第5話 どちらの家の方でしたか
借りた家は、部屋が四つある。
玄関を入るとすぐ客間で、その奥が食堂、二階に寝室が二つ。前の住人が薬種商だったそうで、廊下の突き当たりの棚だけ、やたらに丈夫な作りになっている。
朝、その棚に手帳を置いた。
屋敷では机の端と決まっていて、決まっているから考えたことがない。ここでは、どこに置いてもよい。
棚の隅に匣が置いてある。開けると、中にはわたくしのカードが六枚だけ入っている。他家のものは一枚もない。
蓋は今も、押さえないと閉まらない。留め金の癖は直らないまま持ってきた。
「リディア様。井戸の水を汲んでまいりました」
ノエルの呼び方が変わったのは、越して二日目からである。
「ありがとう。今日は誰か参りますか」
「午後に、ダンヴィル様が」
刻限は三時と伺っている。三時から六時のあいだであれば、この家でも作法は同じである。
手帳を開いた。書いてあるのは、この三週間の分だけ。井戸の水の出が悪くなる時刻、パン屋が焼く曜日、二軒隣の犬が吠える相手。
覚えなくてもよいことを、書いている。
ダンヴィル様は三時ちょうどに来られた。
客間の椅子は二脚しかない。片方に座っていただいて、こちらは立ったままでも構わないと申し上げたら、ダンヴィル様は立ち上がって、二脚とも卓の同じ側へ寄せた。それから、ご自分で片方に座られた。
「隣で失礼します。書類を見ていただくので」
鞄から出したのは五枚である。
「秋に、隣国の使節が十六名来ます。晩餐が二度、昼の会合が四度。うち一度は先方の宗教上、席の向きに制約が出ます」
「十六名でしたら、こちらからは何名を」
「十四名を考えています。合わせて三十。多い」
「多うございます。会話が二つに割れます」
「割れます。それを割れないように組んでいただきたい」
「席の向きの制約は、どちらの向きでございますか」
「東です。先方の三名だけ」
「三名を東向きに固めますと、その列にこちらの通詞が入れません。通詞は二名でよろしいですか」
「二名です。そこまで見えますか」
「見えるところまでしか申し上げられません」
わたくしは順に見た。使節の名簿が二枚。こちらの出席予定と日程で一枚。
名簿は隣国の綴りで書かれていた。読み方の分からない字が三つある。ダンヴィル様が横から音だけを言ってくださった。音で聞くと、順に並べて覚えられる。母のやり方と同じである。
名簿を見た瞬間に、二か所が引っかかった。
「この方と、この方は、席を離した方がよろしいかと」
「理由を伺っても」
「二年前の関税の会合で、こちらの三番目の方が席を立たれました。相手方の記録には残っていないはずです。うちの側にも残っておりません」
ダンヴィル様は名簿の余白に、印だけをつけた。理由は書き取らない。
「そういうことを、何家ぶんご存じですか」
「三十七家です。隣国の分は存じません」
「隣国の分は、こちらで用意します。組むのはあなたにお願いしたい」
残る二枚は、日程ではなかった。
契約の書式である。期間、業務の範囲、報酬。報酬の欄には数字が入っていて、下に支払いの月が書いてある。
「これは」
「報酬はこちらです。受けるかどうかは、あなたが決めてください」
支払いの月は三つに分かれていた。前金と、会合の後と、翌春。翌春の分だけ額が大きい。理由を尋ねようとして、やめた。尋ねなくても、こちらの手が要る時期がそこだと分かる。
わたくしは書式を読んだ。読むあいだ、ダンヴィル様は窓の方を向いていて、こちらを見ていない。
「一つ伺っても」
「どうぞ」
「なぜ、わたくしに」
「去年、順番を伺ったからです」
「あれは、二分ほどの話です」
「二分で聞けるものを、こちらは三月かけて集めていました」
ダンヴィル様は窓を向いたまま続けた。
「集めた分は書類になります。書類になるものは、誰でも読めます。読めるものは、値がつきません」
「値がつくのは」
「書類にならない方です」
