が開いているようにしか見えない。だが、その奥に二十メートル以上の通路があり、その先まで人が入った記録はない。
先頭の班長が細いライトを胸元へ固定し、腰のロープを確認する。神代さんがその後ろへ入り、三人目の救難員は測定器と予備ライトを持った。
俺は入口側で通信機を持つ。
「中で無理だと思ったら、すぐ戻ってください」
俺が言う。
班長が振り返る。
「それを久世さんに言われるとは思わなかったです」
「俺も最近、言う側が増えてきたんです」
神代さんが少し笑う。
「じゃあ行ってきます」
「お願いします」
班長が身体を横向きにして亀裂へ入る。
最初の数メートルは、人一人がやっと通れる幅しかない。胸元のライトが岩肌を近く照らし、身体を動かすたびに装備が壁へ擦れる音が響いていた。
神代さん、救難員の順に続く。
三人のライトは徐々に奥へ移動し、やがて入口から完全に見えなくなった。
姿が消えた途端、急に距離ができたように感じた。
実際には数メートル先にいるだけのはずなのに、亀裂の中へ入っただけで、こちらと向こうが別の場所になったように見える。
通信が入った。
『入口から三メートル。足場問題なし。壁面にも大きな割れなし』
班長の声はまだ近い。
俺は地図へ書き込む。
「了解」
少しして次の報告が入る。
『五メートル。幅はかなり狭いです。人一人なら通れますが、ここで倒れたら横を抜けられません』
さっきのカメラでは分からなかった情報だった。
「搬送は?」
俺が聞く。
『担架は無理です。背負っても、この幅だとかなり厳しい』
それは大きな問題になる。
リュシアを連れていく時に、途中で歩けなくなったら簡単には戻せない。
俺はそのまま記録する。
『八メートル。ここから少し広くなります』
通信越しに神代さんの声も入った。
『立って歩けます。ただし二人並べるほどではありません』
「後ろ、見えます?」
俺が聞く。
少し間があった。
『見えますけど、入口はもう見えません』
神代さんの答えだった。
俺は亀裂を見る。
こちらからも三人の姿は見えない。
狭い通路を一つ曲がっただけで、互いに直接確認できなくなっている。
班長の声が続く。
『戻る場合も一列です。中で何か出たら、方向転換は難しいですね』
「魔物の痕跡は?」
『今のところありません。昨日の血痕だけです』
少し安心したものの、「今のところ」という言葉が妙に残った。
俺は亀裂の奥を見る。
光は変わらない。
人間の地図にない通路の中へ、何も迷わず伸びている。
『十二メートル。通信、少し落ちます』
音声にざらついたノイズが混じった。
昨日、カメラ映像が乱れ始めた地点に近い。
「聞こえてます」
『こちらも……聞こえてます』
一部が途切れた。
班長の声はまだ内容を理解できるが、さっきより明らかに遠い。
『壁の色、変わってきました』
神代さんが続ける。
『昨日の映像と同じです。灰色から少し青っぽくなってます』
「触った感じは?」
『普通の岩です。ただ、冷たいです』
班長が測定器を使っているらしい。
数秒後、入口側より低い温度が報告された。大きな差ではないが、通路が深くなるにつれて少しずつ下がっている。
「リュシアが言ってた、空気が変わるってこの辺ですかね」
俺が言う。
『可能性はあります』
班長が答える。
『もう少し進みます』
俺は入口から動かず、通信に集中した。
本当なら自分でも見たい。
けれど今の俺にできることは、ここで待つことだけだ。光が見えるからといって、俺まで先へ入る理由にはならない。
『十五メートル』
ノイズが増える。
『通信……まだ使えます』
「了解」
しばらくして神代さんの声が入った。
『風があります』
「どっちから?」
『奥です。かなり弱いですけど、こっちへ流れてきています』
リュシアが言っていた「空気が違う」という感覚が頭をよぎる。
単に奥に広い空間があるから風が流れているだけかもしれない。
それでも記録はする。
『十七メートル』
班長の声。
『床に細かい砂みたいなのが増えてます』
「滑ります?」
『少し。ただ、危険なほどじゃないです』
