第100話 遭難する前に
高峰ダンジョンから戻った翌朝、救難所へ着くと、俺の机の上に紙の束が置かれていた。
一瞬、場所を間違えたかと思った。
隣の机を見る。
小日向の机にはいつもの端末と資料。
相馬さんの机にも書類はあるが、俺のところほど積まれていない。
つまり、間違いではないらしい。
「……これ、何?」
椅子へ座る前に聞くと、小日向が端末から顔を上げた。
「おはようございます」
「おはよう。それで、これ何?」
「昨日の分です」
「昨日の何?」
「問い合わせ」
聞きたくない答えだった。
紙の束を一枚持ち上げる。
高峰ダンジョン全員退避に関する確認。
大規模退避時の《帰り道》運用について。
救難協力の可否について。
研修への参加依頼。
合同訓練の打診。
似たような見出しが並んでいる。
「俺、昨日三十七人帰してきたんだけど」
「知ってます」
「今日も三十七枚くらいあるんだけど」
「四十二件です」
「増えてるじゃん」
小日向が笑った。
「全部久世さん宛てじゃないですよ。救難所宛てです」
「じゃあ俺の机に置かないでよ」
「空いてたので」
「相馬さんのところも空いてるよ」
「置いたら戻されました」
なるほど。
押しつけられたらしい。
俺は紙を元へ戻す。
身体は昨日よりましだったが、階段を上がったり下りたりしたせいで脚にはまだ重さが残っている。
第二森下ダンジョンでは石を運び、高峰ダンジョンでは三十七人の退避。
最近、戦えないはずなのに筋肉痛になる仕事が多い。
「神代さんは?」
「向こうで装備の確認してます。昨日使った剣も点検に出すそうです」
「手は?」
小日向が俺を見る。
「手?」
「ちょっと擦ってたから」
「直接聞けばいいじゃないですか」
「来たら聞く」
「そうしてください」
何か含みがある言い方だったが、追及するほど元気はない。
俺が椅子に座ると、奥から相馬さんが出てきた。
「来たか」
「来ました」
「身体は?」
「筋肉痛です」
「それは昨日聞いた」
「まだ継続中です」
「怪我は」
「ないです」
「なら仕事しろ」
休ませてくれる雰囲気はなかった。
相馬さんは俺の机の紙束から数枚抜き取る。
「全部読む必要はない」
「最初から読む気なかったです」
「威張るな」
相馬さんが選んだ紙を俺の前へ置いた。
「この三つだけ目を通せ」
見ると、どれも昨日の退避に直接関係する内容だった。
高峰ダンジョン管理側からの経過報告。
現地救難班からの活動記録。
もう一つは、地域の救難連絡会からの照会。
「最後の何です?」
「昨日のやり方について聞きたいらしい」
「やり方?」
「大人数をどう退避させたか」
小日向が椅子を寄せてくる。
「久世さんの《帰り道》だけじゃなくて、班分けとか待避地点の使い方も聞かれてます」
「そっち?」
「そっちの方が大事じゃないですか?」
言われてみればそうかもしれない。
昨日、俺がやったことだけを抜き出せば、道を見て先頭を歩いただけだ。
第六層で十四人を一列にした時は、最初の曲がり角で指示が最後尾まで届かなかった。
結局、何人かずつの班に分け、無線で位置をつなぎ、待避地点を順番に使った。
三浦さんが転んで列が止まった時も、前にいる班を先へ動かして受け入れ場所を空けた。
後ろから魔物が来た時は、神代さんたちが最後尾を守り、俺は前を進めた。
改めて考えると、《帰り道》だけで三十七人を帰せたわけではない。
「昨日の記録、もう来てるの?」
俺が聞く。
小日向が端末を操作した。
「現地の速報版だけです。正式版は後日です」
画面をこちらへ向ける。
そこには時刻と人数が並んでいた。
高峰ダンジョン地下滞在者、三十七名。
第三層側八名、先行退避。
第五層、第六層側二十九名、段階的退避。
退避中、一名右足負傷。
