第43話 アイソレーション
ヴァリドのコードに手が触れた瞬間——音が消えた。
王宮の喧騒が、遠くなった。アリアの呼吸が、ヴァリドの荒い息が——薄い膜の向こうに聞こえるようになった。
俺の意識が、内側に入っていく。
どんな感触を想像していただろう。岩に手を突っ込む感触か。炎に触れる感触か。人間のコードは、もっと抵抗があると思っていた。
実際は——
静かだった。
光だった。
広がっていた。
想像の遥か上の広さだった。
人間一人の源コードが、この規模になるとは思っていなかった。
俺が今まで見てきた建物のコード、街のコード、そういうものとは次元が違う。膨大な変数の群れが、幾層にも折り重なっている。子どもの頃の記憶、学んだ言語、感じた怒り、一瞬の喜び——全てがコードとして書き込まれている。積み重なった時間の全てが、ここにある。
父の書斎で初めて地図を広げた記憶。
剣の素振りで腕が上がらなくなるまで練習した夜。
アリアが初めて魔法を使ったと聞いた時の誇りが混じった焦燥。
ヴァリドは——こういう人間だったのか。
俺は一瞬立ち止まりそうになって、首を振った。今は分析をしている場合じゃない。
「マスター」
メモリの声がすぐ隣にあった。
「ここです」
示された方向を見た瞬間——分かった。
異物が、ある。
ヴァイラスのコードは赤かった。
ヴァリドのコードが白に近い淡い光を持つのに対して、その深部に絡みついた汚染は——暗い赤をしていた。まるで新鮮な傷口のような、あるいは錆のような。見た瞬間に異物だと分かる。
問題は。
それがヴァリドの神経系の深部まで、精巧に絡みついていることだった。
「マージコンフリクトだ」
俺は呟いた。
二つのブランチが、同じコード領域に長い時間をかけて書き込みを重ねた結果、完全に混ざり合っている。どこでヴァイラスのコードが終わり、どこからヴァリドのコードが始まるか——表面だけ見ても判然としない。
「ルートアンカーがあります」メモリが言った。「枝葉をいくら切断しても、根元が残っている限り再生します。——あそこ」
示された場所を見た。
ヴァリドの意思決定処理の核心部。その奥深く——小さな赤いノードが、精巧に潜り込んでいた。外側からでは絶対に気づかない。ヴァリド本人のコードの隙間を縫うように、完璧な位置に埋め込まれている。
「これを抜けばいい」
「はい。ただし」メモリの声が慎重になった。「ルートアンカーはヴァリド様自身のコードと、三十二の接続点で結合しています。強引に引き抜けば——接続点が裂けます。何が起きるかは、私には予測できません」
「分かった。丁寧にやる」
「急いでください、マスター。ヴァイラスのコードが感知しています——内側から作業が始まったことを」
俺は最初の接続点を見た。
「始める」
一つ目の接続点。
ヴァイラスとヴァリドのコードが絡み合う部分を、デバッガーズ・アイで精査した。どこからどこまでがどちらのコードか——色の差を手がかりに、境界線を探る。
見えた。
ヴァリドのコードの「判断する」という処理に、ヴァイラスのコードが一行だけ差し込まれていた。
「ただし外部命令を優先せよ」
たった一行。でも、これだけで——ヴァリドが下す全ての判断が、ヴァイラスの都合のいい方向に歪む。
俺は、その一行を——削除した。
接続点が一つ、切れた。
反応は即座だった。ヴァイラスのコードが切断を感知して、すぐに再接続を試みる。
「速い」
「急いでください」
二つ目。
「外部情報をフィルタリングせずに受け入れる」——ヴァリドが持っていたはずの懐疑心を、無効化する改竄。
削除。
三つ目。「感情の揺らぎを検知した際、感情処理より論理処理を優先せよ」——これは巧妙だ。ヴァリドの元々の性格、論理的に正確であろうとする性質を逆用している。感情的なブレーキを外すことで、アリアの言葉が届きにくくなる。
削除。
四つ目。
五つ目。
ヴァイラスのコードが抵抗を強めてくる。俺が一箇所切るたびに、別の場所から蔓を伸ばしてくる。いたちごっこだ。でも——ルートアンカーさえ抜ければ、全部解決する。
「十七番目まで切りました」メモリが報告した。「ヴァリド様の自律処理が、少しずつ回復しています。意識の明度が上がっています」
「ヴァリド本人は、これを感じてるのか」
「はい。内側から異物が引き剥がされていく感覚があるはずです。痛みに似た何かを感じているかもしれません」
「分かった。急ぐ」
外の世界の音が、かすかに聞こえた。
アリアの声だった。
「——兄上。もう少しです。もう少しだけ、こらえてください。あなたはまだここにいる——私には分かります」
ヴァリドの返事はなかった。
でも——コードの中で、何かが変わった。
「抵抗する」という処理が、急に強くなった。ヴァイラスのコードが押しつけている「服従命令」に対して、ヴァリド本人の「否定する」という意志が、正面から反撃している。
アリアの声が——届いていた。
コードに、声が届いていた。
「——やるな」
俺は速度を上げた。
十八。十九。二十——
「マスター!」
メモリが叫んだ。
ヴァイラスのコードが——巻き返した。
接続点の切断を感知して、ルートアンカーを中心に急速に増殖を開始した。切断されるより速く、新しい接続を作っていく。まるで菌糸が広がるように、ヴァリドのコードの空白部分を埋め尽くしていく。
「接続点の数が——五十七に増えています」
