最後の一球」
第○話「最後の一球」
七回表。
スコアは10-2。
大阪タイタンズが8点をリードしている。
府大会優勝まで、あと3アウト。
全国大会出場まで、あと3アウト。
そして河内正則の完投まで、あと3アウト。
マウンドへ向かう正則に、有村恒一郎が追いついた。
「最後、どうする?」
正則は少しだけ考えた。
「速球でいく」
「スローは?」
「向こうは絶対、来ると思っとるやろ」
有村が笑った。
「なるほどな」
「せやから、来ると思わせたまま押す」
有村はそれ以上聞かなかった。
正則が何を考えているのか、だいたい分かった。
六回まで散々見せてきた60キロ前後のおちょくりスローボール。
鶴橋打線は、当然それを警戒する。
だからこそ――
投げない。
七回表。
最後の勝負が始まった。
8番・片岡陸
先頭は8番・片岡陸。
片岡も分かっていた。
正則には145キロまで出る速球がある。
120キロ台、130キロ台へ意図的に速度を落とすこともできる。
そして60キロ前後のおちょくりスローボール。
最後の回。
どこかで必ず使ってくる。
片岡はそう考えていた。
有村が構える。
正則が第一球。
速球。
「ズバーン!」
ストライク。
片岡は見送った。
次。
また速球。
片岡が振る。
ファウル。
「まだか……」
スローを頭から消せない。
そのわずかな迷いが、速球への反応を遅らせる。
正則は容赦なく押した。
外。
内。
高さも変える。
しかし全部速い。
最後も速球。
片岡が打った。
詰まった打球が内野へ上がる。
野手が落ち着いて捕球した。
「アウト!」
ワンアウト。
正則は表情を変えない。
有村から返球を受け取る。
あと二つ。
9番・伊藤千尋
打席には9番・伊藤千尋。
マウンドでは二番手としてタイタンズ打線と戦った千尋が、今度は打者として正則と向き合う。
鶴橋ベンチから声が飛ぶ。
「千尋、スローもあるぞ!」
もちろん千尋も分かっている。
六回までの配球データも頭に入っている。
これだけ速球を続けた。
ならば、そろそろ来る。
正則が投げた。
速球。
千尋が反応する。
ファウル。
次も――
速球。
「また?」
千尋の頭に疑問が生まれる。
速球に絞りたい。
だが、絞った瞬間に60キロが来るかもしれない。
待つべきなのか。
前へ出るべきなのか。
その迷いを、有村は見逃さなかった。
サイン。
正則が投げる。
また速球。
千尋が振った。
打球は内野へ。
野手が前進。
捕球。
一塁へ。
「アウト!」
ツーアウト。
タイタンズベンチが一斉に立ち上がった。
あと一つ。
全国大会まで――
あと一つ。
まだ一球も投げていない
有村が一度マウンドへ向かった。
正則がボールを握ったまま待つ。
「ここまで全部速い球やな」
「うん」
「向こう、だいぶ迷っとる」
正則が小さく笑った。
「そろそろ『今日はもうスローない』って思い始める頃ちゃう?」
有村も笑った。
「たぶんな」
正則が有村を見る。
「最後、任せるわ」
「分かった」
二人はそれだけで別れた。
ツーアウト。
ここまで七回に入って――
おちょくりスローボールは一球もない。
1番・藤田悠生
三人目。
1番・藤田悠生。
三回には内野安打を放ち、鶴橋の2点反撃の起点になった打者だ。
藤田がバッターボックスへ入る。
正則がセット。
第一球。
速球。
「ストライク!」
藤田は見送った。
0-1。
第二球。
また速球。
藤田が振る。
ファウル。
0-2。
追い込んだ。
鶴橋ベンチから声が飛ぶ。
「まだ終わってへんぞ!」
藤田が一度打席を外す。
考える。
今日、何度もタイミングを狂わされた。
あの60キロ前後の球。
だが七回は――
一球も来ていない。
8番・片岡にも。
9番・伊藤にも。
全部速球。
なら、最後まで速球で押すのか。
藤田が打席へ戻る。