最終的に三十七名全員地上。
「三浦さんは?」
「骨折じゃなかったそうです」
相馬さんが答えた。
「重めの捻挫。しばらく休めば戻れる」
「よかった」
昨日、本人は地上へ出た瞬間に立とうとしていた。
あの調子なら、休めと言われても歩き回りそうな気がする。
「神代さんたちも怪我なし?」
「A級三人を含めて大きな負傷なし。擦り傷と打撲が少し」
「大型は?」
「討伐部門が処理した」
相馬さんはそれだけ言った。
高峰ダンジョンは今も閉鎖中らしい。
内部に上がってきた魔物の数を確認し、崩落箇所と設備を点検している。再開時期は未定。
もう俺たちの仕事ではない。
そう思えるのは、昨日地下にいた人が全員帰れたからだ。
小日向が別の記録を開く。
「あと、これ面白いですよ」
「面白い?」
「久世さんの《帰り道》が途中で変わったところ」
第三層中央。
最初は主階段へ伸びていた光が、途中から東側管理迂回路へ変わった。
そのあと地上側から主階段を確認したところ、第二層側に大型の魔物がいた。
「これ、どう書いたの?」
「事実だけです」
小日向が読み上げる。
「『第三層移動中、《帰り道》の進行方向が中央経路から東側管理迂回路へ変化。その後、中央経路第二層側に大型魔物を確認』」
「それだけ?」
「それだけです」
相馬さんが横から言う。
「それ以上書くな」
「分かってますよ」
小日向が答える。
「《帰り道》が魔物を避けた、とは書いてません」
俺も頷いた。
光が変わった理由は分からない。
結果として大型を避ける道だっただけだ。
もしかしたら魔物以外の理由があったのかもしれないし、偶然かもしれない。
第二森下ダンジョンでも同じだった。
分からないことを、分かったことにしない。
最近、そればかり覚えている気がする。
「でも、問い合わせする側はそこ聞きたがりそうですね」
俺が言う。
「もう来てます」
小日向が紙を一枚持ち上げる。
「『《帰り道》は動的な危険回避機能を持つのか』」
「持ってないって答えれば?」
相馬さんが俺を見る。
「お前、分かるのか」
「分かりません」
「ならそう答えろ」
「『分かりません』でいいの?」
「分からないものを何て答えるんだ」
正しい。
たぶん一番正しい。
「問い合わせ四十二件、全部それで返したら怒られそうだけど」
「全部同じ質問ならな」
小日向が笑う。
「実際、似たようなの結構ありますよ」
「じゃあテンプレ作ろう」
「『分かりません』だけの?」
「丁寧にして」
「『現時点では分かりません』」
「一文字しか増えてない」
そんな話をしていると、入口の扉が開いた。
神代さんだった。
いつもの格好だが、昨日使っていた剣は持っていない。
俺はすぐ左手を見る。
「手、大丈夫ですか?」
神代さんが自分の手を見る。
「大丈夫ですよ」
「昨日擦ってたじゃないですか」
「表面だけです。処置もしました」
「ならよかった」
小日向が俺を見る。
やっぱり何か言いたそうだ。
無視する。
神代さんは机の上の紙束に気づいた。
「これは?」
「昨日のせいです」
俺が答える。
「久世さんが何かしたんですか?」
「何で俺だけ」
「机の上にあるので」
「小日向が置いたんです」
「空いてたので」
小日向が同じ説明をする。
神代さんが一枚取った。
「合同訓練の依頼?」
「それも来てるみたいです」
「昨日の退避について?」
「たぶん」
神代さんは少し意外そうだった。
「《帰り道》を見せてほしい、ではないんですね」
「そうみたいです」
以前なら、外から来る依頼の多くは俺のスキルそのものを求めていた。
この場所へ来てほしい。
このダンジョンで道を見てほしい。
救難に同行してほしい。
それが今回は、班分けや退避運用についての問い合わせが混じっている。
少し変わった。
