第10話 あなたは、何と呼ばれたいですか
名札の紙は、こちらの好きなものを選んでよいと言われた。
厚い方にした。
交渉の館は、王宮より小さい。部屋が三つ続いていて、真ん中が会議の間になっている。卓は長い一枚板で、両側に十五ずつ椅子が並ぶ。
朝のうちに、三十枚を書いた。
一枚に十を数えるほどの時間がかかる。字を急ぐと滲むので、この作業だけは急げない。
インク壺は二つ用意した。片方が減っても、濃さを変えずに続けられる。屋敷では一つしか置いていなかった。置く数を決めていたのは誰なのかを、考えたことがない。
隣国の綴りは、夏から少しずつ覚えた。読み方の分からない字は、ダンヴィル様に音だけを言っていただく。音で聞けば、順に並べて入れられる。
書きながら、四十一家ぶんを頭の中で通した。
こちらの三十七に、隣国の四家が加わっている。四家のうち二家は互いに口をきかない。きかない理由は、二十年前の国境の川筋である。川筋の話は、こちらの水利の訴訟に似ている。似ているけれど、同じではない。
「リディア様。窓を少し開けてもよろしいですか」
ノエルが盆を持って入ってきた。
「開けてください。紙が乾きません」
「乾くまで、どのくらい」
「一枚に、二十を数えるくらい」
ノエルは窓を開けて、それから卓の端に立った。並んだ名札を、端から順に見ている。
「これ、全部お分かりになるのですね」
「分かります」
「わたくしには、三つ目で分からなくなります」
わたくしはペンを置いた。
「音で覚えるとよろしいです。字ではなく」
「音で」
「並べて、声に出さずに口の形だけで通す。一度に全部は入りません。四つずつ区切って、四つを三度通してから、次の四つへ移ります」
ノエルは口を動かしてみた。四つ目まで行って、止まる。
「もう一度」
三度目で、四つが続いた。
「入りました」
「では次の四つを。前の四つは、そのままにしておいてください」
ノエルはまた口を動かした。動かしてから、少し笑った。
「奥様も、そうなさっていたのですか」
呼び方が戻ったことに、ノエルは気づいていない。わたくしも言わなかった。
「母から教わりました」
「お母様から」
「実家の客間で。正しく言えるまで、次へ進ませてもらえませんでした」
「厳しいのですね」
「叱られたことはありません。ただ、進まないだけで」
母は紙を渡さなかった。書いて渡せば、こちらは書いたものを見る。見ているうちは入らない、と言っていた。
匣を開けた。
中には、わたくしのカードが入っている。離縁の届けが認められた夏の終わりに、旧姓で十二枚刷り直した。今は八枚になっている。
四枚は、この二か月のあいだに置いてきた。ダンヴィル様の紹介で伺った家が三軒と、ノエルの実家が一軒。実家の方は、角を右上に折った。こちらが自分で扉の前まで行ったからである。
他家のものは一枚もない。
蓋を押さえないと閉まらない癖は、まだ直っていない。閉めるたびに、屋敷の玄関広間の卓のことが浮かぶ。浮かぶけれど、長くは続かない。次の紙が乾く時刻を数えているうちに消える。
昼餐を兼ねた会議は、昼に始まった。
椅子に着くまでの動きは、この十日で三度作り直した。四家のうち口をきかない二家を、卓の同じ側に置く。向かい合わせにすると、目を上げるたびに顔が入る。同じ側なら入らない。
その代わり、あいだに二人挟む。挟む二人は、どちらの家とも縁のない方を選ぶ。こちらの通詞と、財務の書記官である。
三品目が出るころに、卓の音が変わった。
割れていない。三十人の卓が、端から端まで一本で繋がっているときの音である。誰かの声が高くなると、その隣が受けて、また下がる。
川筋の話が出たのは、そのすぐ後だった。
出したのは隣国の四家のうちの一つで、口をきかない二家の片方である。同じ側にいるもう一方は、目を上げなかった。上げなくて済む向きに座っていらっしゃる。
あいだの通詞が受けた。受けて、こちらの水利の訴訟の話へ移す。似ているけれど同じではない、という言い方で移されたので、どちらの家も引き取れる形になった。
卓の音は、下がらなかった。
ダンヴィル様は卓の中ほどにいらした。一度もこちらを見ない。
隣国の書記官が、途中で席を立った。
戻ってこられたとき、椅子の位置が少しずれている。給仕が直す前に、ご自分で直された。
