第4話 十年分、こちらに書いてございます
一夜目は、速かった。
手帳の続きの頁から始めた。来年の分はもう書いてあるので、その先へ進む。一月から順に、家名と日付と品物を並べていく。
ヴァレ家、毎月一日、音の出ないもの。ベルナール家、容体次第、砂糖菓子を除く。シャロン家、二月の第三週、上から四番目に読まれる。
三時間で三十七家のうち二十九家まで進んだ。
二十九家目はドーレ家だった。当主の齢が七十になる年で、七十の祝いは六十五のときより一段上げる。上げ幅は家によって違う。ドーレ家は一段でよく、ヴェルニー家なら二段いる。その差を書くのに、ペンを持ち替えた。
残りの八家で止まったのは、日付が動く家だったからである。動く家は、動いたときにどうするかを書かなければならない。どうするかは、その家の事情によって変わる。
二夜目に、なぜを書こうとした。
ル・グラン家の欄に戻る。書いてあるのは「贈らない」の四文字である。これでは、いつまで贈らないのかが分からない。
喪中だから、と書き足した。
喪はいつ明けるのか。明けたら贈ってよいのか。八月の末に明けるけれど、あの家は喪明けの祝いを受けない。受けないのは、先代の葬儀のときに当主が誰の名を呼んだかによる。
呼んだ名を書くには、その名の家との経緯が要る。経緯を書くには、四十年前の縁談から始めなければならない。縁談のことを書くと、シャロン家の三十七回忌がなぜアルヴェールに声のかかる法要なのかも書かなければ通らない。
五行で足りると思っていた。五行が五十行になった。
五十行のうち、十八行は人の名前だった。生きている方が七人、亡くなった方が十一人。亡くなった方の名を書くたびに、その方の葬儀で誰が上座に着いたかを添えなければ意味が通らない。上座に着いた方の名を書くと、その年の序列を書くことになる。序列は毎年変わる。
五十行を読み返した。読み返して、この五十行を読んだ人間がル・グラン家に贈るかどうかを判断できるかを考えた。
できない。
判断できるようにするには、この五十行の一つ一つに、また五十行が要る。四十年前の縁談がなぜ壊れたのか。壊れたときにどの家が仲裁に入ったのか。仲裁に入った家が今どうなっているのか。
ペン先が紙に触れたまま、乾いた。
灯りの油が減っていく。窓の外で、夜の鳥が二度鳴いた。
五十行の紙を破いた。破いた紙を灯りの下に置いて、しばらく見ていた。
書けないのではない。書いても渡らない。
三夜目に、決めた。
何をするかだけを書く。なぜするかは書かない。
二夜目に止まった八家も、動いたときの手順だけを並べれば埋まる。ベルナール家は容体次第、と書く。容体をどうやって知るのかは書かない。知る方法は、あの家の門番の言い方の変化を見ることだけれど、それは手順ではない。
紙は書き損じの束から取った。片面が白いものを選んで、四十枚に足りない分は客間の便箋を使った。便箋の紙は薄いので、裏から字が透ける。
明け方までに、四十枚になった。
一枚に十行から十五行。日付、家名、品物、刻限。冒頭に月ごとの索引をつけた。索引をつけたのは、束のまま渡すと最初の頁で止まるからである。
索引だけで三枚を使った。月で引く分と、家名で引く分と、刻限で引く分。刻限で引く索引は、要らないかもしれないと思いながら作った。
束ねて、紐をかけた。紐をかけると、四十枚は思ったより厚い。
手帳を開くと、書き写した分だけ頁が埋まっていた。頭の中の方は、減っていない。
朝の間ではなく、お義母様の居室へ先に行った。
「リディアさん。こんな時刻に」
「お渡ししたいものがございます」
束を卓に置いた。紐の結び目が上を向くようにする。
紐は解かれなかった。上の一枚だけが持ち上がる。索引の頁である。
「これは」
「十年分、こちらに書いてございます」
索引を目で追いながら、二枚目、三枚目とめくっていく。めくる速さが途中から遅くなった。
「ずいぶん、細かく」
「日付と、家名と、品物と、刻限でございます」
「ヴァレ家の伯母様は、毎月一日」
「はい」
「あら、わたくしは十五日と思っておりました」
「十五日は、去年の秋までです」
お義母様は五枚目を持ち上げて、下に何枚あるかを見る。
六枚目で、めくる手が止まった。それから、束の厚みを指で確かめるようにした。
「これを、全部あなたが」
「はい」
お義母様の卓の端に、折り目のついた紙が一枚置いてある。端が茶色くなったあの予定表で、まだそこにあった。
