第8話 あなた、わたしの名前も間違えているわ
その夜会に、わたしの席はなかった。
卓に着く人の名札が二十四枚あって、そのどれもわたしのものではなかった。ジェラール様の隣は空いている。空いているのに、そこに置かれた名札には別の家の名が書いてあった。
「連れの方は、こちらでお待ちくださいませ」
案内の者はそう言って、広間の隅の椅子を指した。壁際に三脚だけ並んでいる椅子。座っているのはわたしのほかに、年配の付き添いらしい方が一人だけ。
壁際からでも、上座の名札は読めた。金の縁取りがしてある一枚で、去年嫁いだばかりの方の名である。
序列というものは、齢では決まらない。人柄でも決まらない。夫の位で決まる。
わたしには夫がいない。位がない。位のない者の名は、卓に置かれない。
隣の椅子の婦人が、膝の上で手を組んでいた。慣れた組み方である。
「長うございますよ」と、その方が言った。
「お食事は」
「わたくしたちの分はございません」
その方はそれきり何も言わず、正面を向く。わたしも正面を向いた。
食事が始まると、広間の音が変わった。
椅子が動く音、皿の音、笑い声。壁際からだと、誰が誰と話しているかが全部見える。ジェラール様は右の婦人と話していた。三度話しかけて、三度とも短く返されていた。
左の紳士とは、ほとんど話さない。
一度、卓の向こうの婦人が扇を開いた。開いてから、隣の方に何か言った。二人ともこちらを見ないし、ジェラール様の方も見ない。
その紳士が席を立ったとき、ジェラール様が呼び止めようとして、名前が出てこなかったのが分かった。口が動いて、止まって、それから会釈だけになった。
壁の時計が九つを打つ。それから十を打った。
椅子は硬い。背もたれの高さが合わなくて、姿勢を三度変えた。三度目で、隣の婦人が少しだけこちらを見て、また正面へ戻る。
十時を過ぎて、ようやくこちらへ来た。
「待たせたね」
「ええ」
「あの席順はどうかしている。僕を端から二番目に置くなんて」
「席順は、どなたがお決めになりましたの」
「この家の女主人だろう」
そう言って、ジェラール様は葡萄酒の杯を取る。
「そういえば、ドゥブレール子爵の三女だったな。君の家は」
「ドゥブレです。三女で」
「そうだ、三女だ」
杯の縁に指をかけたまま、ジェラール様は広間の方を見ていた。上座では、去年嫁いだ方が笑っていらした。周りに四人ほど集まっている。
わたしは黙っていた。黙っていると、ジェラール様は葡萄酒を飲んだ。
帰りの馬車で、ジェラール様はずっと窓の外を見ていた。
「今日で七つだ」
「なにがですの」
「招待が減った。今月に入って七つ」
「そんなに」
「ヴェルニー家からは返事もない。ブランシャール家は、こちらの名を綴り違えたと言ってきた」
「綴り違えたって、どなたが」
ジェラール様は答えない。窓の外を見たまま、指で膝を二度叩いた。
「秋の狩りの誘いも来ていない。去年は三つ来た」
「三つも」
「三つだ」
馬車が石畳を渡って、少し揺れた。
屋敷に着いて、広間に入った。
卓の上に、まだ名札が何枚か立っている。前の茶会のものだと分かった。誰も座らなかった席の分である。あれから半月以上経っているのに、下げさせていない。
紙が少し反っていた。近くで見ると、字はきれいだった。書いた人の手が速いことが分かる字である。
暖炉に火が入っていなかった。家令が入れに来て、ジェラール様が下がっていいと言った。
「マノン」
「はい」
「君の家に、うちから何か贈ったことはあるか」
「存じません」
「そうか」
ジェラール様は椅子に座って、束を膝に置いた。あの四十枚である。この人はどこへ行くにも持っている。
「ドゥブレ家の項がないんだ」
「ございませんの」
「三十七家ぶんある。君の家は入っていない」
わたしは椅子の背に手を置いた。
「わたしの家は、三十七のうちに入っていないんですのね」
「そういう話じゃない。贈答の記録がないから、いくらのものを贈ればいいのかが分からないという話だ」
「入っていないから、記録もないのでしょう」
ジェラール様が束をめくる。めくって、ドゥブレの項がないことをもう一度確かめて、それから顔を上げた。
「ドゥブレール子爵家といったか」
そこで、何かが止まった。
「ドゥブレです」
「ああ、ドゥブレか」
「今日、二度目です」
「なんの話だ」
わたしは椅子から手を離す。
口の方が先に動いた。
「あなた、わたしの名前も間違えているわ」
ジェラール様は束を膝に置いたまま、わたしを見る。
見て、少し口を開けて、それから言った。
「招待が七つ減った。返礼を断られた家が三つ。母が親族から外された。それから、」
七つ、三つ。頭の中で足していた。
「それから」
「ル・グラン家に燭台を送って、開けられずに返ってきた。茶会に十二人呼んで、五人しか来なかった。名鑑を開いたが、引き方が分からない。屋敷の者は、僕が指示を出すまで動かない」
十二から五を引くと七。さっきの十と足して十七。
この人の失ったものは、全部数になる。数になるものだけが、この人の口から出てくる。
「母上は、リディアさんに聞けば分かると言った。ギヨームは、確かめる役を承っていないと言った。ヴェルニーの綴りにeが二つ入ることを、僕はどこかで聞いた覚えがある。どこで聞いたのかが出てこない」
「ジェラール様」
「四十枚あるんだ。全部書いてある。全部書いてあるのに、一つも決められない」
「お手紙は、お出しになったんでしょう」
「出した。返事はない」
「もう一度お出しになれば」
「同じことを訊くだけになる」
わたしは待った。
待っていれば、そのあとに何か続くと思った。わたしの名前のことでも、この半年のことでも、この人がわたしに言うべきことでも、何でもいい。
続かなかった。
数え上げに、わたしは入っていない。
数え終えたところで、ジェラール様は束を閉じた。閉じて、暖炉の方を見た。火は入っていない。
「マノン」
「はい」
「君の家の紋は、どういう形だった」
わたしは外套を取った。
「お帰りになりますの」
「ええ」
「送らせよう。誰か呼ぶ。うちの家令は、ええと」
「結構です」
玄関まで、誰も付いてこなかった。家令は下がったままで、ほかに人はいない。扉は自分で開けた。
外は寒かった。馬車を呼ぶあいだ、玄関の前に立っていた。
家では、三女の名を呼ぶ用が少ない。姉が二人いて、用があるのはたいてい上の二人である。だからわたしは、名を呼ばれる場所を探して社交に出た。
半年前、この屋敷の茶会に招かれたとき、わたしの席は末席だった。末席でも、卓には着く。名札もあった。ドゥブレ、と書いてある。家名だけで、下の名前は書かれていなかった。
あのとき、その名札を書いたのは誰なのかを、考えたことがなかった。
この人は、わたしの名前も間違えている。十年かけて間違え続けた相手が、もう一人いたということだ。