神代さんが続ける。
『壁との距離が分かりづらくなってきました』
「暗いから?」
『それもありますけど……ライトが少し吸われてる感じがします』
言い方が気になった。
「暗くなってる?」
『光量自体は同じです。でも、先まで届かない感じです』
設備の異常なのか。
岩の色のせいなのか。
分からない。
『十八メートル』
通信に強いノイズが混じり、声が一瞬途切れた。
「班長?」
『……聞こえ……ます』
「聞こえてます」
『ここ、通信かなり落ちます』
昨日カメラ映像が乱れた地点だった。
俺は自然と通信機を強く握っていた。
「戻ります?」
『まだ会話できます。少しだけ確認します』
「無理しないでください」
『分かってます』
通信の向こうで足音が続く。
ただ、その音まで不自然だった。
さっきまでは三人分の足音が重なって聞こえていたのに、今は一人分しか聞こえないように感じる。
神代さんが何か言ったらしいが、最初の部分はノイズに消えた。
数秒後、声が戻る。
『久世さん』
「はい」
『ここ、少し変です』
「何が?」
『音です。後ろに班長たちがいるのに、足音がすごく遠く聞こえます』
リュシアが言っていたことと同じだった。
「体が軽くなる感じは?」
少し間がある。
『私は、まだ少しだけです』
班長が続ける。
『俺は分かります。足を上げる時、いつもより軽い感じがします』
最後尾の救難員も同じだと答えた。
偶然と言うには一致する点が増えている。
俺は地図を見る。
「そこから先、無理に行かない方がいいんじゃないですか」
班長も迷っているようだった。
『もう少しだけです。昨日のカメラが届いた地点まで確認して、そこで戻ります』
「分かりました」
まだ昨日確認した範囲内だ。
それ以上には入らない。
通信のノイズが増えたり減ったりする。
『二十メートル』
神代さんの声が、さっきより低く聞こえた。
『岩が完全に青っぽくなってます』
「昨日の映像と同じですか?」
『はい。それと、匂いが変わりました』
「どんな?」
『土の匂いじゃないです。草……というか、湿った葉に近いかもしれません』
この通路には植物などない。
少なくとも御影ダンジョン第五層のこの区域には、そういうものは存在しない。
俺は入口側へ流れてくる空気を意識してみたが、ここまでは何も感じられなかった。
班長の声が入る。
『二十一メートル。ここから先、床が少し下がります』
「段差?」
『緩い傾斜です。ただ、先が見えづらい』
神代さんが続ける。
『ライトを向けても、二、三メートル先までしか見えません』
「霧とか?」
『ありません。空気は澄んでます』
見えないのに、霧はない。
それが少し気味悪かった。
『二十二メートル。ここで止まります』
班長の声が入った。
俺はすぐ聞く。
「何かあります?」
返事が来ない。
代わりに、ざらざらしたノイズだけが耳に入る。
「班長?」
まだ返事がない。
俺は亀裂の入口へ一歩近づいた。
「神代さん?」
数秒だったと思う。
それでも、かなり長く感じた。
ようやく通信が戻る。
『聞こえます』
神代さんの声だった。
俺は知らないうちに息を止めていた。
「何があったんです?」
『何も起きてません。通信が切れただけです』
「びっくりさせないでください」
『すみません』
声は落ち着いている。
俺は少しだけ力を抜いた。
班長が続ける。
『二十二メートル地点です。先が広がってます』
「昨日のカメラでは、細い道が続いてるように見えましたよね」
『その少し先に空間があります。こっちからだと入口みたいに見えます』
「何があります?」
また少し沈黙。
今度は通信が切れたわけではない。
三人が向こうを見ているのだと思う。
神代さんが答えた。
『奥に、光があります』
俺は亀裂の中を見る。
入口からは何も見えない。
「照明ですか?」
『分かりません。青っぽいです』
「動いてます?」
『いえ。たぶん動いてないです』
班長の声が入る。
『これ以上進まない。ここで周囲だけ確認して戻ります』
神代さんもすぐ答える。
