第101話 名簿にいない声
# 第101話 名簿にいない声
翌朝、救難所へ着くと、小日向が俺の顔を見るなり一枚の紙を持ち上げた。
「久世さん、昨日のこれ覚えてます?」
昨日の帰り際に「緊急ではない救難依頼が一件ある」と言っていた紙だ。
「明日見るって相馬さんが言ってたやつ?」
「それです」
俺はバッグを机の横へ置き、紙を受け取った。
一番上に書かれているのは、御影ダンジョンという名前だった。名前くらいは知っている。ここから車で一時間少し。深さはそれほどでもないが、天然洞窟に近い区域と人工的に整備された区域が混在しているダンジョンだったはずだ。
ただ、依頼内容を読み始めてすぐに手が止まった。
「これ、救難依頼なの?」
「一応」
「誰を助けるの?」
「そこが問題なんです」
小日向が椅子をこちらへ向けた。
紙には行方不明者の名前も人数も書かれておらず、負傷者も遭難届も、帰還予定を過ぎている探索者もいない。その下には、今回の依頼理由だけが記載されていた。
救難用通信帯に、発信者不明の音声を複数回確認。
「無線?」
「そうです」
「誰かが助けを求めてる?」
「その可能性はあるんですけど、入ってる人は全員確認できてます」
俺はもう一度紙を見る。
「全員?」
「御影ダンジョン側が過去三日分まで調べています。入場記録と退場記録も合ってるし、昨日の閉場時点でも中に残ってる登録探索者はいません」
「無登録で入った人とか?」
「最初はそれを疑ったみたいです」
小日向が端末を操作し、別の資料を出した。
「入口の監視記録も見直して、施設関係者や納品業者まで確認済み。今のところ、中に残ってるはずの人が見つからないそうです」
「じゃあ、何で救難依頼?」
「声が入ったからです」
「どんな?」
小日向が少し迷ってから、机の上に小型のスピーカーを置いた。
「音声データ来てます」
再生すると、最初に聞こえたのはザーッという一定の雑音だった。時々、何かが擦れるような音が混じる。
しばらくして、遠くから人の声らしきものが聞こえた。
『……て……』
そこで音が途切れる。
俺はスピーカーを見る。
「今の?」
「はい」
続きが再生された。
『……け……』
また雑音。
声はかなり遠く、男女の区別すらつかない。言葉になっているようにも聞こえるし、単なるノイズにも聞こえた。
「これだけ?」
「最初は」
小日向が次の音声を再生する。
こちらは少しだけ鮮明だった。雑音の向こうから、息を切らしているような声が聞こえる。
『……たす……け……』
俺は眉を寄せた。
「助けて?」
「現地もそう聞こえたみたいです」
「日本語?」
「たぶん」
「たぶん?」
「音が悪すぎるので」
確かに、「たすけて」と思って聞けばそう聞こえる。ただ、違う言葉だと言われれば、そうなのかもしれない。
三つ目の音声は、さらに短かった。
『……かえ……』
そこで切れる。
「帰る?」
「現地では『帰りたい』かもしれないって」
「そこまで聞こえないけど」
「僕もそう思います」
小日向がスピーカーを止めた。
どうにも変な依頼だった。誰かが中にいるなら探せばいいが、記録上は誰もいないことになっている。
「機械の故障は?」
「確認済み。救難用の通信帯そのものには異常なし。同じ設備を使って他の通信もできてます」
「誰かのいたずら?」
「それも考えてるそうです」
「外から電波飛ばせないの?」
「簡単にはできないみたいですよ。御影ダンジョンの下層用通信は、中継魔石を通してるので」
俺は紙を置いた。
「ますます分からない」
「だから昨日は緊急扱いじゃなかったんです」
なるほど。
助けを求めているかもしれない声はある。ただし、助けを求めている人間が存在する証拠がない。
昨日の高峰ダンジョンとは逆だった。あの時は三十七人全員の位置が分かっていたが、今回は声だけがある。
「現地の救難班は?」
「昨日一度入ってます」
「捜索した?」
「しました。発信が強かった第五層西側を中心に。ただ、人は見つかってません」
「痕跡も?」
「今の報告だと、決定的なものはなし」
そこへ相馬さんが奥から出てきた。
「来たか」
「来ました。これ見てます」
俺が紙を持ち上げると、相馬さんは頷いた。
