第2話 妻の実家の名を、夫は綴れない
自分の名札を見る機会は、年に何度もない。
その夜の卓には、アルヴェール伯爵夫人、と書かれた紙が置いてあった。書いたのはこの家の者ではない。招いた側の女主人が書いたもので、字は丸く、綴りは正しい。旧姓は書かれない。書く決まりがないのだから、書かれていなくて当然である。
ロシュフォールという字を最後に見たのは、婚姻の書類の上だった。十年前の冬で、こちらの署名は三枚に必要だった。
茶会は先週、滞りなく済んだ。末席の方は最後まで末席にいらして、菓子には手をつけずに帰られた。
十四人。組み合わせを決めたのはこの家の女主人で、五日前に使いが来て、こちらの意向だけ先に伺われた。
食堂へ移る前、女主人が紳士を一人ずつ捕まえて、どの婦人を伴うかを小声で伝えて回っていた。その手順を見ているうちに、一つだけ分かってしまった。ドーレ様とヴェルニー様が真正面に来る。
わたくしは自分の腕を預ける紳士に、卓へ入る前に一言だけ申し上げた。ドーレ様の名札と、わたくしの名札を入れ替えていただけますか、と。あいだにこちらが入って、真正面が斜めになる。ドーレ様は最後まで席をお立ちにならなかった。
わたくしは自分の椅子に着き、右手の紳士に去年の狩りの話を振ってから、卓の反対側の様子を見た。
旦那様は上機嫌だった。上機嫌のとき、旦那様は話を長くする。
「家内の実家がね、その土地の水利を持っていたんだ。ロシュフォーレ家という」
そこで卓の音が少しだけ落ちた。落ちたことに気づいたのは、たぶん三人ほどである。
「ロシュフォールでございます」
わたくしは笑って言った。
「ああ、そうだった。ロシュフォール」
旦那様は言い直して、水利の話を続けた。ロシュフォールのlは一つで、eは最後に来ない。婚姻の書類に十度は書いた綴りである。
右手の紳士がわたくしを見た。何も言わずに、皿の上のものへ戻った。
十年で、五度になる。人前で言い違えられた回数のことである。
料理が下げられ、婦人たちが先に立った。
控えの間で、お義母様が扇を膝に置いて待っていた。
「リディアさん、こちらへ」
椅子はふたつ。片方には既に紙が置いてある。折り目のついた予定表で、端が少し茶色くなっていた。
「来月から秋までの分です。ヴァレ家の伯母様は毎月の見舞いが要ります。ベルナール家は当主が長くありません。それから、シャロン家の三十七回忌」
「三十七回忌でございますか」
「四十九回忌の前に一度、区切りをつける家です。あの家だけそうなさる」
わたくしは紙を受け取った。書いてあるのは日付と家名だけで、誰がどの家の何にあたるのかは書かれていない。ヴァレ家の伯母様は義理の伯母で、先代の従妹にあたる。ベルナール家の当主は先代と学友だった。シャロン家の三十七回忌に呼ばれるのは、四十年前の縁談の名残である。
どれも紙にはない。ヴァレ家の伯母様は耳が遠いので、見舞いの品は音の出ないものにする。ベルナール家は先代が甘いものを断っていたから、今の当主も出されると困る。シャロン家の法要では、アルヴェールの名は上から四番目に読まれる。四番目より前に着くと、上の三家より早く座ることになってしまう。
「弔いの折には、カードの角を左上に折ってお出しなさい」
手が止まった。
左上は祝いである。弔いは左下で、これは十年より前に入れ替わった。今この王都で左上を折って弔問に出せば、遺族は祝われたと受け取る。
「かしこまりました」
わたくしはそう答えて、紙の端を揃えた。お義母様がご自分で置きに行かれることは、この十年、一度もなかった。
「あなたは覚えるのが仕事でしょう」
扇が閉じる音がした。
「わたくしも、先代の奥様から同じ紙をいただきました。あの頃はもっと家の数が多くて、覚えきれるものではありませんでしたよ」
「さようでございますか」
「けれど覚えました。覚えるほかにないでしょう」