『了解』
判断は早かった。
俺もその方がいいと思う。
光があるから見に行く、では困る。
通信は途切れ始めている。
奥の足場も分からない。
リュシアのいた場所に近い可能性もある。
何より、戻る道が一列しかない。
何か出てきた場合、すぐに三人が並んで引くことはできない。
班長たちはその場から動かず、数分だけ周囲を確認することにした。
壁面。
床。
空気の流れ。
魔物の痕跡。
通信状態。
途中、神代さんが奥へライトを向けたらしい。
『魔物の姿はありません』
「了解」
『ただ、床に跡があります』
俺は反応する。
「足跡?」
『たぶん。小さいです』
「人ですか?」
『靴の跡にも見えますけど、形が違います。四本……いや、指みたいなのが三つかな』
救難員が写真を撮る。
神代さんが言う。
『同じ跡が何個か続いてます』
「どっち方向?」
『奥からこっちへ。それから戻ってます』
それを聞いて、少し背中が冷えた。
今は姿がない。
でも何かが、ここまで来ていた。
班長も同じことを考えたらしい。
『十分です。戻ります』
今度は誰も反対しなかった。
帰りの通信も、最初の数メートルはかなり不安定だった。
『二十……メートル』
声が切れる。
『戻……ます』
「聞こえてます」
俺は返す。
姿は見えない。
音もほとんど聞こえない。
入口から二十メートル程度しか離れていないのに、三人がどこにいるのか実感できなかった。
『十八メートル』
少しずつ音声が戻ってくる。
『通信、回復してきました』
班長の声がはっきりしてきた。
十五メートルを過ぎる頃には、神代さんの声も普通に聞こえる。
『久世さん』
「はい」
『戻ってます』
「分かってます」
『心配しました?』
「通信切れたらしますよ」
『そうですね』
冗談を言えるなら大丈夫そうだった。
それでも、姿が見えるまでは安心できない。
しばらくして亀裂の奥にライトが見えた。
最初に班長。
続いて神代さん。
最後に救難員。
三人が順番に入口から出てくる。
全員、怪我はない。
俺はまずそこを確認した。
「お疲れさまです」
班長がヘルメットを外す。
「中で確認できた範囲は、昨日のカメラとほぼ一致してます。ただ、思ったより戻りにくい場所ですね」
「狭いから?」
「それもあります。通信が落ちる地点から先は、距離感が変になります」
神代さんも頷いた。
「奥へ二、三歩進んだだけなのに、班長たちがずっと後ろにいるように感じました」
「見えてはいたんですよね?」
「はい。でも、音だけ遠いんです」
視覚と聴覚が合っていない。
それだけでも十分嫌な場所だった。
救難員が端末を見せる。
写真が何枚かある。
青みを帯びた岩。
細い通路。
三本の指のような跡。
最後の写真には、通路の先にぼんやりと青い光が映っていた。
「これです」
俺は画面を見る。
ライトの反射とは違う。
暗い通路の奥に、確かに淡い明るさがある。
神代さんが言う。
「リュシアさんが言っていた感覚は、かなり近かったと思います。音が遠くなるのも、身体が軽く感じるのもありました」
班長も頷く。
「完全に同じ現象かは分かりませんが、少なくとも説明とは一致しています」
俺は《帰り道》を見る。
光は相変わらず、その方向へ続いていた。
「一回、地上へ戻りましょう」
班長が言う。
「そうですね」
これ以上ここでできることはない。
俺たちは管理棟へ戻った。
リュシアは救護室ではなく、会議スペースで待っていた。
机の前に座っていたが、俺たちが入るとすぐ立ち上がる。
最初に見たのは神代さんだった。
「怪我ない?」
「ありません」
「本当?」
「本当です」
それで少し安心したようだった。
神代さんが端末を机へ置く。
「約束したので、見たものを全部話します」
リュシアもすぐ椅子へ戻る。
写真を一枚ずつ見せていく。
入口。
狭い通路。
青みを帯びた岩。
通信が乱れた地点。
床に残っていた小さな跡。
リュシアはそこまで黙って見ていたが、最後の青い光が映った写真で表情を変えた。
「ここ」
「知ってる?」
俺が聞く。
