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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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102/201

第102話 人の痕跡じゃない

「……そこに、いるのは……人間か?」


女性の声が、狭い側道の奥に響いた。


聞き間違いではない。目の前にいる相手は、俺たちが人間なのかどうかを向こうから確かめている。


神代さんの手は剣の柄に触れたままで、現地救難班長も前へ出ず、女性との距離を保っていた。俺もすぐには動けなかった。


相手は人の形をしている。見た目だけなら若い女性だが、暗い銀色の髪の間から見えている短い角のようなものが、素直に人間だと判断するのを難しくしていた。


最初に口を開いたのは班長だった。


「こちらは救難班です」


女性は班長を見る。


「救……難……?」


「助けを求める通信を受けて来ました。あなたが発信したんですか?」


女性の視線がわずかに揺れた。言葉の意味を一つずつ確かめているように見える。


「つう……しん……」


班長が持っている通信機を見せると、女性はそれを見た瞬間に目を細めた。


「……声。届いたのか」


「届きました」


その答えを聞いた途端、女性の肩からわずかに力が抜ける。


「よかった……」


今までより自然な日本語だった。


俺は神代さんを見る。神代さんもこちらを見ていた。少なくとも、俺たちが追ってきた声の主がこの女性であることは間違いなさそうだ。


ただ、一つ気になる。


この女性は通信機を持っていない。


班長も同じことに気づいたらしく、すぐに聞いた。


「どうやって声を送ったんです?」


女性は質問の意味が分からなかったのか、少し考えてから周囲を見回した。やがて自分が座っていた場所から少し離れた壁へ視線を向ける。


「箱。壁にあった」


「箱?」


「触った。音、した。だから……話した」


女性が指した先へライトを向けると、岩壁の陰に古い設備箱のようなものが半分埋もれていた。俺たちが普段使う通信機とは形が違うが、表面には小さな格子状の穴と、劣化した押しボタンらしきものがある。


班長が通信機を取った。


「入口側、設備担当聞こえますか」


『聞こえています』


「今いる旧側道の奥に、壁付けの古い端末があります。作業員用の通信設備が残ってましたか?」


少し間があり、向こうで図面を確認する音がした。


『……あります。旧図面上では一基あります。昔の作業員用緊急通話端末です。設備更新の対象外になってますが、中継魔石側へ回線が残っていれば救難用通信帯に乗る可能性があります』


班長が女性を見る。


「これを使って話した?」


設備の名前までは理解できていないようだったが、女性は頷いた。


「何回も」


それで、ようやく最初の疑問が一つ解けた。


女性自身がこちらの通信方式を知っていたわけではない。知らない場所で見つけた古い設備を触り、そこから何度も声を送っていた。その回線が生き残っていたから、閉場後にも救難用通信帯へ声が入ったらしい。


偶然が重なっている。


それでも、あの声が届かなければ俺たちはここへ来ていなかった。


班長は端末の位置を記録してから、改めて女性へ向き直った。


「怪我をしていますか?」


女性はすぐには答えず、自分の身体を見た。黒に近い服の脇腹部分が破れ、乾いた血が生地にこびりついている。右脚にも何かが巻かれていたが、探索者が使う包帯とは違い、細く裂いた布のように見えた。


