第49話 デバッグ日和
翌朝、要塞国の宿舎で目が覚めると——石造りの天井があった。
分厚い壁のせいで、外の音がほとんど聞こえない。静かだった。
昨晩の警報が、まだ頭に残っていた。
WARNING: Administrator wake-up sequence initiated.
Current progress: 12%
十二パーセント。
まだ猶予がある。でも——止まらない。ゆっくりと、確実に進んでいる。
一度深呼吸して、起き上がった。
今日は——今日のことをやる。
それだけだ。
食堂に下りると、シェルが一人でいた。
朝食には手をつけていない。画面に何かを表示して、じっと読んでいる。通常の解析じゃない——よく見ると、古い文書の抜粋だ。バグ修正とは関係のない、ただの歴史の記録だった。
「何を読んでる」
シェルが顔を上げた。
「バージョン0.xの時代の文献だ。パッチという英雄について、断片的な記録が残っていた。データベルグで回収したデータに含まれていた」
「読んで、どうする」
「別に」シェルが視線を画面に戻した。「知っておきたかった。それだけだ」
「そうか」
俺は向かいに座った。この世界のパンに相当する朝食が置かれていた。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「シェルはなぜ情報屋になったんだ」
シェルが少し間を置いた。
「記録が好きだから。何が起きたか、なぜ起きたか——それを残したい。消えてほしくない」
「データは死なない、か」
「そう言った。——なぜ聞く」
「さっきまでパッチの記録を調べてたから。消えかけている記録を、朝一番で調べているシェルを見て」
シェルが黙った。
「……パッチが戦った記録は、ほとんど消えていた。ヴァイラスが消したのかもしれない。それが——気に食わなかった。消えた記録を取り戻せるとは思わない。でも残っているものを、ちゃんと見ておきたかった」
「なるほど」
「感傷ではない。データとして、知っておく価値があると判断したまでだ」
「そうだな」
俺は朝食に手をつけた。シェルも画面に戻った。
それきり、しばらく何も言わなかった。
悪くない朝だと思った。
「鍛錬に付き合え」
ガルドが食堂に入ってきた。訓練着を着ている。
「今から?」
「今から。怠けると鈍る」
朝食を半分食べたところで、ガルドに引っ張られた。
要塞国の中庭。石畳の広い訓練場。クリプト国王の部下が何人か訓練をしていて、俺たちが来ると少し距離を取った。様子を見るつもりらしい。
「特別なことはしない。ただ動く」
ガルドが言って、構えた。
デバッガーズ・アイは使わない。素の状態で動く。
一時間後、俺は三十回以上転がされていた。ガルドに当てられたのは五回だった。
「弱いな」
「そうだよ」
「前世でも運動はしてなかったのか」
「プログラマーだったから。座ってる仕事だ」
ガルドが声を出して笑った。珍しかった。本当に珍しかった。
「——なあ、蓮」
「なんだ」
「俺が死んだら、どうする」
笑い声の直後だった。だから余計に、その言葉が際立った。
俺はガルドを見た。ガルドはすでに視線を逸らして、訓練場の向こうを見ていた。
「……何の話だ」
「俺のステータスにある『……』のことだ。デバッガーズ・アイで見えてるだろう。誤魔化さなくていい」
「——」
「寿命が多くない。スタックオーバーフローを使い続けたせいで、俺自身のコードが摩耗してる。それをお前が見てるのは知ってる」
俺は答えなかった。
ガルドも、しばらく黙っていた。
「言わなくていい。確認したかっただけだ」
「ガルド」
「なんだ」
「お前が死んだら——」
俺は少し考えた。
どう言うのが正しいか。感情的な言葉を選んでも、ガルドには刺さらない。ガルドに届く言葉は——直接的な言葉だ。
「困る」
ガルドが振り向いた。
「困る、か」
「困る。今のパーティでお前の代わりはいない。アリアは剣が得意だが前線で全部受け切るタイプじゃない。シェルは後方支援だ。メモリは補助。俺は——前線向きじゃない。お前がいなかったら、このパーティは正面から押されたら崩れる」
ガルドが——少し笑った。
「それだけか」
「あとは——」
俺は言葉を選んだ。
「信頼してるから。簡単には代わりを見つけられない」
ガルドが拳を鳴らした。
「そうか。なら死ぬな、ということだな」
「そういうことだ」
「——肝に銘じておく」
それだけ言って、ガルドは訓練を再開した。俺も構えた。今度は二時間やった。最後には七回当てられた。
七回。
少しだけ、増えた。
夜。
アリアと、城壁の上に上がった。
