第44話 ヴァイラス・セカンドコンタクト
ヴァイラスは——動かなかった。
攻撃するつもりは、今はない。その姿勢から伝わってきた。だが俺も、油断できなかった。コードで構成されたその輪郭は常に揺れていて、次の瞬間に何が起きるか読めない。
「剣を下ろせ」
アリアに向かって言った。
「下ろしません」アリアは動かなかった。「あなたが私の兄に何をしたか——忘れていないので」
「構わない」ヴァイラスが言った。「そのまま持っていればいい。俺は今、戦いに来たわけじゃない」
「何のために来た」
「——話すために」
場が静まった。
アリアが俺を見た。俺は少し間を置いた。
ヴァイラスが「話す」と言い出したのは、初めてだった。ビジュアル帝国での接触は一方的な嘲笑だった。王宮の幻影の中では言葉を交わす余裕もなかった。今回は違う——俺がヴァリドのコードを分離したことで、何かが変わったのかもしれない。
「聞く」
俺は頷いた。アリアは剣を収めたが、柄に手を乗せたままにした。
「一つ聞かせてくれ」
俺は先に口を開いた。
「なぜ人間を使う。ヴァリドのように、協力者を作って。お前が直接バグを撒くだけじゃ足りないのか」
「効率の問題だ」
ヴァイラスはあっさり答えた。
「俺一人では時間がかかりすぎる。だが人間は——自分から望んで手を貸してくれる。力を求める者に力を与えれば、後は放っておいてもバグを撒いてくれる。お前たちは教えなくても、自分で世界を壊してくれる」
「——それが本心か」
「事実だ」
俺はヴァイラスの目を見た。赤い目。コードの渦が向こうに見える。でも——その奥に、何かがある気がした。怒りとも悲しみとも判別できない、複雑な堆積物のような何かが。
「じゃあ——お前がそこまでして世界を初期化したい理由は何だ」
沈黙が来た。
長い沈黙だった。
ヴァイラスが——窓の方に向いた。歪んだ王宮の窓の外に、朝の光が差し込んでいる。バグだらけで歪んだ王都を、光が照らしている。
「聞きたいか」
「ああ」
「聞いたら——どうする。俺を止めようとするのか、俺を理解しようとするのか、それとも」
「分からない」
俺は正直に言った。
「聞く前には分からない。でも——知らないまま止めようとするのは、俺の流儀じゃない。バグの原因も調べずに消してみろ、同じバグがまた出る。それと同じだ」
ヴァイラスが——俺を正面から見た。
長い沈黙の後。
「——話そう」
その声は、初めて少し違った。嘲笑ではなく、何か別のものに近い何かが混じっていた。
「俺の名前は——今はヴァイラスだ」
語り始める声は、静かだった。静かすぎた。感情を抑え込んで、ただ事実を並べようとする、そういう静かさだった。
「だが昔は——別の名前があった。バージョン0.xの時代の話だ。今の世界より遥か昔、源コードがまだ粗削りで、バグが今の比でなく溢れていた時代の」
「メモリから聞いた。断片的にだが」
「そうか。なら話が早い」
ヴァイラスは続けた。
「その時代に、俺はいた。バグだらけの世界を——直したかった。理由は単純だ。人が苦しんでいたから。毎日のように物理法則が壊れて、作ったものが崩れて、生きるだけで精一杯だった。俺は——それを見ていられなかった」
「一人で始めたのか」
「最初はそうだ。でもやがて——仲間が集まった」
その言葉が出た瞬間、ヴァイラスの輪郭が——かすかに揺れた。いつもの物理的な揺れとは違う。内側から揺れているような、そういう揺れ方だった。
「世界を守りたかった者たちが、俺の周りに集まった。それぞれに名前があった。それぞれに——守りたいものがあった。俺たちは一緒に、バグと戦い続けた。何年も、何十年も」
「そして」
「そしてアドミンが——バージョンアップを決めた」
今度は、沈黙が違った。
重かった。
「バージョン1.0。大規模な再構築。旧世界のコードをリセットして、より安定した新しい世界を構築する。アドミンの判断だ。理屈の上では正しい。源コードが劣化しきっていたのは事実だから」
ヴァイラスの声が、ここで初めて変わった。
「俺は反対した。何度も反対した。アドミンに直訴した。世界を守るために戦い続けた者たちを、お前は消すのかと。その決定は正しくないと。でも——アドミンは動かなかった」
「仲間は」
「消えた。全員」
言い切った。
感情を乗せることを拒絶しているような、そういう声で言い切った。
「初期化とともに、前のバージョンのコードは全て消去された。一人残らず。俺だけが——なぜか残留した。なぜ俺だけが残ったのか、今も分からない。バグかもしれない。あるいは——意図的なのかもしれない。どちらにしても、知る方法がなかった」