「……少し」


「動けます?」


「歩く。長くは……無理」


声は弱いが、意識ははっきりしている。


班長は神代さんを見る。


「敵意は?」


神代さんは女性から目を離さないまま答えた。


「今のところは感じません」


女性がその言葉に反応する。


「敵……?」


班長は警戒を隠さず説明した。


「あなたが誰なのか、まだ分からないので警戒しています」


女性は神代さんの剣を見たあと、自分の横へ視線を落とした。俺もそこで初めて、そこに細長い武器が置かれていることに気づく。


剣に近い形をしているが、日本の探索者が使うものとは少し違っていた。刃はわずかに湾曲し、柄には見慣れない金属細工が施されている。


女性はその武器へ手を伸ばさず、ゆっくり両手を見える位置まで上げた。


「取らない」


「そのままでお願いします」


神代さんが答えると、女性は小さく頷いた。少なくとも、こちらの指示は理解できている。


班長が入口側へ状況を報告する。


「要救助者を発見。女性一名。意識あり、負傷あり」


そこで一度言葉が止まった。何と伝えるべきか迷ったのだと思う。


「……外見上、人間と異なる特徴あり。詳細確認中」


通信の向こうが一瞬静かになったあと、『了解。こちら待機します』と返事が来た。


班長は続けて地上本部へも同じ内容を伝えたが、余計な質問は出なかった。今は正体を確かめることより、目の前の負傷者を助ける方が先だ。その判断に少し安心する。


「近づいても大丈夫ですか?」


班長が聞くと、女性は俺たちを見回した。特に神代さんを見る時間が長い。


「剣を……抜かないなら」


神代さんが答える。


「あなたが武器を取らなければ、こちらも抜きません」


「分かった」


話は通じている。


現地救難員が救急用品を持って前へ出た。俺と班長がその後ろに続き、神代さんは少し離れた位置から全体を見られるように警戒を続ける。


近づくにつれて、女性の姿がよく見えてきた。髪はやはり銀色に近く、光の加減では灰色にも見える。肌や耳は人間と大きく変わらないが、髪の生え際から左右へ伸びる短い角だけは、どう見ても装飾品ではなかった。


根元が皮膚につながっている。


俺はそこを見続けないよう気をつけながら、女性の近くへしゃがんだ。


「名前、聞いてもいいですか?」


女性がこちらを見る。


「……名?」


「名前です」


俺は自分の胸に手を当てる。


「俺は久世直人です」


女性は口の中で確かめるように繰り返した。


「クゼ……ナオト」


「久世でいいです」


「クゼ」


少し違和感はあるが、通じている。


女性は自分の胸元へ手を置こうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。


「無理しなくていいです」


俺が言うと、女性は呼吸を整えてから口を開いた。


「私は……」


そこで言葉が止まった。何かを考えたあと、女性は首を横に振る。


「あとで」


班長が俺を見る。


俺も頷いた。名前を聞くことより、今は傷の状態を確認する方が先だ。


救難員が右脚へ視線を落とす。


「触ります」


女性が少し身体を固くしたので、俺は自分の脚を指しながら説明した。


「怪我を見るだけです」


「……分かった」


救難員が巻かれている布を慎重に確認する。


「これ、自分で巻いた?」


女性が頷いた。


「止めた」


布の下には切り傷があった。深くはないものの、この状態で長く歩けば傷口が開く可能性がある。


さらに脇腹を確認した救難員が、少し表情を変えた。


「こっちの方が気になります。出血自体は止まってますけど、傷が古い」


神代さんが少し離れた位置から聞く。


「刃物ですか?」


「分かりません。裂傷です。ただ、かなり時間は経ってます」


女性の服は丈夫そうな生地だった。それが破れるほどの傷を負っている。


「何にやられたんですか?」


俺が聞くと、女性は側道の奥へ視線を向けた。


「獣」


「魔物?」


女性の眉が動く。


「ま……もの?」


どうやら、こちらで使っている言葉は通じていない。


「ダンジョンにいる危ない生き物です。あなたを襲ったやつ」


女性は少し考えてから、もう一度「獣」と言った。


神代さんが聞く。


「どんな姿ですか?」


女性は片手を腰くらいの高さへ置く。


「四つ足?」


俺が確認すると、女性は頷いた。


「黒い。口、大きい」


「第五層に出る四足型かもしれません」


班長が言ったが、女性はその言葉をほとんど理解できていないようだった。


救難員が脇腹の傷を処置するため服を少しずらすと、女性の身体には他にもいくつか古い傷が残っていることが分かった。細いものもあれば、かなり大きな傷跡もある。少なくとも、今回初めて危険な場所へ入った人には見えない。


「痛かったら言ってください」


救難員が薬剤を使うと、女性が顔をしかめた。


「痛い」


「ごめんなさい。でも必要です」


「分かる」


言葉はたどたどしい。それでも、会話は成立している。


人間とは違う特徴があるのに、目の前にいる女性の反応はこれまで助けてきた負傷者と大きく変わらなかった。痛ければ痛いと言い、知らない相手を警戒し、助けが必要なら声を送る。そして、この場所から帰りたいと願っている。