「どう思う」
「分かりません」
「それでいい」
最近、この答えを褒められることが増えた気がする。
「でも、本当に誰かがいるなら放っておけないですよね」
「だから行く」
「俺たちが?」
「久世と神代さん。現地班に合流しろ」
俺は少し引っかかった。
「《帰り道》で探すんですか?」
相馬さんの眉が動く。
「できるのか」
「できません」
「なら何で聞いた」
「確認です」
《帰り道》は人を探す能力ではない。誰かがどこにいるかを教えてくれるわけでもなく、今、一緒に帰る相手がいて初めて意味がある。
「お前は普通の救難員として行け」
「はい」
「声の主を見つけるまでは、《帰り道》を使っても意味がないと思え」
「分かってます」
相馬さんはさらに紙を一枚差し出した。御影ダンジョンの簡易図だった。
「現地班が昨日確認した範囲だ。第五層西側の旧採掘区画。今は探索者もほとんど入らない」
「立入禁止?」
「禁止ではない。ただ、旨味がない」
「素材が少ないとか?」
「魔石も少ない。通路も狭い。攻略目的で行く理由がない」
地図を見ると、第五層の西側だけ細い線が何本も枝分かれしている。
旧採掘区画。
天然洞窟の一部を昔の施設側が拡張した区域らしく、現在使われている主経路からは外れていた。
「声はここから?」
「正確な位置までは取れてない」
小日向が補足する。
「第五層の中継魔石三か所で受信してるんですけど、西側ほど強い。ただ、反響もあるので断定できないそうです」
「広そうだな」
「昨日の班は二時間探してます」
「それでも見つからない?」
「はい」
相馬さんが言う。
「今日もう一回入る。施設側も設備担当を出す」
「神代さんは?」
「もう来てる」
振り返ると、入口から神代さんが入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
神代さんは俺の机の上を見る。
「御影ダンジョンですね」
「もう聞いてます?」
「相馬さんから概要だけ」
「誰もいないのに声がするやつです」
「言い方が怖いですね」
「俺も言ってから思いました」
小日向が音声をもう一度再生する。
神代さんは黙って聞いていた。最初の二つでは表情が変わらなかったが、三つ目の短い音声で少し眉を寄せる。
『……かえ……』
再生が終わった。
「どう聞こえます?」
俺が聞くと、神代さんは少し考えた。
「人の声には聞こえます」
「言葉は?」
「分かりません。ただ、意図的に何かを伝えようとしている感じはあります」
「俺よりちゃんとした答えだ」
「久世さんは?」
「『助けて』と思えばそう聞こえるし、違うと言われれば違うかも」
相馬さんが言う。
「現場で確かめろ」
「はい」
出発準備を始める。
今回は昨日のような大人数退避ではない。持っていくのも、ロープ、ライト、簡易救急用品、予備バッテリー、通信機、水といった普通の救難装備だった。
小日向が地図データを端末へ送る。
「昨日の現地班の移動記録も入れますね」
「ありがとう」
「あと、音声が入った時刻」
一覧を見る。
最初が昨日の午前十時十二分、次が十二時四十七分、三回目が十五時三分。さらに夜間、閉場後にも一度だけ不明瞭な音声が入っている。
「夜も?」
「自動監視中に記録されたそうです」
「中に誰もいない時間?」
「登録上は」
嫌な言い方だ。
「今日も声入ってる?」
「今のところなし」
「じゃあ、行っても何も起きない可能性もある?」
「あります」
相馬さんが言う。
「その時は帰ってこい」
「ですよね」
「何もないのに話を作るな」
「作りませんよ」
救難で何も起きないなら、それが一番いい。今回も、通信設備の誤作動でしたで終わるかもしれない。
そう思いながら車に乗った。
御影ダンジョンへ向かう途中、神代さんは助手席で昨日の記録を確認していた。俺は後部座席で、現地から送られてきた地図をもう一度見る。
「神代さん」
「はい?」
「これ、本当に人だったらどうして名簿にいないと思います?」
「無登録で入った」
「入口の映像にはいない」
「別の場所から入った」
「そんな入口あるんですかね」
「分かりません」
「遭難して何日もいる」