「わたくしがいただいたのは、一枚でしたよ」
「さようでございますか」
「よくもまあ、こんなものを」
言葉の続きがなかった。続きがないまま、お義母様は束を自分の側へ引き寄せた。
「けれど、ありがたいこと。これがあれば、誰でも回せますね」
「さようでございます」
わたくしはそう答える。訂正はしなかった。
居室を出た。
扉を閉める前に、お義母様が索引の頁に戻るのが見える。もう一度、最初から読み直そうとしていらした。
朝の間で、旦那様が新聞を膝に置いていた。
「おはよう。今日は早いね」
「旦那様。本日より、社交の差配はお義母様へお返しいたしました」
新聞がめくられる音。
「差配」
「贈答、返礼、見舞い、弔い、席次。すべてです。手順は書いてお渡ししました」
「ああ」
旦那様は新聞をもう一枚めくった。
「別に構わないよ。君は覚えているだろう」
わたくしは答えなかった。
答えないでいると、旦那様は新聞を一枚めくって、同じ調子でもう一度言った。
「覚えているだろう」
芝の上に、二月ほど前に切り落とされた枝が一本、まだ残っている。庭師はまだ来ていない。
「いいえ。今日でやめます」
新聞が止まった。
「やめる、というのは」
「覚えるのを、やめます」
旦那様はこちらを見た。見て、それから笑いかけて、途中でやめる。
「疲れているんだろう。母上には僕から言っておくから」
「離縁をお願いいたします」
朝の間の空気は動かなかった。廊下の方で、誰かが盆を運んでいく音がする。
「リディア」
「順序を申し上げます。婚姻の解消は、まず双方の家に届けが要ります。わたくしの実家には、昨日のうちに使いを出しました。旦那様のお家からの届けは、こちらで書式を整えてございます」
「待ってくれ」
「財の分けは、持参の分をこちらへ戻していただければ結構です。屋敷の物には手をつけません。使用人はノエル一人を連れます。ほかは残します」
「なぜだ」
「引き継ぎ書は四十枚です。索引は月ごとに分けてあります。ご不明の点は、お義母様に」
「そうじゃない。なぜ、と訊いている」
「順序の話をしております」
旦那様は立ち上がった。立ち上がってから、行き先がないことに気づいたように、また座った。
「気にしていたのか」
わたくしは答えない。
朝の間の時計が鳴った。六つ。いつもならこの時刻に、その日の予定を頭の中で一度通す。今朝は通す先がない。
旦那様はこちらの返事を待っていた。待ちながら、片手で新聞の端を折っている。折り目がついて、また伸ばして、もう一度折った。
それから顔を上げた。
「来週の茶会はどうするんだ」
「お義母様に索引をお渡ししてございます」
「そうじゃない。君がいないと、あれは」
そこで言葉が切れた。切れたあと、旦那様は続きを探している。探して、見つからないまま、別のことを言った。
「一晩考えよう。今日はもういい」
「かしこまりました」
朝の間を出た。廊下の絨毯は、もう足音を吸うようになっている。替えてから三月が経っていた。
寝室でノエルが荷を作っていた。前の晩に自分から暇を願い出て、こちらへ移ると決めたそうである。
「奥様。書物はいかがなさいますか」
「置いていきます」
「手帳は」
「持ちます」
匣は机の上にあった。蓋を押さえて、留め金を外す。
中には、他家のカードが入っている。ブランシャール、ロジエ、ドーレ、ソレル、ヴェルニー、ル・グラン。数えると三十一枚あった。各家から一枚ずつ、こちらの手元に取ってある分で、この季節に顔を合わせる見込みのない六家を除いてある。
一枚ずつ取り出した。指の腹で紙の厚みを確かめてから、揃えて、重ねる。
重ねた分を持って、玄関広間へ降りた。
卓の上に置く。今日の分のカードが二枚、先に置いてあった。その隣に、こちらの分を置いた。
角の折れているものが四枚ある。折れているものは、その家の主が自分で扉の前まで来たという印である。折り方の意味を、この屋敷で知っているのは、あと誰になるだろう。
お義母様は左上を弔いだと思っていらっしゃる。四十枚の束には、左下と書いた。書いたけれど、なぜ左下なのかは書いていない。
ノエルが階段を降りてきて、玄関広間で立ち止まった。手には手帳が一冊だけある。
「奥様。こちらは」
「わたくしの分です」
ノエルは手帳を鞄に入れた。入れてから、卓の上のカードの束を見て、それから玄関の扉を見た。
「参りましょう」
匣を空にした。他人の名前が一枚もない匣は、こんなに軽い。




