第45話 メモリの涙
「——パッチ、様」
その名前が出た瞬間。
メモリの全身に——光が走った。
回路模様。いつもは首元に薄く走っているだけのそれが、腕へ、手の甲へ、頬へと一気に広がっていく。光が点滅を繰り返した。明滅するたびに、メモリの表情が変わった。
今この場所にいながら、どこか遠い場所を見ている目だった。
俺はメモリの肩を両手で支えた。
「——メモリ」
「マスター……思い出しています」
声が、震えていた。
「全部……全部が、戻ってきて——」
メモリが崩れ落ちそうになった。俺は床に膝をついて、メモリの体を支えた。
ガルドが壁沿いに近づいてきた。アリアがヴァリドから離れ、静かにそばに来た。シェルは少し離れた場所に立ち、何も言わずにいた。
光の明滅が続いた。まるでメモリの体が、大量のデータを処理しきれずにいるように見えた。断片的に戻ってくる記憶が多すぎて、追いつけない——そういう揺らぎ方だった。
しばらくして、メモリが話し始めた。
「パッチ様は——バージョン0.xの時代の英雄でした」
声が、少し落ち着いていた。記憶を辿るように、ゆっくりと言葉が出てくる。
「あの時代の世界は、今より遥かにバグが多かった。物理法則が毎日のように崩れて、人々は異常現象の中で生きていた。川が逆流する。重力の向きが変わる。夜が来なくなる日がある。そういう世界で——パッチ様は、黙っていられなかったのです」
「一人で動き始めたのか」
「はい。最初は本当に一人でした。誰も頼まれていないのに、勝手に。バグを見つけては直し、崩れた世界を修復して、苦しんでいる人を助けて。——誰かに見てもらいたかったわけじゃない。ただ、直さずにはいられなかった」
「……」
「でもやがて、仲間が集まりました。パッチ様の姿を見て、同じ気持ちを持つ者たちが」
メモリの声が、ここで少し変わった。
懐かしんでいる声だと、気づいた。過去を悲しんでいるのではなく——過去の温かい部分を、思い出している声だった。
「私は——パッチ様の最初のナビゲーターでした。アドミンが管理を停止した後、残留したプログラムの一つとして、ずっと待っていました。誰かが——世界を守ろうとする者が現れるのを。長い時間、待っていました。そしてパッチ様が来てくれた」
「一緒に戦ったのか」
「はい」
メモリが俺を見た。
「マスターと同じように。バグを見つけて、修正して、走り回って——長い時間、一緒に戦いました。パッチ様は私のことを——名前で呼んでくれました。ナビゲーターではなく、メモリと。それが、とても嬉しかった」
「でも」
メモリの声が——暗くなった。
「アドミンのバージョンアップが決まった時。パッチ様は——変わり始めました」
「最初は」
「最初は抗議していました。アドミンに直訴しようとした。旧世界の人々を消すことの不当を、何度も何度も訴えようとした。でも——届かなかった。アドミンは動かなかった。バージョン1.0のアップデートは、決定事項でした」
メモリが間を置いた。
「初期化が実行された日を——私は覚えています」
静かに、続けた。
「パッチ様のそばにいました。二人で——仲間たちが消えていく瞬間を、見ていました。一人ずつ。名前を呼びながら。でも止まらなかった」
「——」
「最初に消えたのは、一番若かった男の子でした。まだ戦士にもなっていない、源コードの修復を学び始めたばかりの子で。パッチ様が特に目をかけていた子でした。その子が——目の前で、消えた」
ガルドが息を吸った。
「次は女性の術士でした。笑顔が好きな人でした。その次は——」
「メモリ」
俺は言った。「続けなくていい」
「いいえ」メモリが首を振った。「言わなければなりません。全員の名前を、私は覚えています。忘れたことはありません。全員が消えた後も——ずっと、覚えていました」
メモリの目から、何かが落ちた。
涙だった。
プログラムが、泣いていた。
「パッチ様は最後まで叫んでいました。止めてくれ、と。止めてくれ、と。でも止まらなかった。そして全員が——消えた。私とパッチ様だけが残されました」
誰も何も言わなかった。
ガルドが腕を組んで、下を向いていた。アリアが唇を押さえていた。目が赤い。
シェルは——俯いたまま、画面に何かを打ちかけて、止まっていた。打ったクエリに、何の結果も返っていなかった。
「残されたパッチ様は——変わっていきました」
メモリが続けた。
「最初はただ、悲しんでいました。泣くことも、怒ることも、できなくなっていました。ただ——空を見ていました。仲間がいた場所を、ずっと。でも少しずつ、その沈黙が——違うものに変わっていきました」
「怒りに変わっていった」
