第50話 ワールド・クライシス
空の亀裂が——広がり続けていた。
セキュリア要塞国の上空だけではなかった。シェルの通信によれば、ロジカ王国の方角にも見える。ビジュアル帝国でも、ネットワーク連合でも、データベルグでも——空が割れ始めているという。
五大王国の全域で同時に。
「ヴァイラスが動いた」
シェルが言った。声は静かだったが、画面の前で指が止まっていた。
「規模は」
「過去最大だ。今まさに、五大王国の全域で同時多発的にバグが発生している。環境変数レベルの異常が、少なくとも二十三カ所で確認されている」
「カウンターは」
シェルが一拍置いた。
「——78%。上昇が止まらない」
「推移は」
「過去一時間で8ポイント上昇」
8ポイント。
これまでの最速だ。このペースが続けば——
「どれくらいで100%に達する」
「現在のペースで——三十時間以内」
クリプト国王が鎧を着込んでやってきた。
剣を帯びていた。いつ戦いが始まってもいいという格好で。
「要塞国はここを守る。カーネルへの入口は、絶対に渡さない」
俺を正面から見た。
「だが——外で起きていることへの対応は、お前たちに任せるしかない。この国の防衛と、外への対応を同時に担う力は、今の我が国にはない」
「分かりました」
「一つだけ言っておく」
クリプト国王の声が——変わった。
「この要塞は二千年間、一度も落ちたことがない。俺たちは最後まで守る。だからお前は——遠慮なく外に出ろ。この国が盾になる」
重い言葉だった。
二千年間の誓いを、俺一人に預けている。
「——必ず戻ります」
俺はそれだけ言った。
「役割を決める」
俺は全員に言った。
「アリアは各国との連絡調整を担当する。外交窓口を一本化する。五大王国が同時に動くなら、情報の混乱を防ぐ指揮が必要だ」
「了解しました」
「シェルは情報収集と優先度の判断。どのバグから潰すか、リアルタイムで俺に上げてくれ」
「分かった」
「ガルドは——」
「現場だろ」ガルドが言った。「どこかに飛んで、物理的な被害を止める。任せろ」
「頼む。ただし——」
俺はガルドを見た。
「無理は、するな。本当に」
ガルドが俺を見た。
「お前が言うか」
「言う。俺が言う」
ガルドが短く笑って頷いた。
「メモリはナビゲーションと俺の補助。遠隔デバッグの支援を頼む」
「はい、マスター」
「俺は——各地の中枢バグを処理する。環境変数レベルの異常は俺しか直せない。ただし細かいバグは各国の協力者に任せる。俺が全部やろうとしない。それが——今回の原則だ」
全員が頷いた。
「行くぞ」
最初の一時間が、最もきつかった。
「ロジカ王国、北部で重力反転。住民が天井に張りついている。緊急度:最高」
「対処する」
メモリのナビゲーションを通じて、ロジカ北部の環境変数にアクセスした。重力ベクトルを戻す。書き換える。一分かからなかった。
「ビジュアル帝国、中央区で時間停止。市街地全体が凍っている——」
「少し待て。今ロジカを——」
「了解。次の報告を続ける。ネットワーク連合、中継塔七基が同時停止。ガルドを向けるか?」
「ガルド、聞こえるか」
「聞こえてる。座標を寄越せ」
シェルが座標を送った。ガルドが転移した。
俺はビジュアル帝国の時間停止に移った。環境変数の時間係数を読む——0になっていた。意図的に書き換えられている。
元に戻す。
戻した瞬間、別の場所で新しい異常が発生した。
「カウンター——82%」
シェルの声が、俺の意識に刺さった。
「分かってる」
「追いついていない。ヴァイラスの攻撃速度が、今のお前の修正速度を上回っている」
「——分かってる」
三時間が経過した。
俺の指先が——揺らいでいた。
ノイズのように。一瞬だけ透けて消える。また戻る。また揺らぐ。
「マスター」
「見てる」
「自己コードの劣化が——9%を超えています」
「まだ余裕がある」
「余裕ではありません」
メモリが——声を上げた。
これまで聞いたことのない声の上げ方だった。遠慮なく、感情が乗っていた。
「現在の使用ペースでは——あと四時間で20%を超えます。そうなれば——マスターが」
「今止めたら世界が——」
「マスター!」
俺は止まった。
「——パッチ様は、最後に一人で全部を抱えました。全部を一人でやろうとして——それで、狂ってしまいました。あなたにそうなってほしくない。あなたには仲間がいる。一人でやらなくていい」
「でも——」
「あなたが倒れたら、誰がアドミンのコアにアクセスするのですか」
静寂が来た。
「最後の決断を下せるのは——あなただけです。今、使い潰してしまったら、その時に間に合わない」
俺は自分の手を見た。揺らいでいる指先を。
「——分かった」
深呼吸した。
「シェル、優先度の再整理を頼む。俺が対処すべき最重要案件だけを上げてくれ。環境変数レベルと、各国の協力者では対処できない規模だけ。それ以外は振ってくれ」
「既にやっている」シェルが答えた。「お前が限界に近いことは、俺にも見えていた」
「なぜ言わなかった」
「言っても聞かなかったと思ったから」
「——今日二回目だ、その答え」
「事実だからだ」
役割を絞った後、効率が変わった。
五大王国の魔法師が小さなバグを処理して、俺はその集約点——環境変数レベルの異常だけを引き受ける。シェルが情報を整理して、俺への流量をコントロールする。メモリが補助計算を担当して、処理速度を上げる。