「それで——アドミンへの復讐を考えた」
「復讐、という言葉は好きじゃない」
ヴァイラスが言った。
「だが——否定しない。俺がしたいのは、アドミンを引きずり出すことだ。カウンターを100%にすれば、アドミンの初期化プログラムが起動する。アドミンは目覚める。そして俺は——目覚めたアドミンを叩き潰す」
「初期化が起きれば、今の世界の人間も全員消える」
「そうだ」
「分かってて言ってるのか」
「分かってる」
ヴァイラスは——揺らがなかった。
「理解できないか。プログラマー。アドミンは何度でも同じことをする。バージョン1.0の後にも、1.1が来て、2.0が来る。その度に、前のバージョンの全てが消える。お前たちもいつか消える。俺が動かなくても、時間の問題だ」
俺は答えなかった。
「ならば俺が動いて初期化を引き起こし、その先でアドミンを倒す。次のバージョンでは——俺がルールを作る。もう誰も、一方的に消されない世界を。消えた仲間が報われる世界を」
アリアが息を呑んだ。
ガルドが——低く唸った。
シェルは何も言わなかった。俺には分かった。シェルは今、感情とデータの間で何かを処理している。
そして俺は。
俺は——ヴァイラスの話を聞きながら、否定できない部分が、確かにあった。
仲間を全員失って。自分だけが残されて。理不尽な決定によって、守ろうとしたものが消えて。
もし俺が同じ立場だったら。
前の世界で。突然死んで、誰にも知らせずに消えて——もし俺が、大切なものを失って一人残された側だったなら。
「——お前の気持ちは」
俺は口を開いた。
「分かる気がする」
ヴァイラスが動いた。わずかに。でも確かに、動いた。
「仲間を全員失って、自分だけ残されて、それがアドミンの一方的な決定によるもので——俺だったとしても、同じように怒るかもしれない」
「——」
「ただし」
俺は続けた。
「それは——前の世界のために、今の世界を犠牲にすることだ」
「何が違う」ヴァイラスが言った。「アドミンが前の世界を消して今の世界を作ったのと、何が違う」
俺は言葉を選んだ。
ここは慎重に選ばなければならない。ヴァイラスは間違っている。でも——単純に間違っているわけじゃない。
「お前が間違いだと思うことを——お前がやる理由にはならない、ということだ」
「どういう意味だ」
「アドミンのやり方が不当だと思うなら。そのやり方と同じ方法で、同じことをするのは——違う。アドミンを批判する権利が、そこで消える。今の世界に生きている人間を巻き込む理由には、ならない」
ヴァイラスが——長い沈黙をとった。
俺はその沈黙の意味を読もうとした。怒りなのか。それとも——考えているのか。
「理解できないなら仕方ない」
その声は、冷たかった。
「プログラマー。俺の邪魔をするなら——俺はお前を排除する。それだけだ。お前の論理は正しいかもしれない。でも俺には——関係ない」
ヴァイラスの姿が薄くなり始めた。
「次に会う時が——決着だ」
声だけが残った。それも、消えた。
静寂が来た。
室内が——静かになった。
ヴァリドが壁に背をもたせかけて、ゆっくりと息をついていた。アリアがその隣に座っていた。ガルドが腕を組んだまま立っている。シェルは——何かのクエリを打ちかけて、止まっていた。
俺はその場に立ったまま、ヴァイラスが消えた空間を見つめた。
前の世界のために今の世界を犠牲にする。
それは間違いだ、と俺は言った。
間違いだと——思う。
でも。
俺の頭の中に、奇妙な既視感があった。
仕事で失敗した記憶。バグを放置したこと。問題を見て見ぬふりをしたこと。修正できたのに、人間関係を気にして、見逃したこと。
その末路が死だったこと。
ヴァイラスの孤独の形は——俺が知っている形に、少し似ていた。誰にも頼れなくて、全部を一人で抱えて、気づいたら取り返しがつかなくなっていた。あの形に。
「蓮さん」
違う声が来た。
俺の袖が、引かれた。
振り返ると——メモリが立っていた。
いつもと違う顔をしていた。蒼白、という言葉が当てはまるような顔だった。瞳が揺れていて、何か——深いところから浮き上がってくるものがある顔だった。
「マスター……あの方の名前は——」
メモリが、かすかに震えた。
「——パッチ、様」
その名前が出た瞬間。
メモリの全身に——光が走った。
次回、第45話「メモリの涙」——メモリの全記憶が戻る。英雄パッチとの長い年月、消えた仲間たちの記憶、そしてなぜメモリは長い眠りを選んだのか。全てが明かされる。