かなり高い。地上を見下ろすと、要塞国の街が灯火で輝いている。人々がそれぞれの日常を送っている。危機がどこかで進んでいても、夕食を食べて、笑って、眠っている。それが——俺には少しだけ、美しく見えた。
「きれいですね」
アリアが言った。
「ああ」
星が多かった。都市より空気が澄んでいるのか、数が違う気がした。
「この世界の星と、マスターの元いた世界の星は——同じに見えますか」
「違う」俺は答えた。「星座の形が全然違う。でも——明るさは似てる気がする。人間が昔から見上げてきた光に見える」
「そうですか」
アリアが星を見上げたまま、聞いた。
「レンは、この世界が好きですか」
俺は少し考えた。
「……ああ。好きだ」
「どこが」
「バグだらけのくせに、頑張ってるところが」
アリアが小さく笑った。
「人のことですか、世界のことですか」
「両方だな」
しばらく、静かだった。
「兄上が——心配です」アリアが静かに言った。「城に戻ったら、どんな顔をして会えばいいか、まだ分からなくて」
「どんな顔でもいいんじゃないか」
「……そうかもしれません。ただ会うだけでいい、ということですか」
「そういうことだ。ヴァリドに対して何かを証明しようとするより——いつもと同じ顔で会う方が、たぶんあいつは楽だ」
アリアが少し間を置いた。
「……兄上のことを、よく分かっていますね」
「お前から聞いた話だけで判断してるから、間違ってるかもしれないけど」
「合っています」
アリアが満天の星を見上げたまま、小さく言った。
「……私も、この世界が好きです。バグだらけだけど」
「だから守りたい、か」
「はい」
「——俺も」
静寂が続いた。
風が吹いて、城壁の上の灯火が揺れた。
遠くで何かの鳥が鳴いた。
この平和が——あと何日続くか分からなかった。でも今この瞬間は、確かにここにあった。
「お前がいなかったら、この世界はとっくにブルースクリーンだったな」
翌朝、シェルが言った。
唐突だった。俺が別の作業をしていたので、思わず振り向いた。
「……何の話だ」
「事実を言っただけだ」
シェルが顔を背けて続けた。
「ゴブリン村の時から計算してみた。お前が修正したバグの数と、それがカウンターに与えた影響。お前がいなかった場合のシミュレーション結果——カウンターは今頃90%を超えていた。アドミンの起動シーケンスは40%以上進んでいた」
「そうか」
「——礼を言っているわけじゃない。データの話だ」
「分かってる」
「……感謝している、と言いたかっただけだ」
シェルが素っ気なく立ち上がって、部屋を出ていった。
俺はその背を、しばらく見ていた。
感情はノイズだと教えられてきた人間が、感謝という感情を持ったことを——言葉にした。それがどれだけのことか、俺には少し分かる気がした。
昼前、メモリが食堂に来た。
「皆さん——ありがとうございます」
唐突だった。
「何が」
「全員に、です」
メモリが全員に向けて言った。食堂にいたガルド、アリア、シェル、俺——全員が少し止まった。
「パッチ様の時は——私は一人にしてしまいました。仲間がいたのに、最後は一人で全部を背負わせてしまった。それが——ずっと、引っかかっていました。でも今は」
メモリが、俺を見た。
「マスターには仲間がいる。私には仲間がいる。それが——とても、嬉しいです。今度は——一人にしない」
誰も何も言わなかった。
ガルドが鼻を鳴らした。
アリアが「こちらこそ」と小さく言った。
シェルはコーヒーカップを持ったまま、窓の方を向いた。肩が——少しだけ緩んでいた。
俺は何か言いたかったが、うまく言葉が出てこなかった。
「……任せろ」
それだけ言った。
メモリが笑った。
その笑顔が——午後の光の中で、やけに明るく見えた。嵐が来る前の光は、こういう色をしている。
夕暮れ時。
俺が城壁の上を歩いていると——空に亀裂が走った。
音もなく。
静かに、でも確かに。
地平線の向こうから始まったそれは、じわじわと広がっていく。空の青が割れ、その向こうに——別の色が見えた。
コードが流れているような、深い黒と金の混ざった、異質な色が。
「マスター」
メモリの声が変わった。
「あれは——」
「分かってる」
カーネル空間だ。
アドミンの起動シーケンスが進んでいる証拠。世界の最深部が、表面に滲み出てきている。
完成しつつある何かが、もうすぐここに来る。
束の間の平穏が——終わった。
俺は空の亀裂を見た。その向こうを見た。
「——行くぞ」
次回、第50話「ワールド・クライシス」——第2巻最終話。世界各地で同時多発的なバグ爆発が起きる。ヴァイラスの最大規模の攻撃。五大王国が一つになって、最後の防衛戦が始まる。そして——`ROOT ADMIN: ONLINE`。