「……前の世界でも、同じ失敗をしかけた」
俺は動きながら呟いた。
「問題を一人で抱えて、限界まで黙って動いて、気づいたら倒れてた。今回も同じことをしかけた」
「学習しましたか」メモリが言った。
「してる。遅いけど」
「遅くても学ぶのは、大事です」
夜が来た。
カウンターは85%だった。
上がった。でも——上昇ペースが落ちた。役割分担が機能して、修正速度が追いついてきている。
「このままいけば——横ばいに持ち込める」
シェルが言った。
「100%には達しない。ヴァイラスの攻撃速度と、五大王国の修正速度が、今は拮抗している」
「でもヴァイラスがペースを上げたら」
「それが——問題だ」
その時。
「聞こえるか、プログラマー」
声が——空から降ってきた。
五大王国全域に同時に届いている、とシェルの画面が示した。ヴァイラスの声が、世界全体に響いている。
「もう止まらない」
低い声だった。感情のない声だった。
「カウンターは100%に達する。アドミンが目覚める。そして俺がアドミンを——叩き潰す。この世界ごと、な」
俺は空を見た。
亀裂の向こうに、カーネル空間が滲み出ている。深い黒と金の色が、じわじわと広がっている。その向こうに——何かの輪郭がある。まだ眠っているが、動き始めている。
「このカウンターを、俺が下げる速度を超えて上げれば済む話だ。その力は俺にある」
静かな宣言だった。
「試してみろ」
声が消えた。
「蓮」
ガルドが来た。
汗だくだった。あちこちで現場を回ってきた後だ。腕に、コードの焦げ跡が残っている。
「どうする」
俺は答えなかった。
すぐには。
このパーティで旅してきた時間を思った。
メモリと走り回って、アリアと話して、ガルドと訓練して、シェルと隣で作業した時間。この世界に住む人たちがいて、バグだらけでも必死に生きている。
失うわけにいかない。
「——全員で防衛する」
俺は言った。
「五大王国、全部使う。各国が自国の防衛に全力を尽くす。その間に俺が中枢のバグを処理する。ヴァイラスがペースを上げるなら、俺たちもペースを上げる」
「お前一人で抱えるのか」
「一人じゃない」
俺は全員を見た。
「チームで動く。シェルが情報を捌く。ガルドが現場を守る。アリアが各国を繋ぐ。メモリが補助する。俺が最重要を直す。それだけだ」
「それだけ、か」
「それだけで十分だ」
ガルドが短く笑った。
「言い切るな、お前」
アリアが頷いた。シェルが画面に向き直った。メモリが「はい」と言った。
通信越しに、五大王国の全指揮官が繋がった。
俺は言った。
「この世界はバグだらけだ」
静寂があった。
「毎日のように異常が起きる。物理法則が狂う。過去の記録が書き換えられる。通信が途絶する。それが——この世界の現実だ」
誰も口を挟まなかった。
「でも——だからこそ、直す価値がある」
俺は続けた。
「バグのない完璧な世界より、不完全でも直し続ける世界の方が——俺は好きだ。そこで生きている人間が、諦めずに守ろうとしている世界が。そういう世界を——俺は守りたい」
沈黙が続いた。
それから——各国の指揮官が、一人ずつ答えた。
「ロジカ王国、参加する」
「ビジュアル帝国、全力を出す」
「ネットワーク連合、繋がり続ける」
「データベルグ公国、記録を守る」
「セキュリア要塞国——ここから動かない」
「全員で、このworldのバグを潰す。自分たちの国を、自分たちの手で守る。それだけでいい」
俺は息を吸った。
「始めよう——全てを賭けた、デバッグ作戦だ」
夜明けが来た。
空の亀裂が——さらに広がっていた。
カーネル空間が滲み出している。その向こうに、巨大な何かの輪郭が——今まではっきりと見えた。
まだ眠っている。
でも——目覚めかけている。
デバッガーズ・アイが、その輪郭を捉えた。
光が走った。
カーネル空間の深部から発せられた、巨大な光の柱が——空を貫いた。
音もなく。
ただ、静かに。
そして——文字が浮かんだ。
空全体を使って。五大王国の全域で同時に見えるように。
俺にしか読めない文字が、世界の空に刻まれた。
ROOT ADMIN: ONLINE
Initialization sequence: LOADING...
World format scheduled in: [CALCULATING]
Current bug density: 85%
Note: Threshold approaching.
Stand by for final assessment.
世界が——静止したような気がした。
カウンター。ヴァイラス。パッチ。デバッグ。
全部が、この瞬間に向かって流れてきたような気がした。
俺は光の柱を見た。
「——来た」
俺は呟いた。
「アドミンが目覚めた」
それは始まりの声だった。
これまでとは違う。これからは——全てが変わる。
俺は手を握った。
デバッガーズ・アイ、Lv3。まだ足りない。でも——ここで終わりじゃない。
「——まだ終わっていない」
その言葉は、誰かに向けたものではなかった。
自分自身に、言い聞かせるためのものだった。
次巻予告——ついに目覚めたアドミン。世界の真実が明かされ、蓮は最も重い選択を迫られる。パッチを救う方法はあるのか。そして——デバッガーズ・アイは、最高レベルへ。
ついに50話!!!ここまで読んでいただいた皆様ありがとうございます!