わたくしは、二夜目に破いた五十行のことを思い出した。あの紙は、値のつくものだったらしい。
「お受けいたします」
「では、こちらに」
署名は二枚。片方が控えである。控えを畳んで、手帳に挟んだ。
ダンヴィル様は五時前に帰られた。帰り際、玄関の卓を見て、それから何も言わずに出ていかれた。
卓の上には、何も置かれていない。この家には、まだ誰のカードも来ていない。
その日の夕刻、扉が鳴った。
ノエルが出て、すぐ戻ってきた。
「リディア様。お客様がいらしています」
「どちらの」
「お名乗りにならないまま、お入りになろうとなさいます」
客間へ通した。刻限は過ぎている。追い返す作法もあるけれど、使わなかった。
若い方だった。二十歳ぐらいで、旅装ではない。仕立ての良い外套を着ていて、髪が少し乱れている。ここまで急いで来たのだと思う。
外套の裾に泥がついていた。この時刻に馬車を降りて、最後の一町を歩いた形である。
椅子を勧めた。座られなかった。立ったまま、客間を一度見回される。部屋の狭さを確かめるような目の動きだった。
「わたくし、マノン・ドゥブレと申します。伯爵様とのことは、ご存じでいらっしゃいますでしょう」
「申し訳ありません。どちらの家の方でしたか」
その方は、口を開けたまま止まった。
「ドゥブレでございます。子爵家の」
声が少し高くなった。
「さようでございますか」
「ご存じないはずが」
「アルヴェール伯爵家のことでしたら、わたくしの手を離れております。ご用向きは、あちらへお願いいたします」
その方は外套の袖を握る。
「あの方は、あなたのことを、一度も」
「そちらもあちらへ」
「聞いてください」
わたくしは椅子に座った。座って、話を聞く形を作った。
その方は話し始めた。伯爵が何を言ったか、いつどこで会ったか、誰が知っているか。日付が三つ出て、場所が二つ出た。話の向かう先は一つで、屋敷へ戻る気があるのかどうかを確かめにいらしたらしい。
聞きながら、こちらの頭は動かなかった。以前なら、日付を聞いた時点で照らし合わせが始まっている。三月の第二週にどこの家の何があったか。その日、屋敷の馬車が何時に出たか。始まらない。ただ音として通り過ぎていく。
その方の声は、途中から早くなった。早くなってから、一度止まって、それからまた続いた。
「わたくし、マノン・ドゥブレでございます」
三度目である。
「ええ」
「お名前を、覚えていただけませんか」
その方は、そこで初めてこちらを見た。
用意してきた言葉が、途中で使えなくなっている。使うには、こちらがその方を見返す必要がある。
だから、残ったのがそれだった。
「ご用向きは伺いました」
「そうではなくて」
「刻限を過ぎております。お帰りの道が暗くなります」
ノエルが玄関の扉を開けた。開けてから、何も言わずに脇へ寄る。
その方はしばらく動かなかった。動かないまま、外套の袖をもう一度握って、それから出ていかれた。扉が閉まる音は、この家のものだから軽い。
ノエルが客間に戻ってきた。
「お茶をお淹れいたしますか」
「いただきます」
湯が沸くまでのあいだ、卓に肘をついて座っていた。屋敷ではこの座り方をしたことがない。
先ほどの方の家名を、思い出そうとしてみた。
音は聞こえている。三度とも、はっきり聞こえた。けれど、どこにも置かれていない。
十年前なら、一度で入った。婚礼の翌月、屋敷に来た客の名を、その日のうちに三十二人ぶん覚えた。誰が誰の連れで、誰が誰と口をきかないかまで、揃えて入れた。以前は、聞いた瞬間に三十七家のどのあたりへ入れるかが決まる。縁続きがあるかどうか、席を離すべきかどうか、贈答の履歴があるかどうか。その仕分けが起きない。
ノエルがお茶を運んできた。二軒隣の犬が吠えている。吠えている相手は、この時刻なら牛乳屋のはずである。
手帳を開いて、犬のことを一行書き足した。
三度名乗られて、三度とも入れなかった。入れる場所がないのではない。入れる必要が、もうない。