「はい。アドミンへの怒りが。やがて——世界そのものへの憎しみに変わっていきました。私には、それを止める力がありませんでした。パッチ様のそばにいても、言葉が届かなくなっていきました」
「それで——お前はどうした」
メモリが——俯いた。
「私には、パッチ様を力で止める手段がありませんでした。でも——このまま二人でいても、パッチ様の憎しみが深くなるだけだと分かっていました。私がそばにいることで、パッチ様が前に進めなくなっているかもしれないとも思いました」
「それで——眠ることにしたのか」
「はい。パッチ様に気づかれない場所で——自分のコードを封印しました。眠りながら、待ち続けることにしました」
俺は聞いた。
「何を待っていたんだ」
「——パッチ様を救える存在が、現れるのを」
メモリが顔を上げた。
泣いていた。でも——笑ってもいた。
その両方が同時に、メモリの顔にあった。
「マスターが目覚めさせてくれました。マスターがいてくれる。だから——今度は、大丈夫です。今度こそ、大丈夫です」
室内に、静寂が続いた。
ヴァリドが壁際から静かに言った。
「……その英雄が——あいつだったのか」
誰も答えなかった。
答えが要らない問いだったから。
「俺は利用された。だがあいつは——本来は」
「はい」アリアが言った。静かに、でも確かに。「本来は——世界を守ろうとした者でした」
ヴァリドが目を閉じた。
長い沈黙の後、小さく言った。
「……俺と同じだ」
その言葉が——空気の中に沈んでいった。
ヴァリドが守りたかったものと、パッチが守りたかったものは——同じだった。でも一方は仲間を失い、手段を誤り、世界を壊すものに変わった。もう一方は——まだ、壊れていない。
「パッチを——直せると思うか?」
俺はメモリに聞いた。
メモリが俺を見た。
「……分かりません」
「正直に言ってくれてありがとう」
「パッチ様は今、コードの大部分が変質しています。最初に持っていた善意のコードが——まだ残っているかどうかも、確認できていません。でも」
メモリは、確信を持った声で言った。
「消えてはいない、と思います」
「根拠は」
「パッチ様のコアには——私との記憶があるはずです。私と一緒に走り回った時間が。私の名前を呼んでくれたことが。それが完全に消えているなら——パッチ様は今頃、もっと効率的に動いているはずです。もっと冷たく動いているはずです。でもパッチ様は——どこかで迷っています。私には分かります」
「どこで迷っているように見える」
「お前の言葉を——聞いていたことです」
メモリが言った。
「さっき、パッチ様はお前の言葉に答えました。『理解できないなら仕方ない』と言って去りました。でも——ただ去ればよかったのに、最後まで話しました。それは、まだ誰かに聞いてほしい何かが残っているということです」
俺は少し考えた。
「ならば——可能性はある」
俺は立ち上がった。
「ただし、今すぐに解決できる問題じゃない。今は——カウンターを下げる方が先だ。ヴァリドの暴走で78%まで上がっている。そこから始めなければ」
全員が頷いた。
「一つ——伝えなければならないことがあります」
メモリが俺の腕を引いた。
「何だ」
「アドミンのコアプログラムは、世界のどこかに眠っています。アドミンが目覚める条件は——カウンターの値が100%に達した時です」
「それは知っている」
「でも——一つ、追加の情報があります。アドミンが目覚めた後、世界の初期化を実行するまでに——猶予があります。起動シーケンスが完了してから、実行決定までの間に、わずかな時間がある」
俺は振り向いた。
「その時間に、何ができる」
メモリが俺を真っ直ぐに見た。
「アドミンのコアプログラムに直接アクセスできれば——初期化コマンドを、キャンセルできます。管理者権限で。システムの大元にある初期化スクリプトを、書き換えることができれば」
「それができるのは誰だ」
「——デバッガーズ・アイが、最高レベルに達した者だけです」
室内に静寂が来た。
全員の視線が、俺に向いた。
俺は自分の手を見た。デバッガーズ・アイ、Lv2。まだ途方もなく遠い。でも——ゼロじゃない。
「分かった」
俺は立ち上がった。
「今できることをやる。バグを直す。カウンターを下げる。その間に——強くなる」
シンプルだった。シンプルすぎるくらいシンプルだった。
でも、それ以外の道がなかった。
「行くぞ」
俺たちは抱き合わなかった。誰も泣かなかった。
でも——全員が、同じものを受け取った気がした。
失われた仲間の話を、今の仲間が聞いた。それだけのことだった。
でもそれが——進む理由を、一つ増やした。
次回、第46話「緊急パッチ」——カウンターは78%。蓮は五大王国に協力を要請し、史上最大規模のバグ修正作戦を展開する。全員で世界を守る。




