第3話 君は気にしないだろう
噂は洗い場から上がってくる。
その朝、洗濯女が二人、廊下の角で口を閉じた。閉じ方が早すぎる。わたくしが通り過ぎてから、また声が戻った。戻った声は先ほどより低い。
朝の間で、ノエルが紅茶を運んできた。盆を置くとき、いつもより二歩ぶん遠くに置く。
「ノエル」
「はい」
「洗い場で何かありましたか」
「いいえ」
ノエルは嘘が下手である。下手なので、それ以上は訊かなかった。
午後、三軒を回った。
ブランシャール家、ロジエ家、ソレル家。刻限の内に三軒は多い方だけれど、順を組めば入る。三軒目の客間で、婦人が四人になった。
「そういえば、先月の茶会に、ドゥブレ様のところの」
言いかけた婦人の前で、隣の方が扇を開いた。開いただけで、話は別の家の庭へ移る。
わたくしは紅茶に口をつけた。扇が閉じるまで、庭の話は続く。
四人のうち、二人はこちらを見ない。見ない方の一人は、去年の秋にこの家の菓子の好みを尋ねてきた方である。あのとき、杏を出すかどうかを迷っていらした。
「アルヴェール夫人。今年の薔薇はどちらでお求めになりまして」
「南の通りの店で。去年と同じところです」
「まあ、では今年もあの店が」
薔薇の話は、庭の話より長く持った。持たせていたのは婦人たちの方である。
帰りの馬車で、扇を開いた方の家を思い出していた。ヴェルニー家の次女で、去年嫁いだ先はドゥブレ子爵家の縁続きにあたる。縁続きの家の話は、縁続きの人間の前ではしない。それだけのことである。
屋敷に戻ると、旦那様が玄関広間にいた。出かける支度をしている。
「旦那様。伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだい」
「ドゥブレ子爵家の三女の方は、今後もお招きになりますか」
旦那様の手が、手袋の縁で止まった。
こちらを見る。見てから、少し口を開けた。
その一拍のあいだに、こちらは何通りかを用意していた。招かないと言われたら、席次はそのまま。招くと言われたら、卓を組み替える。別の答えが来た場合のことは、用意していない。
「席次を先に決めておきたいのです。年に何度かでしたら、ヴェルニー様の側に固定できます。回数が増えるようでしたら、組み方を変えなければなりません」
旦那様は手袋をはめ終えた。
「そうだな。何度かはあるかもしれない」
「かしこまりました。では、そのように」
旦那様は帽子に手を伸ばして、それから止まった。何か言いかけた形で、口が半分開いている。
「リディア」
はい、と答えた。
「君は気にしないだろう」
旦那様は帽子を受け取って、玄関を出ていった。扉が閉まる音は静かで、いつもと同じだった。
気にしないだろう、と言われたことは、これまでにもある。
倹約の話をしたときにも言われた。義妹の縁談で実家の名を出さないと決まったときにも。
婚礼の翌年、実家の父が寝ついたときにもそう言われた。あのときは見舞いの刻限が旦那様の狩りと重なっていた。屋敷を出せる馬車は一台で、御者も一人である。片方を諦めるほかなかった。諦める方はこちらが選んだ。選ばせておいて、旦那様は君は気にしないだろうと言った。
気にしていないことにして、次の予定を組む。
組めば済んだ。今日も組める。ヴェルニー家の側に固定すれば、卓は保つ。
玄関広間の卓には、今日の分のカードが二枚置かれていた。二枚とも検めて、匣に入れた。
夜、寝室の机に灯りを置いた。
来年の贈答の予定を組む時期である。年が明けてからでは間に合わない家がいくつかあって、毎年この頃に頭の中で先まで通しておく。
ノエルが湯を運んできた。
「奥様」
「はい」
「奥様は、何もお書きになりませんね」
盆を置く手が、少し遅い。
「わたくしがこちらへ上がってから、一度も。ずっと不思議に思っておりました」
「覚えていれば足ります」
「わたくしには、とても」
ノエルは下がっていった。廊下で足音が遠くなる。
母も書かなかった。
実家の客間で、母はわたくしに家名を音で覚えさせた。紙は見せない。声に出して並べて、順番ごと覚える。順番で覚えたものは、途中の一つが抜けても前後から戻せる。母はそう教えた。
覚え違いをすると、母は正しい方をもう一度言わせた。叱りはしない。ただ、正しく言えるまで次へ進まなかった。三十七家を通しで言えるようになったのは、嫁ぐ年の春である。
母はわたくしを、リディ、と呼んだ。短くする方が呼びやすいから、というだけの理由だったと思う。この屋敷に来てから、そう呼ばれたことは一度もない。
呼ばれたいかどうかを、誰にも訊かれたことがない。訊かれていないので、答えたこともない。
机の引き出しから、手帳を出した。
表紙は少し反っている。開くと、三年前の日付が一つある。それきり白いままの頁が、あとは全部残っている。
ペンを取った。
一月、ヴァレ家。二月、ベルナール家とシャロン家。同じ月に重なる分は、品の格を揃える。三月、ブランシャール家の当主夫妻が銀婚。四月は旦那様の誕生日で、贈る先は十一軒。五月、ドーレ家の当主の齢が七十になる。七十の祝いは、六十五のときより一段上げる。
書いていくうちに、頁が埋まっていった。頭の中にあるものを紙に移すのは、思っていたより速い。速いけれど、書き終わっても頭の中のものは減らない。
六月、ヴェルニー家の長男の婚礼。七月の第二週は三軒が重なるので、贈る品は先に手配しておく。八月、ル・グラン家の喪明けから一年。九月と十月は空く。十一月、ソレル家の先代の三回忌。
十二月まで書いた。
その先の頁も白い。来年の分の次は、再来年の分になる。再来年の分も、今なら書ける。
インクを拭って、ペンを置いた。
灯りの油がまだ残っている。窓の外は静かで、廊下にも音はない。
翌年の贈答の予定を書き終えて、わたくしは手を止めた。来年のことを覚えるのを、やめた。