「久世さん」
小日向が呼ぶ。
「何?」
「昨日、一番大変だったのどこです?」
「急だな」
「記録の補足に入れたいので」
考える。
魔物が追ってきた第五層。
三浦さんが転んだところ。
開かなかった管理扉。
大型を止めてもらった五分。
どこも大変だった。
でも、一番と言われると少し違う気がする。
「最初の十四人かも」
「第六層?」
「うん」
小日向が首を傾げる。
「まだ魔物来てなかったですよね?」
「だから」
俺は昨日のことを思い出す。
十四人を一列にして退避路へ入った。
最初の曲がり角で右だと言った。
前の人には聞こえた。
その後ろへ伝わり、さらに後ろへ伝わる途中で、
「何?」
と返ってきた。
あの瞬間だ。
「今までと同じやり方じゃ駄目だって分かったところ」
小日向が端末へ入力する手を止めた。
「人数が多かったから?」
「そう。道は見えてたし、通路も使えた。でも俺が先頭歩くだけじゃ全員帰せなかった」
神代さんが隣で頷く。
「それで班に分けたんですよね」
「はい」
「だったら、一番大変だったというより、一番大事だったところかもしれませんね」
「そうかも」
小日向が何か入力する。
俺は覗き込んだ。
「何て書いたの?」
「『大人数退避では、経路の提示と退避集団への伝達手段を分けて考える必要あり』」
「急に報告書っぽい」
「報告書です」
「さっきまで『見えず』とか書いてたのに」
「あれから成長したんです」
昨日から一日しか経っていない。
相馬さんが小日向の画面を見る。
「それは残せ」
「はい」
「あと、班の人数」
「五名前後です」
「固定するな」
小日向が手を止める。
「昨日はそれでうまくいきましたけど」
「場所も人も違えば変わる」
「なるほど」
「『小集団へ分割』くらいにしろ」
「分かりました」
相馬さんは自分の席へ戻ろうとして、もう一度振り返った。
「昨日の成功例を、そのまま次の正解にするなよ」
俺が聞く。
「俺にも言ってます?」
「全員にだ」
「はい」
二日前と似ている。
第二森下ダンジョンでも、一度の出来事だけで能力のルールを決めるなと言われた。
今回は運用の話だ。
三十七人を六班に分けてうまくいったからといって、次も同じ人数で分ければいいわけではない。
結局、現場で見るしかない。
便利な万能回答は、なかなか増えないらしい。
その代わり、できる人は増えている。
俺一人で全部やらなくていいということは、昨日よく分かった。
「そういえば瀬川は?」
俺が聞く。
小日向が時計を見る。
「今日は午後からです。別件の記録整理してから来るって」
「昨日いたら喜びそうだったのに」
「三十七人の人数管理ですか?」
「たぶん」
《記録》を持つ瀬川なら、一人ずつ数え続けていそうだ。
第六層で十四人、第五層で二十九人、先行八人を含めて三十七人。
昨日は現地救難側がそれを管理していた。
人数を間違えない。
誰がどこにいるのかを分からなくしない。
あれも立派な救難だった。
「次に同じ規模の退避があったら、瀬川も候補か」
俺が言うと、相馬さんがすぐ返した。
「勝手に人員決めるな」
「候補って言っただけです」
「本人の経験も現場も見て決める」
「厳しい」
「当たり前だ」
でも、否定はされなかった。
少し前なら、大規模な救難に瀬川を出す話自体が出なかったかもしれない。
あいつも少しずつ、できることが増えている。
俺も同じだろうか。
《帰り道》自体は変わっていない。
戦えるようになったわけでもない。
それでも、最初の頃より救難の現場で見るものは増えた。
光だけを見るのではなく、怪我人を見る。
人数を見る。
一緒に動く人を見る。
誰に任せるかを見る。
昨日は、後ろで神代さんたちが戦っているのに、俺は前を歩いた。