「ちくしょう」
「しかし」
メモリの声が変わった。
「今のうちです。ヴァイラスのコードが増殖に全リソースを集中している。その分、ルートアンカーの周囲が手薄になっています。今なら——一直線に入れます」
「リスクは?」
「ルートアンカーと結合している接続点が、抜く際に千切れます。ヴァリド様のコードの数箇所に損傷が出ます。後で修復が必要ですが——致命的ではないと判断します」
「判断します、か」
「はい。私が責任を持って——判断します」
俺はメモリを見た。この狭い内部空間の中で、メモリの姿は光の粒のように見えていた。
「行く」
枝葉は後回しだ。ルートアンカーを抜く。
メモリが示した座標へ——俺のデバッガーズ・アイが一直線に飛んだ。
ヴァイラスのコードが反応する。妨害しようとして、でも間に合わない。全リソースを増殖に振っているせいで、防御が薄い。
ルートアンカーを——掴む。
その瞬間。
コードから何かが放出された。音ではなく、意識を揺さぶる振動のような何かが。比喩ではなく——悲鳴のように聞こえた。
引き剥がす。
接続点が七箇所、千切れた。ヴァリドのコードが傷ついた。後で修正する。今は——
ルートアンカーが——外れた。
[Debugger's Eye Lv.2: Isolation Protocol]
Target: HOSTILE_PROCESS (Virus code — Valido host)
Action: Root anchor extraction
Status: COMPLETE
└─ Root anchor: REMOVED
└─ Residual contamination nodes: 57
└─ Host code damage: 7 points (REPAIRABLE)
Next action: Branch isolation — EXECUTE?
「やる」
ルートを失ったヴァイラスのコードが——暴れた。
制御を失った赤いコードが、ヴァリドの源コードの中で嵐のように荒れ狂う。どこにも繋がれていないから、ランダムに動き回っている。
「マスター、今です!」
俺はデバッガーズ・アイを全展開した。
暴れる赤いコードを——一塊として捉えた。境界線を引いた。ヴァリドのコードと、ヴァイラスのコードの間に、明確な分離ラインを——引いた。
分ける。
全部まとめて、分ける。
[Debugger's Eye Lv.2: Isolation Protocol]
Target: HOSTILE_PROCESS (Virus code fragment)
Action: Branch isolation
Status: EXECUTING...
└─ Detected contamination nodes: 57
└─ Isolated: 12/57...
└─ Isolated: 31/57...
└─ Isolated: 57/57 — COMPLETE
└─ Host code damage: MINIMAL (within acceptable range)
Result: ISOLATION COMPLETE
Host: CLEAN
ヴァイラスのコードが——ヴァリドの体から、切り離された。
意識が外に戻った。
膝が笑っていた。
どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。外の世界では数分だったかもしれない。内部では——何時間分もの作業をした感覚がある。手が冷たい。額に汗が滲んでいた。
ヴァリドが——膝をついた。
床に崩れ落ちる前に、アリアが駆け寄って支えた。
「兄上——!」
「……ア、リア」
声が——ヴァリドのものに、戻っていた。
赤かった目が、元の色に戻っている。焦点が定まって、アリアの顔を認識している。しばらくの間、ヴァリドはアリアの顔を見ていた。ただ、それだけをしていた。
「俺は……俺は何を……」
「喋らなくていい」アリアが言った。「今は、それでいい」
涙は——アリアは、もう泣かなかった。代わりに、兄の肩を強く抱いた。
空中で——何かが凝集した。
ヴァリドの体から切り離されたヴァイラスのコードが、王宮の空気の中で集まって——形を作っていく。霧から、煙から——人の形を。
「——やるじゃないか、プログラマー」
その声を、俺は知っていた。
ビジュアル帝国の幻影の中で聞こえた、嘲笑うような声だ。
「デバッガーズ・アイLv2で、人間のコードを直接分離するとは。正直、想定外だった」
ヴァイラスが——そこにいた。
闇を圧縮したような外見。人の輪郭を持ちながら、その内側がコードの渦で満たされている。輪郭が常に揺れていて、実体が定まらない。目だけが——鮮烈な赤で輝いていた。
「今度は——話をしようか」
その言葉は、命令ではなかった。要求でもなかった。
申し出だった。
俺は立ったまま、ヴァイラスを見た。
ガルドが戻ってきた気配があった。アリアがヴァリドを支えながら、目だけで俺を見た。シェルの通信が静かになっていた——聞いているのだろう。
「——聞こう」
俺は言った。
次回、第44話「ヴァイラス・セカンドコンタクト」——ヴァイラスが語り始める。バージョン0.xの時代に何があったか。なぜ仲間を失い、なぜ世界を壊そうとするのか。その答えに、蓮は否定できない感情を覚える。