「久世さん」


神代さんに呼ばれ、俺は立ち上がった。


「はい?」


「少し来てもらえます?」


女性から数メートル離れたところで、神代さんが床を示した。


「これです」


そこには黒い跡が残っていた。


血だった。


女性が座っている場所から、側道のさらに奥へ向かって点々と続いている。


「この人の?」


「たぶん」


神代さんがライトを当てる。すでに乾いており、量も多くない。


「こっちから来た?」


俺が聞く。


「そう見えます。私たちが回り込んできた側とは反対です」


つまり、女性はこの空洞よりさらに奥から歩いてきて、ここで動けなくなったことになる。


班長もこちらへ来た。


「昨日の捜索でこの奥は確認してませんよね」


神代さんが聞くと、班長は地図を開いた。


「地図上では行き止まりです」


「行き止まり?」


画面を見ると、この古い側道は十数メートル先で終わっている。少なくとも施設に残っている記録では、そこから先に道はない。


「確認します?」


俺が聞く。


班長は女性の方を見た。


「まず搬送準備です。そのあと短距離だけ確認します」


優先順位は変えない。


それでいいと思う。


処置を終えた救難員が言った。


「歩かせない方がいいです。脇腹の傷もありますし、かなり脱水してます」


「担架入ります?」


「この幅なら簡易担架でいけます」


班長が入口側へ連絡する。


「簡易担架をこちらへ。水も追加でお願いします」


『了解』


女性は会話の一部しか理解できていないようだったので、俺が説明した。


「歩かなくていいです。俺たちが運びます」


「運ぶ?」


「はい」


「私は、歩ける」


「でも長くは無理なんですよね」


女性は少し迷ってから答えた。


「……そう」


「なら運びます」


少し不満そうな顔をする。


神代さんが横から言った。


「今無理して歩いて、傷が開いた方が困ります」


女性が神代さんを見る。


「あなた……強い」


突然の言葉に、神代さんも少し驚いたようだった。


「分かるんですか?」


女性は頷いた。


「立ち方で」


神代さんの表情が少し変わる。警戒が増したというより、相手を見る目が変わったように見えた。


「あなたも戦う人ですか?」


女性は答えなかった。ただ、自分の横に置かれた武器へ一度視線を向ける。


それだけで十分な答えだった。


班長が言う。


「武器はこちらで預かります」


女性がすぐ顔を上げた。


「必要です」


「地上まで行く間だけです。勝手に処分はしません」


「返す?」


「返します。ただし、安全確認はさせてください」


女性は班長をしばらく見たあと、なぜか俺へ視線を向けた。


「久世」


「はい」


「返す?」


俺に聞かれても困る。


「俺が決めることじゃないですけど、地上まで行ったらちゃんと確認します。勝手になくしたりはしません」


班長も横から頷いた。


女性がどこまで理解できたのかは分からないが、最後には武器から手を離した。


班長がそれを持ち上げる。


見た目以上に重かったらしく、受け取った瞬間に腕がわずかに下がった。


「重いな……」


神代さんも武器を見る。柄の素材も刃の色も、俺たちが普段見ているものとは違っている。


「金属……ですよね?」


俺が聞くと、神代さんは刃を見ながら答えた。


「金属には見えますけど、私は見たことないですね」


班長も首を傾げる。


「地上で確認します」


女性は少し不安そうに自分の武器を見ていた。


「ちゃんと返してもらいましょう」


俺が言うと、女性がこちらを見る。


「……ナオト」


「久世です」


「クゼ?」


「そうです」


「ナオトではない?」


「名前は直人ですけど、普通は久世って呼びます」


女性はしばらく考えたあと、確かめるように言った。


「クゼ・ナオト」


「まあ、それでもいいです」


神代さんが横で少し笑う。


「久世さん、説明諦めました?」


「難しいので」


女性は何が面白いのか分からない顔をしていたが、その程度のやり取りができるくらいには緊張が緩んでいた。


それでも疑問は増えるばかりだ。


この女性はどこから来たのか。


なぜ名簿にいないのか。


どうして完全ではないにしても日本語を話せるのか。