今までなら、あれでよかったのか何度も考えていたかもしれない。
今も心配はした。
でも、戻らなかった。
戻っても役に立たないからだ。
「久世さん」
神代さんに呼ばれる。
「はい?」
「また考え込んでません?」
「ちょっとだけ」
「顔で分かります」
「最近みんな分かるようになってません?」
小日向が答える。
「久世さん分かりやすいので」
「そうかな」
相馬さんまで言う。
「分かりやすい」
三対一だった。
反論は諦める。
午前中は、高峰ダンジョンの記録確認でほとんど終わった。
俺が《帰り道》を見た場所。
方向が変わった場所。
各班の移動。
三浦さんが転倒した位置。
管理扉が開かなかった時間。
神代さんたちが後方で接触した魔物の数。
大型を止めた時間。
どれもできるだけ事実だけを残す。
神代さんにも戦闘部分の確認が入った。
「最初の接触が小型七以上。そのうち?」
小日向が聞く。
「私たちが直接対応したのは三体です」
「倒したのは?」
「三体。ただ、途中で離れた個体は追ってません」
「大型は?」
「倒していません。進路を塞いで、近づいた時だけ押し返しました」
「五分?」
「正確には、後方班が下がり始めるまで四分台。そのあと第二管理扉まで移動する時間があります」
小日向が入力する。
「役割は?」
「A級の方たちと分担しました。一人が正面、二人が左右。私は第六班へ向かう個体を優先して止めています」
俺は横から聞く。
「怖くなかったですか?」
神代さんが俺を見る。
「怖かったですよ」
意外だった。
いや、怖くないわけがないのだろう。
「神代さんでも?」
「大型ですよ」
「普通に怖いんですね」
「私を何だと思ってるんですか?」
「S級」
「S級は感情なくなる資格じゃありません」
それもそうだ。
神代さんは少しだけ考えてから続けた。
「でも、やることは決まってましたから」
「五分止める?」
「はい。倒す必要がなかったので、それは楽でした」
「大型相手に楽って言わないでください」
「そういう意味じゃありません」
小日向が笑いながら入力する。
「そこ記録に入れます?」
「入れないでください」
神代さんが即答した。
昼前になり、紙の束は半分ほど減った。
問い合わせのうち、すぐ返答できるものは小日向が分類している。
残りは相馬さん判断。
俺が読む必要があるものは、本当に数件だけだった。
「助かった」
俺が言う。
小日向が顔を上げる。
「何がです?」
「四十二件全部読まなくていいこと」
「読んでもいいですよ」
「遠慮します」
その時、また電話が鳴った。
小日向が取る。
「はい、救難所です」
俺は何となくそちらを見る。
昨日から電話が多い。
小日向が相手の話を聞く。
「はい……はい。昨日の高峰ダンジョンについてですね」
やっぱり。
「合同訓練ではなく、実際の退避計画の相談?」
少し間が空く。
小日向の表情が変わった。
困ったというより、判断に迷った顔だ。
「少々お待ちください」
受話器を押さえ、相馬さんを見る。
「隣県のダンジョン管理局です。大規模退避計画を見直してるらしくて、救難側から意見が欲しいそうです」
相馬さんが眉を寄せる。
「何でうちだ」
「昨日の高峰の件を聞いたみたいです」
「久世を寄越せって?」
「いえ」
小日向が首を横に振った。
「《帰り道》を使いたいんじゃなくて、能力者一人に依存しない退避運用について聞きたいって」
俺は相馬さんを見る。
相馬さんも少し黙った。
これは今までと少し違う。
俺を貸してほしいでもない。
《帰り道》を使わせてほしいでもない。
昨日やったことの中から、俺以外でも使える部分を知りたいという話だ。
「資料だけ送れ」
相馬さんが言う。
「人は?」
「今すぐ出さなくていい。まず相手の計画を送ってもらえ」
小日向が頷く。