先代の奥様は、お義母様に紙を渡した年に亡くなっている。渡された紙の続きを、お義母様は誰にも尋ねられなかったはずである。それでも家は回った。
お義母様は立ち上がって、婦人たちの輪の方へ戻られた。輪の中でお義母様は、どの家の誰にも正しく話しかけられる。
紙を畳んで匣に入れた。匣は今夜も、蓋を押さえないと閉まらない。
広間へ戻ると、紳士たちが煙草を終えて出てくるところだった。
「アルヴェール夫人」
声のした方を見た。背の高い方が一人、こちらへ歩いてくる。灰色の上着で、勲章のたぐいを何もつけていない。顔に見覚えがあった。名前が出てくるまでに、二拍かかった。
ダンヴィル。隣国との交渉を担っている方で、去年の秋、ロジエ家の会食で一度だけ同じ卓に着いた。あの夜の卓は十人。わたくしの席は左から三番目。
アルヴェール夫人、とこの方は言った。言い直しも、言い淀みもなかった。
「ダンヴィル様。お戻りでいらしたのですね」
「三月ほど前に。ご挨拶が遅れました」
「刻限の内にいらしていただければ、いつでも」
ダンヴィル様は少し笑った。
「その刻限のことで、お礼を申し上げたかったのです」
「お礼」
「去年、この王都で家々を訪ねる順を伺いました。ロジエ、ブランシャール、ドーレ、それからヴェルニーは間を空けて最後に、と」
わたくしは自分がそう言ったことを覚えている。デザートの前で、二分ほどの話だった。話した相手が翌年まで覚えているとは思っていなかった。
「そのとおりに回りましてね。ヴェルニー家では、ドーレ家の話は一度も出しませんでした」
「それは何よりでございます」
「三軒目までは形どおりでした。四軒目で、先方から先に川筋の話が出ました。順を変えていたら、こちらから切り出すことになっていたはずです」
「賢明でいらっしゃいます」
「去年、あなたが仰った順番のとおりでした」
広間の向こうで、旦那様が水利の話をまだ続けている。声の調子で分かる。
「順番を教えていただいたので、順番のとおりにしただけです」
ダンヴィル様はそう言って、それ以上その話を伸ばさなかった。伸ばさないことに、こちらが少し慣れなかった。
「もう一つ伺っても」
「はい」
「あの順は、どこかに書いてあるものですか。名鑑のような」
「書いてあるものはございません」
「では、どちらに」
わたくしは答えを探す。
「覚えております」
ダンヴィル様は頷いた。頷いただけで、感心もしなければ、褒めもしない。ただ、少しのあいだこちらを見て、それから「失礼いたします」と言って離れていく。
褒められなかったことが、耳に残った。
覚えている、と申し上げたときに、あの方は驚かなかった。
帰りの馬車で、明日からの刻限を数えた。
今夜の晩餐の返礼は三日のうち。ダンヴィル様は三月ぶりの再会だから、これは訪問の返礼ではなく、こちらから置きに行く形になる。四日。お義母様から預かった見舞いと弔いが、五月から十月までで七件。ヴァレ家は毎月だから、一件を六回に数え直す。十二件になる。
十二件のうち、四件は日付が動く。動いた分は前後の家の順も動かす。動かした結果として、七月の第二週に三軒が重なる週が一つできる。その週は他の予定を入れられない。
窓の外を街灯が流れていく。旦那様は隣で目を閉じていた。
「今夜の卓、悪くなかったな」
「はい」
「君の並べ方だと、だいたいうまくいく」
「ありがとうございます」
旦那様はそれきり黙った。眠ったのだと思う。
十二件の日付を、順に並べ直した。ヴァレ家は月の初め、ベルナール家は容体次第で前後する。シャロン家の三十七回忌は二月の第三週で、ベルナール家の見舞いと同じ月にあたる。同じ月に法要と見舞いが重なると、贈る品の格を揃えなければならない。
そこまで数えて、数え終えた。
覚えているのが仕事だと、この家の誰も言わない。言わないまま、十年が過ぎた。