そして、髪の間から伸びている角は何なのか。


簡易担架が届くまでの間、班長と神代さんは女性が来たと思われる奥側を短距離だけ確認することになった。


俺もついていく。


「久世さんは要救助者のそばにいてもいいですよ」


班長が言う。


「行きます」


「何で?」


「気になるので」


神代さんがこちらを見る。


「正直ですね」


「隠しても顔に出るらしいので」


最近、そればかり言われている。


女性のそばには救難員一人を残し、俺たちは奥へ進んだ。


血の跡を追うと、数メートル先には壁へ身体を擦ったような跡があり、そのさらに先には小さな布切れが落ちていた。


神代さんが拾わずにライトを当てる。


「服と同じ素材ですね」


「本人の?」


「たぶん」


班長が写真を撮る。


「昨日ここまで入ってないんですよね」


俺が聞く。


「入ってません。崩落側からは届かなかったので」


血の跡はさらに続いていた。


地図上ではすぐ行き止まりになるはずで、実際に少し進むと岩壁が現れた。


「ここで終わり?」


俺が聞くと、班長は端末を見る。


「地図ではそうです」


神代さんが壁へ近づいた。


「でも、風があります」


「風?」


俺も近づいてみると、ごく弱い冷たい空気が流れている。


班長がライトを壁へ向ける。


岩壁の右下に、人一人が横向きで通れるかどうかという幅の隙間があった。自然にできた亀裂にも見えるが、暗がりはそのまま奥へ続いている。


「これ、地図にないですよね」


「ないです」


班長の声が低くなる。


神代さんが床を見る。


「血がここまで続いてます」


隙間の手前にも、女性のものと思われる血が残っていた。


俺はその奥を見る。


「向こうから来た?」


誰もすぐには答えなかった。


班長が通信機を取る。


「地上へ。旧側道最奥で未記録の亀裂を確認。要救助者の移動痕が内部から続いています」


『了解。入らないでください』


返事は即座だった。


「もちろんです」


俺も同じ判断だった。


要救助者はすでに見つけている。今ここで、正体の分からない通路へ入って危険を増やす必要はない。


「戻りましょう」


班長の言葉で引き返そうとした時、神代さんが壁際へライトを向けた。


「これ、何でしょう」


そこには薄い板状の金属片が落ちていた。表面に細かな模様が刻まれているが、日本語でもアルファベットでもなく、俺には見覚えのない記号だった。


「装備の一部?」


俺が聞く。


神代さんは先ほど預かった女性の武器を思い出したように言う。


「同じような金属に見えます」


班長は写真を撮ってから、直接触れないよう回収用の袋へ入れた。


「これも地上で確認します」


見慣れない武器に、読めない文字。


入口の記録にも残っていない。


俺は考えた末に言う。


「外国人って可能性は?」


神代さんがこちらを見る。


「角のある?」


「そこが一番難しいんですけど」


「それ以外にも、入口記録がありません」


「ですよね」


自分で言っておいて、かなり無理があると思った。


女性のところへ戻ると、簡易担架の横で少量ずつ水を飲んでいた。付き添っている救難員の指示には素直に従っている。


俺たちを見ると、女性はすぐ奥へ視線を向けた。


「見た?」


「奥?」


俺が聞くと、女性は頷いた。


「来た道」


全員の視線が集まる。


「やっぱり、あそこから来たんですか?」


女性は言葉を探しながら答えた。


「向こう。そこから……落ちた」


「落ちた?」


「道、壊れた」


「どこから?」


女性の顔が曇る。


「帰る場所」


またその言葉だった。


班長が落ち着いて聞く。


「その隙間の向こうに仲間はいますか?」


女性はすぐに首を横に振った。


「今は、いない」


「今は?」


そこには答えなかった。


神代さんが少し前へ出る。


「あなたは、このダンジョンの外から来たんですか?」


女性は質問の意味を考えているようだった。


「外……?」


「地上です」


まだ分からない顔をしている。


俺は上を指した。


「空があるところ」


女性の目が少し開いた。


「空……」


「そこから来た?」


女性はゆっくり首を横に振った。


「違う」


では、どこから来たのか。