リュシアは画面へ顔を近づける。
「知ってる」
班長が聞く。
「何がある場所ですか?」
リュシアは少し考えてから答えた。
「境目」
日本語として意味が通じた。
神代さんが確認する。
「あなたのいた場所と、こちら側の?」
リュシアは頷く。
「たぶん、そこ」
「たぶん?」
「形、少し違う。でも光、同じ」
「青い光が?」
「そう」
俺は写真を見る。
昨日までリュシアは、この先が自分の側に近いと言っていた。今日、人間だけで確認した場所にも、本人の記憶と一致するものが出てきた。
それでも班長は断定しない。
「本人の記憶と一致する特徴を確認、と記録します」
リュシアが少し不満そうにする。
「信じない?」
「信じるかどうかとは別です。間違って記録しないためです」
「面倒」
「それはもう知ってます」
俺が言うと、リュシアが少し笑った。
神代さんが別の写真を見せる。
「この跡は?」
リュシアの表情が変わった。
「私じゃない」
「何の跡?」
リュシアはしばらく画面を見る。
「小さい獣」
「魔物?」
「たぶん」
班長が聞く。
「危険ですか?」
「一匹なら弱い。でも群れだと噛む」
「人を襲う?」
「襲う」
神代さんが俺を見る。
「やっぱり、リュシアさんをそのまま通すのは危ないですね」
「ですね」
リュシアは不満そうにする。
「私は倒せる」
「怪我してるでしょう」
「もう動ける」
「昨日よりは、です」
反論しようとしたリュシアは、神代さんに見られて口を閉じた。
俺より神代さんの方が効いている気がする。
班長が次の判断を口にした。
「明日、もう一度入ります。今度は二十二メートル地点まで行って、その先の空間を外から確認します」
リュシアが言う。
「私も」
班長はすぐには否定しなかった。
「条件があります」
「何」
「医療側が移動可能と判断すること。それから、今日確認した二十二メートルまでを自力で歩けること。途中で無理なら戻ります」
「分かった」
「勝手に先へ行かないこと」
「分かった」
「武器は神代さんが持つ」
リュシアが少し嫌そうな顔をする。
「必要なら返します」
神代さんが言う。
リュシアはしばらく考えたあと、頷いた。
「ミナミならいい」
神代さんは今度こそ何も言わなかった。
俺が見ると、少しだけ諦めた顔をしている。
「もう神代って訂正しないんですか?」
「疲れました」
「二日で?」
「久世さんが先に諦めたからです」
リュシアが俺たちを見る。
「何」
「人間の呼び方の話です」
「面倒」
「それはもう何回も聞きました」
また少し笑いが起きた。
昨日までなら、こんな会話をしていること自体が不思議だった。角のある正体不明の相手として警戒していたし、今も警戒がなくなったわけではない。
それでも、少なくともリュシアは名前のある一人として、俺たちの中へ入り始めている。
班長が机の地図を指す。
「久世さんの光は、今も?」
俺は確認した。
「はい。まだ奥を示してます」
「明日、リュシアさんを連れて二十二メートル地点まで行ったら、変化があるかもしれませんね」
「あるかもしれません。でも、変わらないかもしれません」
「ですね」
班長はそれ以上言わない。
まだ分からないものを、先に答えへしない。
そのやり方にも慣れてきた。
リュシアが地図を見る。
「ここまで行く」
二十二メートル地点を指している。
「そこで止まります」
俺が言う。
「光、先なら?」
「まず止まります」
「なぜ」
「今日、班長たちが止まったからです」
「明日、私いる」
「いても止まります」
リュシアは納得していない。
神代さんが横から言う。
「私も止めます」
「ミナミも?」
「はい」
リュシアは少し考えたあと、俺を見る。
「二人、頑固」
「よく言われます?」
神代さんに聞く。
「久世さんは言われそうです」
「神代さんも結構ですよ」
リュシアは二人を見比べてから息を吐く。
「分かった」
今度は本当に納得したようだった。
話し合いが終わったあと、俺は会議スペースを出た。
廊下の窓から御影ダンジョンの入口が見える。探索者の出入りはまだ制限されている。