「分かりました」
電話へ戻る。
俺は相馬さんに聞いた。
「行かないんですね」
「まだな」
「断るわけでもない?」
「必要なら協力する」
いつもの答えだった。
必要なら使う。
必要じゃないなら使わない。
人も、能力も、それ以外も。
この救難所はずっとそうやってきた。
「でも増えましたね」
俺が言う。
「何がだ」
「救難の仕事」
相馬さんは少し考える。
「仕事自体は前からある」
「そうなんですか?」
「遭難者を拾って帰すだけが救難じゃない」
昨日、俺も似たことを考えた。
相馬さんは机の上にある高峰ダンジョンの報告書を指で軽く叩いた。
「事故が起きる前に止められるなら、その方がいい。帰れなくなる前に帰せるなら、その方がいい」
「でも、昨日はもう崩落してましたよ」
「人が巻き込まれる前だった」
確かにそうだ。
深層で大きな崩落が起きた。
魔物も上がってきた。
十分に事故ではある。
でも、三十七人の探索者について言えば、最初の時点では全員無事だった。
最後まで行方不明者は出なかった。
途中で三浦さんが怪我をしたが、置いていかずに帰せた。
「救難って、どこから救難なんですかね」
俺が聞く。
相馬さんが嫌そうな顔をする。
「面倒なこと聞くな」
「ちょっと気になって」
「必要な人間を帰せばいい」
「答えになってるような、なってないような」
「十分だ」
相馬さんらしい。
小日向が電話を終える。
「資料送ってもらうことになりました」
「いつ?」
「今日中だそうです」
俺が言う。
「早いね」
「向こうも昨日の件で慌ててるみたいですよ。高峰みたいなことが自分たちのところで起きたら、今の退避計画で対応できるか確認したいって」
神代さんが聞く。
「高峰は特殊だったんですか?」
小日向が答える。
「規模の割に、複数階層へ探索者が散らばってましたからね。それに主経路が使えなくなって、途中で魔物も上がってきた」
「三十七人って、そこまで多くないと思ってました」
俺が言うと、全員に見られた。
「何?」
小日向が聞く。
「昨日は多いって言ってましたよね?」
「実際多かったけど、ダンジョン全体なら百人とか入ってるところもあるのかなって」
相馬さんが答える。
「ある」
「じゃあ昨日の三倍とか?」
「時間帯によってはもっとだ」
俺は黙った。
昨日、二十九人になった時点で景色が違うと思った。
あれが百人。
想像したくない。
小日向が楽しそうに言う。
「久世さん、百人の先頭どうです?」
「嫌だよ」
「即答」
「十四人で一回失敗してるんだよ」
神代さんが言う。
「でも、今なら最初から分けられますね」
「そうですけど」
「昨日よりは上手くできます」
それはたぶん本当だ。
同じ条件なら。
でも、相馬さんが言った通り、次は同じ条件ではない。
人数も通路も、負傷者の有無も魔物の状況も通信状態も、そのたびに違う。
だから結局、その時に考える。
「久世さん」
小日向がまた端末を見る。
「もう一件、これ確認していいですか?」
「何?」
「昨日の退避に参加した探索者からコメントが来てます」
「コメント?」
「正式な報告じゃなくて、現地管理側の聞き取り」
小日向が読み上げる。
「『最初、《帰り道》の人が来ると聞いて、その人についていけば帰れると思っていた。でも実際は、自分たちも班の位置や前後を確認しながら動く必要があった』」
「うん」
「続きがあります」
「どうぞ」
「『最後まで何をしているのか分からないまま連れていかれるより、自分が何番目の班で、前がどこまで行っていて、後ろがどこにいるか分かった方が安心できた』」
俺は少し意外だった。
昨日は、とにかく混乱させないために班を分けた。
安心させるためにやったわけではない。
でも、結果としてそうなったらしい。
神代さんが言う。