「それなら過去の未帰還者記録に出るでしょう」
「ですよね」
結局、どれも引っかかる。
神代さんが端末から顔を上げた。
「久世さん」
「はい」
「考えすぎない方がいいと思います」
「また顔に出てました?」
「少し」
「何だろう。最近隠せなくなってきた」
「前からでは?」
「そうですか?」
「はい」
あっさり言われた。
「神代さんは何だと思ってます?」
「分かりません」
「相馬さんと同じ」
「分からないことは分からないので」
「それもそうですね」
車はそのまま御影ダンジョンへ向かい、到着したのは午前十時前だった。
入口は高峰ダンジョンほど大きくない。二階建ての管理棟があり、その横に地下へ続く広い入口がある。探索者も普通に出入りしており、今回の件で全面閉鎖にはしていないらしい。
ただし、第五層西側の旧採掘区画だけは一時的に立入制限がかかっていた。
車を降りると、四十代くらいの現地救難班長が迎えに来た。
「久世さん、神代さん。ありがとうございます」
「よろしくお願いします」
「状況変わりました?」
俺が聞くと、班長は首を横に振った。
「今朝はまだ音声なしです。ただ、昨夜の自動記録を聞き直したら、少し気になるものがありまして」
「気になる?」
「中で聞いてもらいます。その前に確認を」
管理棟へ入ると、会議スペースに地図が広げてあった。現地救難員が二人、設備担当者が一人。全員、昨日も捜索に入っているらしい。
班長が指で地図を示す。
「昨日は第五層西側、ここからここまで確認しました」
主経路から分かれた旧採掘区画には細い通路がいくつもあり、赤い線で昨日捜索した経路が示されている。
「全部?」
神代さんが聞く。
「人が通れるところはほぼ。ただ、崩落で奥へ入れない側道が二本あります」
「声の強い方向は?」
設備担当者が地図の一角を指す。
「この辺りです」
崩落している側道に近い。
「中継魔石は?」
「ここ、ここ、ここ」
三か所だった。確かに西側ほど受信強度は高いが、壁や岩で反射するため、発信源までは絞れないらしい。
「昨日、人の痕跡は?」
俺が聞くと、班長が答えた。
「はっきりしたものはありません」
「足跡も?」
「古いのはいくらでもあります。昔は作業員も入っていた区域なので」
「最近のは?」
「判断できません」
設備担当者が続ける。
「床が岩なので、靴跡自体残りにくいです」
「血とか装備とか」
「見つかってません」
神代さんが地図を見る。
「魔物は?」
「小型を二体確認。排除せず回避しました」
「危険度は高くない?」
「通常なら。ただ、奥から何が来るかは分かりません」
現地救難班長の答えは慎重だった。相馬さんと似ていて、少し安心する。
「久世さんの能力についても確認していいですか?」
班長が聞いた。
「はい」
「声の主が近くにいる場合、《帰り道》で見つけられます?」
「無理です」
即答する。
「俺が一緒に帰る人として認識してる相手がいて、その人も含めた帰る道が見えるだけです。いない人を探す方向は出ません」
「なるほど」
「なので今日は普通に探します」
「お願いします」
昨日の高峰ダンジョンでは俺の光が中心にあったが、今日は違う。人を探すなら、人の目と耳を使うしかない。
班長が最後に、昨夜記録された音声を再生する。
ノイズが長く続き、最初は何も聞こえない。十秒ほどして低い声が混じった。
『……い……』
そこで消え、さらに五秒ほどすると、
『……か……』
という音が雑音に混じった。
俺は首を傾げる。
「分からない」
神代さんも黙っている。
班長が言った。
「もう一度」
二回目は集中して聞く。
『……い……』
『……か……』
たしかに声には聞こえる。ただ、日本語なのかどうかまでは分からない。
「昨日の『助けて』の方がまだ聞きやすいですね」
俺が言う。
「そうなんです」
「これが気になる理由は?」
設備担当者が画面を指した。
「時間です」
記録された時刻は、午前三時十八分。
「閉場後?」
「はい」
「誰も入ってない?」
「施設職員も第五層にはいません」
「設備の音じゃなくて?」
「少なくとも音声帯域として記録されています」
分からないことがまた増えた。
班長が時計を見る。
「現場で確認しましょう」