女性は奥の亀裂へ視線を向ける。


「向こう」


「向こうって、何があるんですか?」


女性は答えようとして口を開いたが、なかなか言葉が出てこない。日本語でどう表現すればいいのか分からないのかもしれない。


しばらく考えたあと、区切りながら言った。


「家。町。仲間」


そして最後に、少し疲れたように息を吐く。


「帰りたい」


今度は通信越しではない。


目の前で、はっきりと聞こえた。


家があり、町があり、仲間がいる。


言葉だけなら、これまで助けてきた人たちと何も変わらない。


班長は少し考えてから話を切り替えた。


「まず、ここを出ます」


女性の表情が変わる。


「出る?」


「安全な場所へ行きます。怪我を治療します」


女性は奥の亀裂を見る。


「帰る道と、反対」


「今は治療が先です」


「でも……」


「その身体で戻れますか?」


女性は答えられなかった。


班長の判断は正しい。


ただ、女性が不安になる理由も分かる。


帰りたい場所とは反対方向へ、知らない人間たちに連れていかれるのだから、不安にならない方がおかしい。


「戻ってきます」


俺が言うと、女性だけでなく班長と神代さんまでこちらを見た。


「怪我を見てもらって、安全を確認したら、帰りたい場所のことも一緒に考えます」


班長が少し眉を寄せる。


「約束できます?」


「帰せるかどうかまでは約束できません。でも、帰りたいって言ってる人を、そのまま無視はしません」


女性は俺をじっと見た。


「ナオト」


「久世です」


「クゼ……」


少し迷ってから、女性は言った。


「信じる」


予想していたより重い言葉だった。


俺はそんな大したことを言ったつもりはない。


班長が小さく息を吐く。


「久世さん、軽く約束しないでください」


「軽くは言ってないです」


「なら余計にです」


「すみません」


神代さんが女性を見る。


「今は治療を受けてください。帰る話は、そのあとです」


二人の視線がぶつかる。


女性は少しだけ顎を上げた。


「あなたは?」


「神代美波です」


「カミシロ……ミナミ」


「神代で大丈夫です」


女性が俺を見る。


「また?」


「そういう文化なんです」


俺が答えると、女性は困ったような顔をした。


「難しい」


「俺も説明するの難しいです」


神代さんが小さく笑い、女性も少しだけ警戒を緩めたように見えた。


救難員が担架を準備する。


「乗せます」


「分かった」


今度は抵抗しなかった。


担架へ移す時には脇腹の傷が痛んだのか、女性が顔をしかめた。神代さんも手を貸し、右側へ負担が集中しないよう身体の位置を調整する。


準備が整うと、俺たちは来た道を戻り始めた。


崩落側道を回り込んだ場所まで戻る途中、女性は何度か奥を振り返っていた。そのたびに、俺もあの地図にない亀裂が気になった。


彼女が来た場所は、あの先にある。


それでも今は、調べる時ではない。


崩落地点の手前まで戻ると、入口側に残っていた設備担当者が女性を見て一瞬動きを止めた。おそらく髪の間から見える角に気づいたのだろう。


「……その人?」


「要救助者です。質問は地上で」


班長がすぐ答えると、設備担当者はそれ以上何も言わずに頷いた。


再び全員で担架を囲み、主経路へ向かう。


ここまで戻れば通信状態は正常で、地上へも状況を逐次報告できる。


女性は途中から目を閉じていた。眠っているわけではないようで、呼吸は少し荒い。


「大丈夫ですか?」


俺が聞く。


「疲れた」


「もう少しです」


「どこへ?」


「入口です」


女性は少し考える。


「空?」


俺は一瞬迷ってから答えた。


「そうです」


女性が目を開く。


「空、ある?」


「あります」


その反応が少し変だった。


まるで、こちらに空があること自体を確かめているように見える。


「嫌ですか?」


「分からない」


「見たことない?」


女性は首を横に振った。


「ある。でも……違う」


意味はまだ分からなかった。


それ以上は聞かず、搬送を続ける。


第五層の主経路へ戻ると、立入制限のおかげで一般探索者の姿はなかった。そのまま第四層、第三層と上がっていく途中も、女性は人工的な照明や壁、階段まで珍しそうに見ていた。