「自分の状況が分かるのは大きいと思います」
「そういうものですか」
「久世さんだって、後ろの状況が全然分からなかったら嫌でしょう?」
「嫌ですね」
「同じです」
確かに。
昨日、俺は後ろで神代さんたちが戦っている間、通信があるだけでもかなり違った。
何体いる。
どこまで下がった。
あと何分必要。
全部分からず前を歩けと言われたら、もっと落ち着かなかったはずだ。
小日向が続ける。
「あと、別の人から『神代美波が最後尾にいると聞いて安心した』」
「それは分かる」
俺が言う。
神代さんがこちらを見る。
「何で即答なんですか」
「俺も安心するので」
「そうですか」
「はい」
小日向がまた何か言いそうな顔をしたので、先に聞く。
「何?」
「何も言ってません」
「顔に出てるよ」
「久世さんに言われたくないです」
相馬さんが書類を机へ置く。
「遊んでないで昼にしろ」
時計を見ると、もう十二時を過ぎていた。
昼休憩になり、俺たちは近くの店で買ってきた弁当を救難所で食べることにした。
外へ出る元気がなかっただけともいう。
俺は唐揚げ弁当。
小日向は大盛りの生姜焼き。
神代さんは普通の幕の内。
相馬さんはいつものように何を食べているのかよく分からない地味な弁当だった。
「相馬さん」
「何だ」
「昨日みたいな依頼、これから増えると思います?」
「知らん」
「またそれ」
「未来予知じゃない」
「でも問い合わせ増えてますよ」
小日向が口を挟む。
「合同訓練だけでも六件あります」
「全部受けるな」
「まだ何も受けてません」
「久世に見せるな」
「もう見せました」
「だからか」
何で俺が悪いみたいになっているんだろう。
神代さんが箸を止める。
「でも、大規模退避の訓練自体は必要なんじゃないですか?」
相馬さんが答える。
「必要だ」
「じゃあ受ける?」
俺が聞く。
「必要なものはな」
またそれだった。
「便利な言葉ですね」
「便利だから使ってる」
否定もしない。
食事をしながら、俺は朝から積まれていた問い合わせを思い出す。
以前なら、救難依頼が増えれば単純に仕事が増えたと思っていた。
でも今は少し違う。
現場へ出る依頼だけではない。
記録を共有する。
人を教える。
他の救難所とやり方を合わせる。
退避計画を確認する。
事故が起きる前に備える。
全部、人を帰すための仕事ではある。
「俺、本当に探索者なんですかね」
つい口から出た。
小日向が聞く。
「急にどうしたんです?」
「最近、攻略ほとんどしてないなって」
「最初からしてました?」
「一応」
「F級で?」
「F級でもするよ」
「すみません」
神代さんが少し笑う。
俺も笑った。
最初の頃は、俺だって普通の探索者だった。
強くはなかった。
むしろ弱かった。
それでも魔石を拾い、浅い階層で素材を集め、少しずつ稼いでいた。
《帰り道》は、迷わず地上へ戻れるだけの地味なスキルだと思っていた。
少なくとも俺はそう思っていた。
それが今では、人を帰すために呼ばれている。
これまでは数人を相手にする救難も多かったが、昨日は三十七人を一度に退避させた。
でも、人数が増えたからすごくなったという話でもない。
一人でも三十七人でも、帰れなければ困る。
「久世さん」
神代さんに呼ばれる。
「はい?」
「難しい顔してます」
「また?」
「またです」
「弁当食べながら考え事するのやめます」
「それがいいと思います」
唐揚げを食べる。
少し冷めていた。
午後になると、瀬川が救難所へ来た。
入って早々、机の上の資料を見て目を輝かせた。
「昨日の記録ですか?」
やっぱり。
「食いつくね」
俺が言う。
「三十七人ですよね?」
「うん」
「班分けしたって聞きました」
「もう知ってるじゃん」
「小日向さんから少し」