俺たちは装備を整えた。
今回入るのは、現地班長、救難員二人、設備担当者、俺、神代さんの六人。設備担当者は第五層の通信設備確認も兼ねている。
入口で入場記録を取り、そのまま地下へ向かった。
第一層は整備された通路で、普通に探索者の姿がある。俺たちが救難装備で歩いているせいか、何人かがこちらを見た。
第二層、第三層と下りても特に異常はない。
途中で神代さんが一度だけ立ち止まった。
「どうしました?」
「いえ。何でもないです」
前方を見ると、普通の探索者パーティが通り過ぎただけだった。
第四層から地形が変わり、人工的に削られた壁が減って天然の岩肌が増えていく。第五層へ下りる頃には、空気も少し冷たくなっていた。
班長が通信確認をする。
「地上、聞こえますか」
『良好です』
設備担当者も端末を確認した。
「中継正常」
そのまま主経路を西へ進む。
しばらく歩くと立入制限の表示が見えた。ここから先が旧採掘区画で、一般の探索者はいない。
班長が俺たちを見る。
「昨日と同じところから入ります」
「はい」
扉を開けると、中は一気に暗くなった。
壁の照明はあるものの間隔が広いため、俺たちもライトを使う。通路の幅は三人並べる程度で、ところどころ天井も低い。
昔、ここを採掘や調査に使っていたらしい。
「声、昨日はここでも聞こえたんですか?」
俺が聞く。
「直接じゃありません。通信に入っただけです」
「肉声は?」
「なし」
つまり、声の主が実際に近くにいたのかどうかさえ分からない。
歩きながら周囲を確認する。床には石が転がり、古いケーブルや壁に固定された中継設備が残っている。人が隠れられそうな窪みもあり、昨日の班が確認した印が壁についていた。
「ここから右」
班長が言う。
通路が二つに分かれている。地図ではどちらも旧区画だが、俺たちは受信が強かった右側へ進んだ。
十分ほど歩いたが、何もない。
設備担当者が途中の中継魔石を確認する。
「正常」
さらに奥へ進んだところで、床に黒い染みが見えた。
神代さんがしゃがむ。
「血ですか?」
俺が聞く。
神代さんは指では触れず、ライトを近づけた。
「違うと思います」
設備担当者が言う。
「機械油ですね。昔の設備から漏れた跡です」
期待していたわけではないが、少し肩透かしだった。
班長が言う。
「昨日も確認してます」
「そうですよね」
さらに進む。
左側に小さな部屋があったので中を確認したが、古い棚と壊れた工具箱があるだけで、人はいなかった。
再び通路へ戻って先へ進むと、通信に雑音が増えた。
設備担当者が端末を見る。
「この辺、少し不安定です」
「昨日も?」
「はい」
班長が地上へ連絡する。
「第五層西側、第二中継付近。通信状況確認」
『少しノイズありますが受信できています』
「了解」
その時だった。
通信機から音がして、全員が止まった。
ザーッという雑音。
班長が通信機を持ち上げる。
「今、地上から何か言いました?」
返事が来る。
『こちら発信してません』
また雑音。
その中に、
『……し……』
と声が混じった。
昨日の録音より近く、はっきりしている。
誰も動かない。
『……て……』
俺は班長を見る。班長もこちらを見ていた。神代さんだけは、通路の奥へ視線を向けている。
「今の」
俺が言う。
「聞こえました」
班長が答えた。
地上からも通信が入る。
『こちらでも受信。音声確認しました』
「発信位置は?」
設備担当者が端末を見る。
「待ってください」
また音がする。
『……かえ……』
息を飲みそうになる。
今回は俺にも、そう聞こえた。
帰る。
いや、
『……かえり……』
続いた。
班長が通信へ向かって声を出す。
「こちら御影救難班。聞こえますか」
雑音だけで返事はない。
「こちら御影救難班。あなたの位置を教えてください。怪我をしていますか?」
それでも返事はなかった。
設備担当者が画面を見ながら言う。
「西です」
「どのくらい?」
「この先。第三中継より奥かもしれません」
「昨日入った?」
「入ってます。ただ、奥の崩落地点までです」
班長はすぐに進行を決めた。
「行きます」
俺たちは奥へ進む。
さっきまでの捜索とは空気が違った。