第三球。
正則が投げた。
速球。
藤田が食らいつく。
「カン!」
ファウル。
カウント1-2。
そして――
四球目。
有村がサインを出した。
正則が見た。
一瞬だけ、口元が緩む。
うなずいた。
藤田は速球を待つ。
もうスローボールはない。
最後まで速球で押してくる。
そう判断した。
正則が足を上げた。
腕を振る。
藤田が始動する。
だが――
来ない。
「え……?」
ボールが来ない。
いや。
来ている。
ただし、あまりにも遅い。
この回、一球も投げなかった球。
最後の最後。
ウイニングショット。
60キロ前後のおちょくりスローボール。
しかも甘くない。
ゆっくりとホームへ向かってきたボールは、そのまま――
コーナーいっぱい。
藤田は途中で止められない。
完全にタイミングを外されたバットが空を切った。
「ストライク! バッターアウト!」
一瞬。
時間が止まった。
そして――
「ゲームセット!」
大阪タイタンズ、優勝
正則がマウンドで拳を握った。
有村がマスクを放り出して走る。
「正則!」
「よっしゃあ!」
有村が正則に抱きついた。
一塁側のタイタンズベンチから選手たちが飛び出す。
池永智雄。
星野慎一。
加藤亜由美。
朝倉美羽。
三宅奈緒。
宮本さくら。
川上眞子。
梶原和樹。
村瀬涼太。
藤原航。
ベンチの選手たちも続く。
歓声が球場を包んだ。
正則の家族。
亜由美の家族。
応援団。
全員が立ち上がっていた。
最後の最後。
ツーアウトまで一球も見せなかったおちょくりスローボール。
「もう来ない」
そう思わせたところで投じた、最後の一球。
それが府大会を締めくくった。
大阪タイタンズ 10-2 鶴橋ライオンズ。
大阪タイタンズ。
大阪府大会優勝。
全国大会出場決定。
試合終了の挨拶
喜びが爆発したあと、川原監督の声が飛んだ。
「整列!」
選手たちが我に返る。
一塁側。
大阪タイタンズ。
反対側には鶴橋ライオンズ。
両チームがホームベースを挟んで並んだ。
正則も帽子を取り、鶴橋の選手たちを見る。
最後まで諦めなかった打線。
三回には正則から3連打を放ち、2点を奪った。
大量点差になっても、最後まで攻略法を探し続けた。
審判が声をかける。
両チームが頭を下げた。
「ありがとうございました!」
勝った側も。
負けた側も。
ここで初めて、府大会決勝が本当に終わった。
スコアラーの答え合わせ
ベンチへ戻ると、森下真央と新田絵里が待っていた。
真央の手にはスコアブック。
絵里のタブレットには、試合開始から最後の一球までの記録が残っている。
正則が嫌な予感のする顔をした。
「もしかして今から反省会?」
真央が即答する。
「当然」
「優勝した直後やで?」
絵里が笑う。
「優勝したからデータ消えるわけじゃないから」
「厳しっ!」
亜由美が横から言った。
「聞いとき。全国ではもっと強い打線来るで」
「はい……」
真央がまず正則の投球データを開いた。
「今日の正則。三回に藤田、西川、高瀬の三連打で2失点。ここが唯一、連続して捉えられた場面」
画面には三回表の記録が表示される。
1番・藤田悠生――内野安打。
2番・西川颯太――タイムリーツーベース。
3番・高瀬蓮――タイムリーヒット。
そして4番・岡田大翔を三振。
絵里が続ける。
「三回は速球への対応が一気に上がった。でも四回から配球変更」
120キロ台。
130キロ台。
140キロ前後。
最速145キロ。
そして約60キロのおちょくりスローボール。
球速差は最大で、およそ85キロ。
「四回は6球で三者凡退。五回は8球で三者凡退。六回も三者凡退。最後の七回も三人で終了」
有村が腕を組む。
「三回に捕まったあと、そのまま同じ投球を続けんかったんが大きいな」
真央がうなずく。
さらに画面を切り替える。
