第9話 覚えておりますとも
七十三人の名を、三度通した。
二度目と三度目が同じであれば、それで決まりにしている。今夜は三度目で一つ動いた。隣国の書記官が一人増えたためで、増えた一人を入れると、こちらの側の末席が二つずれる。
広間に入るのが七十三人、卓に着くのが三十一人。名を覚えるのは全員ぶん、席を組むのは三十一人ぶんである。
控えの間で、紙を伏せた。紙には家名と席の番号しか書いていない。誰が誰と口をきかないかは、書かない。
匣を開けて、自分のカードを一枚だけ出した。今夜は必要ないかもしれないけれど、持っていないと落ち着かない。旧姓で刷り直したのは、夏の終わりである。刷り上がった日、ノエルが一枚を灯りに透かして、字が細うございますねと言った。
「ロシュフォール様。行列はいつ組みますか」
給仕頭が扉のところに立っていた。
「今から回ります。食堂へ移る鐘の、四半刻前に」
紳士を一人ずつ捕まえて、どの婦人を伴うかを小声で告げていく。これは紙を配って済ませられない。耳に入れて、その場で忘れてもらう。忘れてもらうために、こちらが覚えている。
この手順を教わったのは実家である。母は紳士の名を音の順に並べて、部屋の東から西へ回れと言った。
広間に出た。
灯りが多い。屋敷の広間の倍はある。人はまだ散らばっていて、卓へ着く前の、いちばん組みやすい時刻である。
一人目は隣国の武官だった。
「後ほど、赤い扇の婦人をお願いいたします。左手からお入りください」
二人目は財務の次官だった。この方には、伴う婦人の名を二度申し上げた。一度目でうなずかれたけれど、うなずき方が浅かったからである。
三人目は通詞。四人目は隣国の書記官で、三度目の通しで増えた方である。増えた分の椅子は、卓の角に足した。角の席は話しにくいので、両隣を話しやすい方で挟んである。
四人目まで済ませたところで、右の柱の陰に、見覚えのある背中があった。
アルヴェール伯爵である。
こちらは五人目へ移った。
「ダンヴィル様。あなたは、あちらの通詞の隣を伴ってください」
「私が」
「最も疎遠な方をお願いいたします。それが順序ですので」
ダンヴィル様は少し笑って、承知しましたと仰る。
十一人目まで告げ終えたとき、入口の方で人が動いた。
公爵夫人が入っていらした。
ジョゼフィーヌ様がお着きになると、広間の重心が入口の側へ寄る。誰がどう寄るかで、その夜の序列が全部見える。ここで動かない者は、動かない立場にある者だけである。
灯りの下で、扇が三つ同時に閉じた。閉じてから、婦人たちの立ち位置が半歩ずつ入れ替わる。
アルヴェール伯爵は動いた。
柱の陰から出て、まっすぐ入口へ向かう。伯爵は一番目に出た。
公爵夫人が顔を上げる。
「ごきげんよう。ええと」
伯爵の声が、そこで止まった。
止まってから、少し口を開けたままになる。開けたまま、目が公爵夫人の顔から、その後ろの侍従へ移って、また戻った。
「申し訳ありません。どちらの家の方でしたか」
広間の音が、端から順に引いていく。
扇が止まり、杯が止まり、いちばん遠くで給仕の足が止まった。誰も動かない時間が、たぶん三つ数えるぶんだけあった。
その三つのあいだに、こちらは見えるものを見ていた。公爵夫人の右手が扇の要にかかっている。侍従が一歩も動かない。伯爵の靴の先が、絨毯の縁を半分踏んでいる。
公爵夫人は表情を変えなかった。
「わたくしの家をお忘れでしたら、名鑑をお引きなさいませ」
「いえ、その」
「叙爵の年で並んでおります。うちは古い方ですから、前の方をご覧になれば」
公爵夫人はそれだけ仰って、視線を外される。
外された先に、こちらがいた。
「ロシュフォール様。今夜の行列はあなたが」
「はい」
「では、後ほど」
公爵夫人が奥へ進まれる。侍従が続き、周りの人が動き出して、広間の音が戻ってきた。
戻った音は、先ほどより低い。
わたくしは十二人目の紳士のところへ行こうとした。
行こうとしたところで、袖の近くに人が立った。
「リディア」
顔を上げた。
アルヴェール伯爵である。近くで見るのは、屋敷を出た日以来になる。
「アルヴェール伯爵」
「話がある」
「行列を組んでおります。四半刻ほどお待ちいただけますか」
「今でいい」
伯爵は、周りを見なかった。見ないまま、声の高さを変えなかった。
「戻ってきてくれ」