本当に誰かいる。
少なくとも、そう思える声だった。
「神代さん」
「はい」
「聞こえましたよね」
「聞こえました」
「帰りたいって」
「私はそう聞こえました」
俺もだ。
今度はノイズのせいだけにはしにくい。
通路は徐々に狭くなり、第三中継設備へ着いた。
設備担当者が確認する。
「ここが一番強い」
「この先?」
「はい」
さらに進むと、壁の一部に古い採掘跡が残っており、ところどころ崩れている。昨日の捜索印もあった。
「昨日はどこまで?」
班長がライトを向ける。
「この先の分岐まで。その先、右が崩れてます」
分岐に到着すると、左は普通に人が通れるが、右側は大きな岩で半分ほど塞がれていた。
「声の方向は?」
設備担当者が端末を動かす。
「……右です」
全員で崩落側を見る。
「昨日ここ確認したんですよね?」
俺が聞く。
「しました」
「奥に人がいる可能性は?」
「隙間はあります。ただ、人が通れるかは見てません。崩落を動かす必要があるので」
神代さんが岩の隙間を見る。
「空気は通っています」
班長が地上へ報告する。
「発信源候補、第五層西側崩落側道。これから内部確認します」
『了解。無理に崩落を触らないでください』
「分かってます」
俺は周囲を見る。
人がいるなら、まず声をかけるしかない。
「聞こえますか! 救難です! 声が聞こえたので来ました!」
返事はない。
少し恥ずかしいが、必要なことだ。
班長も続けて呼びかける。
「中にいるなら返事してください!」
それでも何もない。
設備担当者が通信機を見る。
「今は発信なしです」
神代さんが岩の隙間へ近づいた。
「少し待ってください」
全員が黙る。
神代さんが耳を澄ませ、俺も音を聞こうとする。遠くで水が落ちる音と、設備の低い振動。それ以外は何も聞こえない。
「何か?」
俺が聞く。
神代さんはすぐには答えなかった。
「……分かりません。何か擦れる音がしたような」
班長が岩を見る。
「中を確認します。ただし、崩落は動かさない」
隙間は床近くにある。
ライトを差し込んだあと、救難員が細いケーブルの先にレンズがついた小型カメラを取り出した。
「入れます」
隙間からカメラを差し込む。
画面には岩や土が映り、その少し先に空洞が見えた。
「通路続いてますね」
設備担当者が地図を見る。
「昔の側道かも」
「地図には?」
「途中までしか残ってません」
カメラをさらに奥へ入れると、画面が揺れた。
「何かある」
救難員が止める。
画面の端に、黒っぽい布のようなものが一瞬映った。
「戻して」
班長が言う。
カメラを少し引き、向きを変える。
黒い何かが見える。
岩ではない。
「服?」
俺が言ったが、誰も答えない。
さらに角度を変えると、今度ははっきり布が見えた。その横には細い何かもある。
手?
「人?」
救難員が言う。
画面の奥で何かが動き、カメラがぶれた。
直後、通信機から激しいノイズが流れる。
『……っ……』
声だ。
今度は近い。
全員が通信機を見る。
『……かえ……り……』
班長がすぐ呼びかけた。
「聞こえます! こちら救難班です! あなたの位置は分かりました!」
ノイズだけが返ってくる。
「動けますか! 怪我をしていますか!」
返事はない。
そして、今度はそれまでより長い音声が入った。
『……かえり……たい……』
俺は何も言えなかった。
聞き間違いじゃない。
はっきり日本語に聞こえた。
班長も神代さんも黙っている。
通信の向こうから地上側の声が入った。
『こちらでも確認しました』
班長が答える。
「了解」
その声は少し硬かった。
俺はカメラ画面を見る。
奥にいる誰かは動いている。
生きている。
「助けられますよね」
俺が聞く。
班長は岩を見た。
「まず入口を確認します。無理に動かして二次崩落させたら終わりです」
「はい」
「設備担当、旧図面出せます?」
「確認します」
神代さんはカメラ画面から目を離さない。
「久世さん」
「はい」
「まだ《帰り道》は見ないでください」
「分かってます」
まだ相手と合流しておらず、誰なのかも分からない。今は探して、たどり着くことが先だ。
それでも頭の中には、さっきの声が残っていた。
帰りたい。