「おちょくりスローボールは、投げた数以上に効果が大きかった」
ストライクゾーンの図が表示された。
内角いっぱい。
外角いっぱい。
低め。
際どい場所に印が並ぶ。
「特に四回以降。相手はスローそのものだけじゃなく、『次にスローが来るかもしれない』ことを気にするようになった」
絵里が七回のデータを表示する。
「それが一番分かりやすかったのが最終回」
8番・片岡陸。
速球中心。
アウト。
9番・伊藤千尋。
速球中心。
アウト。
そして1番・藤田悠生。
1-2まで速球で押した。
藤田が速球へ意識を寄せたところで――
四球目。
約60キロ。
コーナーいっぱい。
空振り三振。
試合終了。
正則が笑った。
「最後の一球だけは気持ちよかったなあ」
有村が突っ込む。
「最後だけかい。145出した初球も喜んどったやろ」
「それも気持ちよかった」
「全部やん」
ベンチに笑いが起きる。
打撃データ
今度は真央がタイタンズ打線の記録を開いた。
数字だけではない。
どういう形で得点したのかまで整理されている。
一回。
1番・梶原和樹が10球粘って四球。
2番・朝倉美羽がセーフティバントからフィルダースチョイス。
3番・加藤亜由美が送りバント。
4番・三宅奈緒が犠牲フライ。
5番・藤原航が四球。
さらに盗塁。
6番・宮本さくらがセンター前タイムリー。
2点。
二回。
8番・村瀬涼太が8球目を内野安打。
9番・河内正則が初球セーフティバントで出塁。
1番・梶原が走者を進める。
2番・朝倉美羽がレフト線への2点タイムリーツーベース。
3番・加藤亜由美が送りバント。
4番・三宅奈緒が2ランホームラン。
4点。
三回は無得点。
四回。
梶原と美羽が連続四球。
そして大西晴斗が降板。
二番手・伊藤千尋。
3番・加藤亜由美が、登板後五球目をセンタースタンドへ。
3ランホームラン。
続く4番・三宅奈緒。
最初の二球を見極め、三球目の低めのストライクをレフトスタンドへ。
ソロホームラン。
この回4点。
五回はシングルヒット3本で二死満塁まで攻めながら無得点。
合計10得点。
真央が言った。
「今日の攻撃で大きかったのは、ホームランだけじゃない」
四球。
送りバント。
セーフティバント。
内野安打。
犠牲フライ。
盗塁。
進塁打。
そして長打。
「全部使って10点取った」
川原監督が後ろから口を挟んだ。
「そこ忘れんなよ」
選手たちが振り返る。
「全国行ったら、今日みたいに10点取れるとは限らん。正則が2点で抑えられるとも限らん。一点しか取れん試合もある。逆に打ち合いになるかもしれん」
全員が静かに聞く。
「今日の優勝は喜んでええ。思いっきり喜べ。でも――」
監督が笑った。
「明日から全国大会出場チームや」
正則が亜由美を見る。
亜由美も正則を見る。
智雄。
慎一。
有村。
真央。
絵里。
仲間たち。
府大会は終わった。
だが、このチームの夏は終わっていない。
むしろ――
ここからが本番だった。
次回予告
第○話「全国へ」
大阪府大会決勝。
大阪タイタンズ、10-2で優勝。
河内正則が完投。
最後の一球は、七回ツーアウトまで封印していた60キロ前後のおちょくりスローボール。
コーナーいっぱい。
空振り三振。
ゲームセット。
しかし試合後、スコアラーが示した詳細なデータには、勝利の中に残された課題も記録されていた。
三回に許した3連打。
満塁で追加点を奪えなかった攻撃。
そして全国では、まだ見たことのない相手が待っている。
池永智雄。
星野慎一。
河内正則。
三人の投手。
加藤亜由美たち野手陣。
森下真央と新田絵里の分析。
そして正捕手・有村恒一郎。
大阪を勝ち抜いたチームが、今度は全国へ向かう。
次回、
「全国へ」
府大会優勝は、ゴールではない。
大阪タイタンズの全国大会が始まる。