普段なら普通に人が行き来する場所の地下に、今は人間の地図にない道がある。
昨日までは、その先に何があるのか想像しかなかった。
今日は少なくとも、リュシアの記憶と一致する場所が実際に亀裂の先にあることを確認した。
それでも、まだ「向こうへ行ける」とは言えない。
むしろ、実際に人が入ったことで危険な点も増えた。
狭く、誰かが倒れれば追い越せない。
通信は途中で不安定になる。
音の距離感まで狂う。
魔物の痕跡もある。
そこを負傷したリュシアと一緒に通るなら、光が見えているだけでは足りない。
隣に神代さんが来た。
「久世さん」
「はい」
「考えてますね」
「やっぱり顔に出てます?」
「かなり」
「何を考えてるかまで分かります?」
「明日、リュシアさんを連れて行って大丈夫か、とか」
「当たりです」
神代さんも窓の外を見る。
「怖いですか?」
前にも似た質問をした気がする。
「正直、少し」
俺は答える。
「今日、通信が切れた時は特に。二十メートルくらいしか離れてないのに、急にいなくなったみたいでした」
「私も中で変な感じはしました」
「どんな?」
「久世さんたちがいる側が遠くなっていく感じです。実際の距離は変わってないのに」
「戻れなくなる感じ?」
「そこまでは。でも、長くいたくはないですね」
神代さんがそう言うなら、やっぱり気のせいではない。
「それでも明日行きます?」
俺が聞く。
「リュシアさんが帰るには必要でしょうから。ただし、少しでも条件が悪ければ戻ります」
「ですよね」
「久世さんもですよ」
「俺?」
「光が出てるからって前へ行かないでください」
「そんな信用ないですか」
「あります。でも、帰すことになると少し頑固なので」
否定できなかった。
しばらくして、救護室の方からリュシアが出てきた。
俺たちを見つけると、そのままこちらへ歩いてくる。
「何してる?」
「明日のこと考えてました」
「明日、帰る」
「帰れるか確認する日です」
「同じ」
「違います」
リュシアが不満そうに俺を見る。
神代さんが言う。
「久世さんはこういうところ、細かいです」
「ミナミも」
「私は必要だからです」
「同じ」
今度は俺が笑った。
リュシアは窓の外を見る。
青い空。
昨日はそれを見て「違う」と言っていた。
今日も少し眩しそうに目を細めている。
「リュシア」
俺が呼ぶ。
「何」
「帰ったら、最初に何するんです?」
リュシアは少し考えた。
「寝る」
「普通ですね」
「疲れた」
「でしょうね」
「そのあと食べる」
「何を?」
リュシアは日本語で説明できないらしく、手で形を作る。
「丸い。焼く。中、肉」
「パンみたいな?」
「パン、知らない」
「ですよね」
神代さんが聞く。
「仲間にも会うんですか?」
リュシアの表情が少し変わった。
「会う」
「心配してるでしょうね」
「たぶん」
そこで少し黙ったあと、リュシアは窓の外を見たまま言う。
「私、戻らないと思ってるかも」
声はそれまでより静かだった。
俺は余計なことを言わなかった。
どこにいても、帰らない人を待つ側の気持ちは似ているのかもしれない。
リュシアがこちらを見る。
「ナオト」
「はい」
「明日、道見る?」
「見ます」
「帰れる?」
「それはまだ分かりません」
リュシアがまた不満そうにした。
俺は少し笑う。
「でも、帰れるようにします」
絶対に帰せるとは言えない。
それでも、帰るために必要なことはする。
そのくらいなら言っていいと思った。
リュシアはしばらく俺を見たあと、ゆっくり頷いた。
「信じる」
昨日も聞いた言葉だった。
ただ、今度は少しだけ意味が違って聞こえた。
翌日は、リュシア本人を連れて亀裂の奥へ向かう。
目的は知らない場所を見に行くことでも、魔族の世界を探すことでもない。
二十数メートル先にある境目まで、リュシアを安全に連れていけるか確かめる。
その先へ進むかどうかを決めるのは、それからだ。
帰る道が見えているからこそ、急がない。
それが今回の救難で、いちばん大事なことだった。