俺たちが何度も聞いてきた言葉だ。怪我をした探索者も、遭難したパーティも、帰れなくなった作業員も、言い方は違っても結局同じだった。
帰りたい。
だから助ける。
今回も、それだけなら何も変わらない。
「図面出ました」
設備担当者が端末を開く。
「この側道、昔はさらに奥へ続いてます。七、八メートル先で少し広くなる」
「別の入口は?」
班長が聞く。
「反対側から入れる可能性があります」
地図を拡大すると、崩落した側道の奥から細い線が別の通路へつながっている。
「こっち」
設備担当者が指す。
「左側の通路を回れば、奥側へ出られるかもしれません。ただ、今もつながってるかは分かりません」
班長が即座に決めた。
「崩落は触らない。回ります」
全員が動き始め、俺も後ろについていく。
分岐を左へ進む。地図では大きく回り込む形だ。
歩きながら通信機を確認するが、今は声がない。
「班長」
「はい?」
「相手、日本語話してますよね」
「そう聞こえます」
「でも名簿にはいない」
「そうです」
「入口にも映ってない」
「今考えても答え出ません」
「ですよね」
相馬さんと同じことを言われた。
神代さんが後ろから言う。
「見つければ分かります」
「それが一番早いですね」
通路を進み、五分ほどで地図上の接続地点に近づいた。
ただ、こちら側も完全には開いていない。岩が積もっているものの、崩落側より隙間は大きく、人一人なら少し除けば通れそうだった。
班長が周囲を確認する。
「上の岩は?」
救難員がライトを当てた。
「安定してます。手前の小さいものだけなら動かせます」
「大きいのは触るな」
「了解」
作業を始める。
俺も手伝い、小さい岩を一つずつ運ぶ。
最近、本当に石を運ぶことが増えた。
「久世さん」
神代さんが横から呼ぶ。
「はい?」
「また荷物係ですね」
「相馬さんに言わないでください」
「もう知ってると思います」
「ですよね」
少しだけ笑った。
緊張しているからこそ、こういう会話がありがたい。
岩をどけていくと隙間が広がり、人が横向きなら通れそうになった。
救難員が先に入る。
「中、確認します」
班長が止める。
「一人で奥まで行かない。入口見える範囲まで」
「了解」
救難員が身体を滑り込ませる。
ライトの光が奥へ動く。
数秒後、声が聞こえた。
「通路あります!」
「人は?」
「まだ見えません」
班長、神代さん、俺も順番に中へ入る。設備担当者ともう一人の救難員は入口側に残った。
奥は思ったより広く、壁は自然岩に近い。古い側道の床には細かい石が散らばっている。
「さっきのカメラは?」
救難員が方向を指す。
「あっちだと思います」
数メートル進むと、ライトの先に何かが見えた。
黒い布。
壁際に、人が座っている。
「いた!」
俺が声を上げる。
救難員が手を上げた。
「ゆっくり!」
全員が速度を落とす。
相手はこちらを見ていた。
まだ距離があるため顔まではよく見えないが、人の形をしている。細い肩に長い髪。女性に見えた。
「救難です!」
班長が声をかける。
「聞こえますか!」
相手が動いた。
立とうとしたのか身体が傾き、神代さんが一歩前へ出る。
「無理に動かないでください」
女性は何か言った。
聞き取れない。
「日本語分かりますか?」
俺が聞く。
少し間が空いたあと、相手の口が動いた。
「……にん……げん……」
全員が止まった。
「え?」
俺は思わず聞き返した。
女性が顔を上げ、ライトの光が届く。
若い。
見た目だけなら神代さんと同じくらいだろうか。
髪は暗い銀色に見え、顔は人間とほとんど変わらない。
ただ、額の横――髪の隙間から、短い角のようなものが見えた。
神代さんの手が剣へ動き、現地班長も息を止める。
女性はこちらを見る。
特に神代さんの剣を見たあと、俺の方へ視線を向けた。
そして、途切れながら言った。
「……そこに、いるのは……人間か?」
誰もすぐには答えられなかった。
名簿にいない声の主は、確かにそこにいた。
でも、その姿を見てしまうと、今度は別の意味で分からなくなる。
この人は、本当に人間なのか。
それでも一つだけ、もう分かっていることがある。
彼女は、ここから帰りたがっている。