近くの三人が、こちらを見ないようにした。
そのうちの一人は、去年うちの茶会に来られた方である。あのとき、この方が苦手な菓子を卓から外したのはこちらだった。今は何も申し上げない。
「あの束では回らない。索引はある。日付もある。それでも回らない。母上は親族から外された。ギヨームは動かない。僕は名鑑の引き方も分からない」
「さようでございますか」
「君の部屋はそのままにしてある。何も動かしていない」
「屋敷の物には手をつけないと申し上げました」
「そうじゃない」
伯爵は一歩近づいた。
「もう一度だけ言う。戻ってきてくれ。悪かったと思っている。何が悪かったのかは、戻ってきてから君に教えてもらう」
そこで、言葉が途切れる。
途切れたところに、こちらが何か言うのを待つ間があった。長い間だった。
教えてもらう、と仰った。
十年のあいだ、教えてほしいと言われたことは一度もない。
「リディア、君は覚えているだろう。あの家の名も、あの人の顔も」
わたくしは足を止めた。
伯爵の後ろに、卓が見えている。名札が並んでいて、その一枚に伯爵の家名がある。今夜の席次はこちらが組んだ。組んだのだから、その名は紙の上に置いてある。
「いいえ。もう覚えません」
言い終えてから、息を一度吸った。蝋と、花と、誰かの香。今夜ここへ入ってから、匂いに気づいたのは初めてである。
伯爵は、こちらを見たままだった。
「……それは」
「行列の刻限です。失礼いたします」
近くで、扇が一つ開いた。開いた音は小さかったけれど、開いたということは、その方の後ろの二人にも伝わる。
柱の向こうに、子爵家の連れの方が立っていらした。あの若い方である。こちらを見て、それから伯爵の方を見て、そのまま奥へ歩いていかれた。歩き方に迷いがなかった。
伯爵は動かなかった。
片手が上着の脇を握っている。握ったまま、周りに誰も寄ってこない。三歩ぶんの空きが、伯爵の周りにできていた。
誰も、伯爵のことを気にしていない。
給仕が杯を持って近づきかけて、向きを変える。
わたくしは十二人目の紳士のところへ行った。
歩幅が、いつもより広かった。裾を気にせずに歩ける。屋敷では、廊下の絨毯の継ぎ目を踏まないように歩く癖がついていた。この床には継ぎ目がない。
「後ほど、緑の扇の婦人をお願いいたします。右手からお入りください」
「承知しました」
十三人目、十四人目と続けた。声の高さは変えなかった。変えると、先ほどのことが行列に混ざる。
十五人目の武官に、伴う婦人の名を聞き返された。二度申し上げると、ああ、あの方ですね、と仰る。
鐘が鳴った。
行列が組まれ、食堂の扉が開いた。
先頭は隣国の使節長と、こちらの最上位の婦人である。二番目、三番目と続く。誰も止まらない。三十人が一列になって動くとき、一人が遅れると後ろが全部詰まる。詰まらなかった。
赤い扇の婦人が、隣国の武官の腕に手を掛けた。掛け方が浅い。浅い掛け方は、初対面のときのものである。三品目が出るころには変わる。
わたくしは列の後ろの方に自分を置いてあった。設計としては、それが正しい。
食堂の入口で、公爵夫人が振り返られた。
「ロシュフォール様。こちらへ」
「わたくしの席は後ろでございます」
「今夜は変えます。わたくしの隣へ」
「席次は先に配ってございますので」
「配ったものを直せる方が、そこにいらっしゃるでしょう」
公爵夫人は先に行かれた。
侍従が二人来て、後ろの席の名札と食器を下げた。下げた分だけ、後ろの列が一つずつ詰められる。
新しい名札が一枚、上座の隣に置かれた。書き足された名は、旧姓の方である。
その一枚を書いたのは、わたくしではない。十年、卓に置く名札は全部こちらが書いていた。書かれる側に回るのは、これが初めてである。
わたくしは列を離れて、上座の側へ回った。
回りながら、後ろの列を見た。三十人が順に入っていく。組んだのは三十一人ぶんである。伯爵の姿は、列の中になかった。広間に残られたのか、帰られたのかは分からない。
公爵夫人が椅子に手をかけて、こちらを待っていらした。
「あなたが組んだ列は、途中で一度も止まりませんでしたね」
「恐れ入ります」
「名前は、覚えている方に付いていくものですよ」
上座に着くまでに、その夜の七十二人の名を一度ずつ数え直した。彼の名は数のうちに入らなかった。