「本当にここ知らないんですね」


俺が言う。


「知らない」


「このダンジョンも?」


「ダン……ジョン?」


「今いる、この場所です」


「知らない」


無登録探索者どころではない。


この場所そのものを知らないらしい。


神代さんが班長へ小声で言う。


「地上に出す前に、警備側へ連絡した方がいいですね」


「もうしてます」


「騒ぎになりますね」


「避けられません」


俺も同じことを考えていた。


角のある女性をそのまま管理棟へ運び込めば、完全に隠すことは難しい。それでも怪我人を地下へ留めておく理由にはならない。


第二層へ上がる途中、地上から通信が入った。


『地上より。受け入れ準備完了。救急担当待機。一般探索者の導線を一時変更します』


「了解」


班長が返す。


第一層まで戻る頃には、出口から外の明るさが見えていた。


女性の視線がそこへ向く。


「光……」


「地上です」


担架が出口を越えると、外の空気と自然光が一気に入ってきた。


女性は眩しそうに目を細め、そのまま空を見上げる。


青い空には、雲が少し浮かんでいる。


しばらく見上げたまま動かなかった。


「どうです?」


俺が聞く。


女性は少し考えてから答えた。


「違う」


「何が?」


「空」


それ以上は言わなかった。


地上側の救急担当がすぐに近づいてくる。


班長が指示する。


「まず治療を。感染対策も確認してください。人間と同じ処置でいいか分からないので、強い薬剤は避ける方向でお願いします」


救急担当は女性の角へ一瞬視線を向けたが、すぐに頷いた。


「分かりました」


女性が救護室へ運ばれたあと、俺たちは管理棟の別室へ通された。


班長、神代さん、俺。それに設備担当者も少し遅れて入ってくる。


最初に班長が口を開いた。


「整理します。要救助者一名。人型で女性に見える。日本語で限定的な意思疎通が可能」


設備担当者が続ける。


「入場記録なし。入口監視映像にも該当者なし。それと、本人が使ったと思われる旧作業員用緊急通話端末ですが、さっき図面と回線記録を確認しました。回線は通常運用から外れていましたが、中継魔石側への接続だけ残ってます」