小日向を見ると、悪びれずに頷いた。
瀬川はすぐに資料を読む。
「第六層十四人、第五層で十五人合流して二十九人。第三層側八人は先行退避」
「そう」
「途中で一人負傷」
「三浦さん」
「その人を含めて二十九人全員、同じ退避集団?」
俺は少し考える。
「少なくとも俺はそう見てた」
「途中で班同士かなり離れてますよね?」
「離れてたよ」
「それでも《帰り道》は消えなかった?」
「消えなかった」
瀬川が何か書き始める。
俺は止めた。
「待って」
「はい?」
「それ、新しい能力ルールみたいに書かないで」
「分かってます」
最近みんな分かっている。
「昨日の事例では、ですよね」
「そう」
「一時的に班を分けても、久世さんが同じ帰還集団として認識している間は表示継続」
「そこまで言うと断定っぽくない?」
「じゃあ、『表示が継続したことを確認』」
「それなら」
瀬川が修正する。
こういう時、こいつの《記録》は便利だ。
いや、《記録》があるからというより、本人が細かい。
「昨日いたら人数確認任せられたかもね」
俺が言う。
瀬川が顔を上げる。
「本当ですか?」
「候補として」
奥から相馬さんの声。
「勝手に決めるな」
「また怒られた」
瀬川が苦笑する。
相馬さんが続ける。
「ただ、見とけ。昨日の記録」
瀬川の表情が変わる。
「はい」
「大人数を動かす時に、何を記録すればいいか考えろ」
「分かりました」
それだけだった。
でも、瀬川には十分らしい。
すぐ資料へ戻った。
俺はその様子を見ながら、昨日の三十七人を思い出す。
一人で全部できないなら、できる人を増やす。
前からやってきたことだ。
それが昨日、初めて大きな形になった。
夕方近くになると、朝の紙束はほとんど整理されていた。
問い合わせへの返答方針も決まった。
《帰り道》の細かい性質については、確認できた事実だけ。
大規模退避については、高峰ダンジョンの現地救難班と共同で記録を整理する。
合同訓練は内容を見て個別判断。
久世直人の派遣依頼については、救難で必要性があるものだけ検討。
そこはいつも通りだった。
「終わった」
俺が背もたれへ身体を預ける。
小日向が言う。
「まだです」
「何が?」
「これ」
一枚の紙が出てくる。
「何それ」
「今日新しく来た分」
「増やさないでよ」
「僕のせいじゃないです」
見る。
救難協力依頼。
一件。
合同訓練相談。
二件。
退避計画の確認依頼。
三件。
昼からまた増えていた。
「これ本当に殺到してない?」
俺が言う。
小日向が笑う。
「タイトルみたいですね」
「何の?」
「何でもないです」
よく分からない。
相馬さんが紙を取る。
ざっと目を通し、三つに分け始めた。
「これは資料送付だけ。これは先方の計画見てから。これは断る」
俺が聞く。
「最後、何で?」
「攻略班の撤退時に常時久世を待機させたいって話だ」
「それは救難?」
「違う」
即答だった。
「なら断る」
それも変わらない。
俺の《帰り道》が使えるからといって、何にでも使うわけではない。
攻略を楽にするため。
便利だから。
安心だから。
それだけでは相馬さんは出さない。
昨日三十七人を帰したからといって、そこが緩くなることもなかった。
「これ」
相馬さんが別の紙を俺へ渡す。
「何です?」
「読め」
内容を見る。
近県の救難組織からの相談だった。
現在、大型ダンジョンの退避計画を見直している。
想定滞在人数は、最大百二十名。
俺の手が止まった。
「百二十?」
小日向が覗き込む。
「多いですね」
神代さんもこちらを見る。
「さっき話してた人数より多いですね」
「嫌なこと言うから」
「私のせいですか?」
「違いますけど」
書類を読み進める。
《帰り道》の使用を前提とした計画ではない。