その所作を、卓の向こうの婦人が見ていた。見て、扇を開かない。
会議は四時に終わった。
人が出ていき、卓に名札だけが残った。三十枚。使い終わったものである。
給仕が下げに来たので、こちらで片づけますと申し上げた。一枚ずつ集めて、順に重ねる。使った名札は、次の回の目安になる。誰がどこに座って、どこで話が動いたかを、紙の並びで思い出せる。
書記官の分の紙が、少し湿っていた。左隣が口をきかない二家の片方で、話が向くたびに受けていらした。次の回は、この方の左を空ける。
集め終えたところで、扉が開いた。
「まだいらしたのですね」
ダンヴィル様である。上着を腕に掛けて、部屋の入口に立っていらした。
「片づけております」
「今日は、割れませんでしたね」
「はい」
「三品目のあたりで、こちらは肝を冷やしました。川筋の話が出たので」
「出ると思っておりました。出た場合に、どちらから受けるかも決めてございます」
「決めてあったのですか」
「二人挟んだ方の、通詞の側から」
卓のそばまで来て、椅子を一つ引かれた。引いてから、座らずに背に手を置かれる。
「一つ伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「夏に、三十七家と仰いました。今は」
「四十一家です。隣国の分を入れました」
「四十一」
「川筋の二家は、まだ数え直しております」
少しのあいだ、黙っていらした。窓の外は暗くなりかけている。晩秋の四時は、もう夕方である。
「では、もう一つ」
「はい」
「あなたは、何と呼ばれたいですか」
手が止まった。
名札の束を持ったまま、しばらくそのままでいる。
「わたくしを」
「はい。こちらは今、ロシュフォール様とお呼びしています。契約の書式にそう書きましたので。ですが、それはこちらが決めたことです」
窓の外で、荷馬車が通っていく音がした。
呼ばれてきた名を、順に並べてみた。奥様。アルヴェール夫人。リディアさん。リディア。リディア様。ロシュフォール様。
どれも、こちらが選んだものではない。
「十年、誰にも訊かれませんでした」
「そうですか」
ダンヴィル様はそれ以上何も仰らず、こちらが答えるのを待っていらした。
窓の外で、灯り屋が一本ずつ火を入れていく。三本入ったところまで数えた。
わたくしは、まだ書いていない紙の束から一枚を抜いた。
厚い方の紙である。灯りが横から入っても透けない。
ペンを取って、書いた。書いてから、乾くまで二十を数えた。数えているあいだ、誰も何も言わない。
紙の上に置いてみると、分かることがある。
「リディアと」
「リディア様」
「縮めずに、そのまま」
「承知しました」
ダンヴィル様は上着を椅子の背に掛けて、卓の反対側へ回られた。回って、明日の分の名札の束を取り上げた。
「明日は、隣国の随員が一人増えます。書付を今朝いただきました」
「では、三十一になります」
「席は」
「卓の端へ椅子を一脚足します。増えた一人を入れると、両端が一つずつずれますので」
「明日はどこに座られますか」
「まだ決めておりません」
「決めるのは、あなたですね」
「はい」
さきほど書いた一枚を、手に取った。
リディア・ロシュフォール、と書いてある。書いてみて、前の方だけを選んだ。十年、この作業を三十七家ぶんやってきた。ヴェルニーのeは二つ、ブランシャールのlは一つ、ソレルは当主が代わっている。自分の名を書くのに、他の名より時間がかかった。
卓の上に置く場所を決める。
明日の席は、川筋の二家を同じ側に置いたままにする。こちらの側は、通詞と書記官のあいだ。端に足す一脚が、そこに入る。
足した椅子の隣は、ダンヴィル様の席である。
わたくしは、自分の名札を足した椅子へ置いた。
置いてから、ダンヴィル様の方を見た。ダンヴィル様は名札の束を持ったまま、こちらを見ていらした。何も仰らない。
置いた場所について、理由を訊かれると思った。訊かれなかった。
「明日は、こちらに」
「承知しました」
ノエルが呼びに来る音が、廊下の向こうでした。窓を閉めなければならない。紙はもう乾いている。
匣を鞄に入れる。蓋は、押さえたら閉まった。
訊かれたので、答えた。それだけのことに、十年かかった。




