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申し訳ありません、どちらの家の方でしたか  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 君は気にしないだろう

噂は洗い場から上がってくる。


その朝、洗濯女が二人、廊下の角で口を閉じた。閉じ方が早すぎる。わたくしが通り過ぎてから、また声が戻った。戻った声は先ほどより低い。


朝の間で、ノエルが紅茶を運んできた。盆を置くとき、いつもより二歩ぶん遠くに置く。


「ノエル」


「はい」


「洗い場で何かありましたか」


「いいえ」


ノエルは嘘が下手である。下手なので、それ以上は訊かなかった。


午後、三軒を回った。


ブランシャール家、ロジエ家、ソレル家。刻限の内に三軒は多い方だけれど、順を組めば入る。三軒目の客間で、婦人が四人になった。


「そういえば、先月の茶会に、ドゥブレ様のところの」


言いかけた婦人の前で、隣の方が扇を開いた。開いただけで、話は別の家の庭へ移る。


わたくしは紅茶に口をつけた。扇が閉じるまで、庭の話は続く。


四人のうち、二人はこちらを見ない。見ない方の一人は、去年の秋にこの家の菓子の好みを尋ねてきた方である。あのとき、杏を出すかどうかを迷っていらした。


「アルヴェール夫人。今年の薔薇はどちらでお求めになりまして」


「南の通りの店で。去年と同じところです」


「まあ、では今年もあの店が」


薔薇の話は、庭の話より長く持った。持たせていたのは婦人たちの方である。


帰りの馬車で、扇を開いた方の家を思い出していた。ヴェルニー家の次女で、去年嫁いだ先はドゥブレ子爵家の縁続きにあたる。縁続きの家の話は、縁続きの人間の前ではしない。それだけのことである。


屋敷に戻ると、旦那様が玄関広間にいた。出かける支度をしている。


「旦那様。伺ってもよろしいでしょうか」


「なんだい」


「ドゥブレ子爵家の三女の方は、今後もお招きになりますか」


旦那様の手が、手袋の縁で止まった。


こちらを見る。見てから、少し口を開けた。


その一拍のあいだに、こちらは何通りかを用意していた。招かないと言われたら、席次はそのまま。招くと言われたら、卓を組み替える。別の答えが来た場合のことは、用意していない。


「席次を先に決めておきたいのです。年に何度かでしたら、ヴェルニー様の側に固定できます。回数が増えるようでしたら、組み方を変えなければなりません」


旦那様は手袋をはめ終えた。


「そうだな。何度かはあるかもしれない」


「かしこまりました。では、そのように」


旦那様は帽子に手を伸ばして、それから止まった。何か言いかけた形で、口が半分開いている。


「リディア」


はい、と答えた。


「君は気にしないだろう」


旦那様は帽子を受け取って、玄関を出ていった。扉が閉まる音は静かで、いつもと同じだった。


気にしないだろう、と言われたことは、これまでにもある。


倹約の話をしたときにも言われた。義妹の縁談で実家の名を出さないと決まったときにも。


婚礼の翌年、実家の父が寝ついたときにもそう言われた。あのときは見舞いの刻限が旦那様の狩りと重なっていた。屋敷を出せる馬車は一台で、御者も一人である。片方を諦めるほかなかった。諦める方はこちらが選んだ。選ばせておいて、旦那様は君は気にしないだろうと言った。


気にしていないことにして、次の予定を組む。


組めば済んだ。今日も組める。ヴェルニー家の側に固定すれば、卓は保つ。


玄関広間の卓には、今日の分のカードが二枚置かれていた。二枚とも検めて、匣に入れた。


夜、寝室の机に灯りを置いた。


来年の贈答の予定を組む時期である。年が明けてからでは間に合わない家がいくつかあって、毎年この頃に頭の中で先まで通しておく。


ノエルが湯を運んできた。


「奥様」


「はい」


「奥様は、何もお書きになりませんね」


盆を置く手が、少し遅い。


「わたくしがこちらへ上がってから、一度も。ずっと不思議に思っておりました」


「覚えていれば足ります」


「わたくしには、とても」


ノエルは下がっていった。廊下で足音が遠くなる。


母も書かなかった。


実家の客間で、母はわたくしに家名を音で覚えさせた。紙は見せない。声に出して並べて、順番ごと覚える。順番で覚えたものは、途中の一つが抜けても前後から戻せる。母はそう教えた。


覚え違いをすると、母は正しい方をもう一度言わせた。叱りはしない。ただ、正しく言えるまで次へ進まなかった。三十七家を通しで言えるようになったのは、嫁ぐ年の春である。


母はわたくしを、リディ、と呼んだ。短くする方が呼びやすいから、というだけの理由だったと思う。この屋敷に来てから、そう呼ばれたことは一度もない。


呼ばれたいかどうかを、誰にも訊かれたことがない。訊かれていないので、答えたこともない。


机の引き出しから、手帳を出した。


表紙は少し反っている。開くと、三年前の日付が一つある。それきり白いままの頁が、あとは全部残っている。


ペンを取った。


一月、ヴァレ家。二月、ベルナール家とシャロン家。同じ月に重なる分は、品の格を揃える。三月、ブランシャール家の当主夫妻が銀婚。四月は旦那様の誕生日で、贈る先は十一軒。五月、ドーレ家の当主の齢が七十になる。七十の祝いは、六十五のときより一段上げる。


書いていくうちに、頁が埋まっていった。頭の中にあるものを紙に移すのは、思っていたより速い。速いけれど、書き終わっても頭の中のものは減らない。


六月、ヴェルニー家の長男の婚礼。七月の第二週は三軒が重なるので、贈る品は先に手配しておく。八月、ル・グラン家の喪明けから一年。九月と十月は空く。十一月、ソレル家の先代の三回忌。


十二月まで書いた。


その先の頁も白い。来年の分の次は、再来年の分になる。再来年の分も、今なら書ける。


インクを拭って、ペンを置いた。


灯りの油がまだ残っている。窓の外は静かで、廊下にも音はない。


翌年の贈答の予定を書き終えて、わたくしは手を止めた。来年のことを覚えるのを、やめた。

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