大規模退避時の班分け、情報共有、負傷者発生時の動線、戦闘可能者の配置について意見交換を希望。
俺は最後まで読んだ。
「俺、行くんですか?」
「まだ決めてない」
「ですよね」
「ただ」
相馬さんが書類を見る。
「こういう話は増えるかもしれん」
「昨日のせいで?」
「昨日だけじゃない」
相馬さんはそれ以上説明しなかった。
でも、何となく分かる。
これまで積み重ねてきたものがある。
救難記録。
訓練。
他地域との合同救難。
瀬川たちのような新しい人材。
久世一人に頼らない仕組み。
そこへ昨日の三十七人退避が加わった。
急に始まった話ではない。
少しずつ広がってきたものが、見える形になっただけだ。
「相馬さん」
「何だ」
「これも救難ですか?」
百二十人の退避計画について書かれた紙を持ち上げる。
相馬さんは少し考える。
「まだ誰も困ってないな」
「はい」
「でも、困った時に帰せるようにする話だろ」
「そうですね」
「なら救難の仕事だ」
今回はちゃんと答えてくれた。
俺は紙を机へ置く。
これまで俺は、帰れなくなった人のところへ行ってきた。
道に迷った人。
怪我をした人。
閉じ込められた人。
動けなくなった人。
昨日は少し違った。
三十七人は、まだ帰れた。
だから、帰れなくなる前に帰した。
そして今、机の上にあるのは、まだ何も起きていない場所の話だ。
事故になる前、遭難者が出る前。
もしかしたら、それよりもっと早い段階から救難は始められるのかもしれない。
もちろん、俺にできることが急に増えたわけではない。
《帰り道》が見える。
それだけだ。
百二十人を一人で帰せと言われても無理だ。
三十七人ですら、最初は十四人を一列にして失敗した。
でも、一人でやる必要はない。
俺が道を見て、それを誰かが伝える。
別の誰かが人数を確認し、後ろを守る人や怪我人を運ぶ人、地上で受け入れる人もいる。
それでいい。
神代さんが帰り支度をしながら聞いた。
「久世さん、今日はもう終わりですか?」
「たぶん」
相馬さんを見る。
「帰れ」
許可が出た。
「じゃあ帰ります」
俺も立ち上がる。
小日向が机の上の紙を持ち上げた。
「これ明日に回しますね」
「何?」
「新しい問い合わせ」
「見せなくていい」
「救難依頼もありますけど」
俺の足が止まる。
「救難?」
「はい。ただ、緊急じゃないです」
相馬さんが横から取る。
「明日見る」
「了解です」
小日向が紙を置く。
俺はバッグを肩にかけた。
今日も誰かを迎えに行くことはなかった。
昨日も、最初はそうだった。
それでも三十七人を帰した。
救難依頼という言葉を聞くと、以前ならダンジョンの奥で助けを待っている誰かを想像していた。
今は少し違う。
帰れなくなった人を帰す。
帰れなくなる前に帰す。
帰れなくなる人を出さないように準備する。
どれも結局、やりたいことは同じだ。
「久世さん?」
入口で神代さんが振り返る。
「帰らないんですか?」
「帰ります」
「また考えてました?」
「少しだけ」
「帰りながらにしてください」
「それ、危なくないですか?」
「じゃあ帰ってから」
「はい」
救難所の扉を開ける。
外はもう夕方だった。
今日は《帰り道》を見る必要もない。
駅までの道なら普通に分かる。
俺は神代さんと並んで歩き始めた。
昨日帰したのは三十七人。
次に何人になるのかは分からない。
一人かもしれないし、もっと多いかもしれない。
でも、人数が何人でも、事故が起きる前でも起きた後でも、やることの根っこはたぶん変わらない。
帰れない人がいるなら、帰す。
まだ帰れるなら、帰れるうちに帰す。
そのために必要な人と、必要な方法を使う。
それだけだ。
少なくとも今の俺には、それが一番分かりやすかった。