「じゃあ、あの声は本当にそこから?」


俺が聞く。


「少なくとも受信記録とは合います。端末を操作した時刻までは残らない古い設備なので断定はできませんけど、仕組み上は可能です」


これで、救難用通信に声が入った理由は説明できた。


ただし、女性がどうしてあの亀裂の向こうから来たのかという一番大きな疑問は残ったままだ。


神代さんが言う。


「本人は旧側道最奥の未記録亀裂から来たと話しています」


「向こうに家と町と仲間がいるとも言ってました」


俺が付け加える。


班長がこちらを見る。


「そこ、記録します?」


「本人が言ったこととしてなら」


「そうですね」


設備担当者が少し迷ってから言う。


「問題は、あの角ですよね」


誰もすぐには答えなかった。


角だけではない。


見たことのない武器や服、読めない文字、知らない金属。このダンジョンそのものを知らず、地上へ出た時には空を見て「違う」と言った。


一つずつなら無理やり説明を考えられるかもしれない。


でも、全部そろうと難しい。


神代さんが言った。


「人間ではない可能性を考えるべきだと思います」


部屋が静かになる。


その言葉を聞いても、不思議と驚かなかった。もう目の前で見ている。認めていなかっただけで、俺自身も同じ可能性を考えていたのだと思う。


「じゃあ、何なんでしょう」


俺が聞いたが、誰も答えられなかった。


その時、ドアがノックされ、救急担当が入ってきた。


「処置、ひとまず終わりました」


班長が聞く。


「状態は?」


「脇腹の裂傷と右脚の切創。出血は止まってます。脱水と疲労が強いです。ただ、人間と同じ基準で見ていいのか判断できない点があります」


「何です?」


「体温が高いです。人間なら明らかに発熱している数値なんですが、本人は普通だと言っています」


救急担当から聞いた数値は、確かに人間なら高熱と言っていいものだった。それでも本人は会話ができており、呼吸にも大きな乱れはないらしい。


「他にも?」


「脈も少し違います。異常なのか、本人にとっての正常値なのか、こちらでは判断できません」


班長が額を押さえる。


「医療側には?」


「連絡済みです。人間と同じ基準で強い処置をしない方がいいだろうという判断です」


当然だと思う。


何も分からない相手に、人間の正常値だけを当てはめることはできない。


俺が聞く。


「本人は?」


「起きてます。それと、久世さんを呼んでます」


「俺?」


「はい」


神代さんがこちらを見る。


「何か約束したからじゃないですか」


「帰ることを一緒に考えるって言っただけです」


「十分だと思います」


班長も立ち上がった。


「俺も行きます」


神代さんも続き、三人で救護室へ向かった。


女性はベッドに横になっていた。脇腹には新しい処置が施され、右脚も固定されている。武器は部屋の外で保管されていた。


俺たちが入ると、女性はすぐこちらを見る。


「クゼ」


「はい」


もう訂正するのはやめた。


「帰る」


「その話ですね」


女性が頷く。


「ここ、違う場所」


「どこと?」


女性は言葉を探しながら答えた。


「私の……ところと」


「国?」


「国……」


反応を見る限り、少し違うらしい。


俺は別の言葉を探す。


「世界?」


女性の目がわずかに動いた。


「せかい」


「違う世界?」


すぐには答えず、言葉の意味を確かめるように考えたあと、女性はゆっくり頷いた。


班長も神代さんも黙っている。


俺の喉が少し乾いた。


「あなた、人間じゃないんですか?」


今さらの質問だった。


女性は俺を見ると、まるで当然のことを聞かれたような顔をする。


「違う」


神代さんの表情が少し固くなる。


「では、あなたは何ですか?」


女性は今度こそ迷わず答えようとした。


その瞬間、建物の外から警報音が鳴った。


一度では終わらず、二度目の警報と同時に救護室の通信機も作動する。


『管理棟、地下側警戒。第五層旧採掘区画で魔物反応増加』


班長がすぐ通信を取った。


「数は?」


『複数。西側です』


女性の表情が変わる。


「来た」


全員が彼女を見る。


「何が?」


神代さんが聞くと、女性はベッドから起きようとした。


「待ってください」


俺が止める。


女性は脇腹の痛みに顔をしかめながらも、奥歯を噛みしめた。


「獣」


「さっき言ってたやつ?」


女性が頷く。


「私を追った」


班長が通信へ確認する。


「反応、地上へ向かってる?」


『まだ第五層。旧区画内を移動中』


女性が神代さんを見る。


「剣」


「あなたの武器?」


「返して」


「今は無理です」


神代さんが答えると、女性の目が鋭くなった。


「来る」


「地上には上げません。現地班で対応します」


班長が言ったが、女性は首を横に振った。


「違う。人間も、食う」


部屋の空気が変わった。


魔物が人間を襲うこと自体は珍しくない。それでも、女性の言い方には「自分たちだけを狙うものではない」という意味が含まれているように聞こえた。


神代さんが一歩近づく。


「あなたも襲われたんですよね」


「そう」


「なら、あなたとその獣は仲間ではない?」


女性の眉が寄る。


「仲間?」


「同じ側ではない?」


女性は一瞬、本気で質問の意味が分からないような顔をしたあと、俺たちを見回した。


「なぜ同じと思う?」


神代さんが黙る。


俺も何も言えなかった。


女性は自分の角に触れる。


「これ?」


どうやら、俺たちが何を見て判断していたのかに気づいたらしい。


怒っているようにも、呆れているようにも見える。


「私は、あれではない」


声が少し強くなった。


再び警報が鳴る。


神代さんが女性を見る。


「では、何ですか?」


女性は神代さんを見たあと、俺へ視線を向けた。


そして今度こそ、はっきり答えた。


「魔族だ」


聞いたことのある言葉ではあった。


昔話やゲームの中でなら。


けれど、目の前の女性は冗談を言っているようには見えない。彼女にとって、魔物と魔族は明確に別の存在らしい。


その違いを裏付けるように、通信機から第五層の報告が入った。


『旧区画内で魔物を目視。四足型三体。互いに争った痕跡あり。血痕、複数確認』


班長が聞く。


「人型の痕跡は?」


『あります。さっきの要救助者のものと思われます。それと……』


「何です?」


『魔物の死体が一体あります。斬られてます』


神代さんが女性を見る。


「あなたが?」


女性は小さく頷いた。


「逃げるために」


それを聞いて、俺の中でも少しずつ状況がつながっていく。


この女性は、あの魔物たちから逃げていた。


少なくとも、今分かっている範囲ではそれが一番自然だ。


角があり、人間ではない。


その見た目だけで、俺たちは無意識に魔物と同じ側かもしれないと考えていた。


けれど女性自身は、最初からそんなことは一度も言っていない。


彼女が訴えていたのは、ここから帰りたいということだけだった。


俺は女性を見る。


「魔族って、何です?」


女性は少しだけ目を見開いたあと、疲れたように息を吐いた。


「……長い」


「ですよね」


神代さんがこちらを見る。


「久世さん、今聞きます?」


「いや、後でいいです」


班長も額を押さえた。


「後でお願いします」


警報はまだ止まっていない。


それでも、さっきより一つだけ分かったことがある。


俺たちが見つけたのは、名簿にいない人間ではなかった。そして、少なくとも本人の認識では魔物でもない。


人間とは別の存在で、自らを魔族と呼んでいる。


それが何なのか、今の俺たちにはまだ分からない。


ただ、彼女にも家があり、町があり、仲間がいる。その全部から離れた場所で怪我をし、知らない場所で助けを求めていた。


だったら、まずは救難として考えればいい。


今の俺に分かるのは、それくらいだった。

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