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河内正則・栄光への道  作者: リンダ


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見えた変化、つかみかけた一球

 河内正則 栄光への道

 第50話「見えた変化、つかみかけた一球」

 第一章 考えすぎても打てない

 四月下旬。


 博多南中学校へ進学した河内正則と加藤亜由美は、少しずつ中学校生活と寄宿舎での共同生活に慣れ始めていた。


 朝は決まった時間に起床し、食堂で朝食を取る。


 授業が終われば、爆笑発電所スポーツ事業部が運営する博多フューチャーズの練習に参加する。


 夜は寮へ戻り、夕食と入浴を済ませたあと、自主学習と翌日の準備。


 大阪タイタンズ時代とは生活のリズムが大きく変わったものの、二人は自分たちで選んだ道を歩んでいることに充実感を覚えていた。


 しかし、野球では相変わらず苦戦が続いていた。


 中学野球最初の紅白戦では、正則が四打数ノーヒット二三振、亜由美も四打数ノーヒット一三振。


 続く打撃練習でも、三年生の速球や変化球に対応しきれず、思うような打球を飛ばせていなかった。


 そんなある日の放課後。


 博多フューチャーズの練習場では、城戸直哉監督と平松真帆コーチが、実戦形式の打撃練習を行っていた。


「河内君、次はあなたです」


「はい!」


 正則がヘルメットをかぶり、打席へ向かった。


 マウンドには三年生の藤岡蓮司。


 捕手は相原健悟。


 藤岡の直球は百三十キロを超える。


 しかも、カーブやスライダーを巧みに投げ分ける。


 正則はバットを握り、頭の中で考え始めた。


(初球は直球か? いや、前の練習では初球からカーブも投げとった。外角か、内角か……)


 藤岡が投球動作に入った。


(腕の振りは……握りは……)


 バシィィン!


「ストライク!」


 正則はバットを出せなかった。


「……あっ!」


 続く二球目。


(今のは直球やった。次は変化球かもしれへん)


 藤岡が投げ込む。


 正則は少し遅れてバットを出した。


 しかし、直球に差し込まれた。


 ファウル。


 0ボール2ストライク。


 三球目。


 正則は低めのスライダーを警戒した。


 しかし、藤岡が投げたのは外角高めへの直球だった。


 バシィィン!


 見逃し三振。


 正則は思わず天を仰いだ。


「……またや」


 相原がマスクを外した。


「正則君、今の三球目、何を待っとった?」


「スライダーです」


「なるほど。じゃあ、何でバットが出んかったと?」


 正則は少し考えた。


「……スライダーが来るかもしれんと思いすぎて、直球への準備が遅れました」


 相原は静かにうなずいた。


「そうやね。観察して考えることは大事やけど、考えることが増えすぎて打てんようになったら、もったいなかよ」


 正則は肩を落とした。


「……難しいですね」


 すると、城戸監督が声をかけた。


「河内君、考えること自体は間違っていません。ただ、打席で毎球すべてを分析しようとすると、体が動かなくなってしまいます」


「はい」


「今日は、観察した情報の中から何を優先するか決める練習をしましょう」


 その言葉を聞いて、正則は顔を上げた。


「……優先すること、ですか?」


 城戸監督はうなずいた。


「そうです。打席に入る前に相手の傾向を整理し、まず一つ狙いを決める。そのうえで、違う球が来たときにも対応できるようにするんです」


 正則は静かにうなずいた。


 観察力を身につけようとするあまり、いつの間にか考えること自体が目的になっていた。


 打席で一番大切なのは、実際に球を見て、適切に判断し、バットを振ることなのだ。

 第二章 亜由美も同じ壁にぶつかる

 続いて、亜由美が打席へ入った。


 相手投手は三年生の秋山紘太。


 投球フォームが安定しており、直球とカーブの球速差を生かす投球を得意としていた。


 秋山が初球を投げ込んだ。


 外角低めへの直球。


 亜由美は見送った。


 ストライク。


 二球目。


 内角へのカーブ。


 亜由美は振りにいったものの、タイミングが合わずファウル。


 0ボール2ストライク。


(次は低めの変化球やろか。でも、直球かもしれん。高めに来たら……)


 秋山が三球目を投げ込んだ。


 外角への直球だった。


 亜由美が慌ててバットを出した。


 カンッ!


 打球は一塁方向への弱いゴロ。


 一塁手の南条悠斗が、難なく捕球した。


「アウト!」


 亜由美は、悔しそうに息を吐いた。


「……またファーストゴロか」


 そこへ平松コーチが近づいた。


「加藤さん、今の打席はどうでしたか?」


 亜由美は正直に答えた。


「球種を考えすぎて、打つ準備が遅れました」


 平松コーチはうなずいた。


「そうですね。ただ、相手の球種を何も考えずに振るのも違います」


「はい」


「まずは一番大切な情報を選びましょう。例えば、秋山君が追い込んでからどこへ投げることが多いか。それを意識するだけでも違ってきます」


 亜由美は静かにうなずいた。


「分かりました」


 すると、三年生の三浦康平が声をかけた。


「亜由美さん、考えとることが多すぎるときは、いったん整理したらよかよ」


「整理、ですか?」


「そうたい。頭の中がいっぱいになったら、打つ前に一回深呼吸して、狙いを一つ決めるとよ」


 亜由美は少し笑った。


「なるほど」


 三浦も笑顔になった。


「考えて打つことと、考えすぎて打てんことは違うけんね」


 その言葉が、亜由美の胸に残った。


 考える野球。


 その面白さを知り始めた二人だったが、今度は考えすぎるという新しい壁にぶつかっていた。


 第三章 土曜日の午後、今度は青柳家へ

 その翌週の土曜日。


 午前中の練習を終えた正則と亜由美は、寄宿舎の食堂で昼食を取っていた。


「なあ、亜由美」


「何や?」


「今日の午後、青柳家へ行くんやろ?」


 亜由美がうなずいた。


「うん。光子さんたちが時間を取ってくれたんやって」


 数日前、正則と亜由美は柳川悠翔へ相談していた。


 相手の小さな違いを見つけること。


 観察する情報の中から、大切なものを選ぶこと。


 これをもっと身につけたいと考えていた。


 すると悠翔が、こんな提案をしてくれたのだ。


「それなら、光子おばちゃんの家にも行ってみんね? 陽翔も燈真も彩羽も、それぞれ違うスポーツをしよるけん、面白か話が聞けると思うよ!」


 さらに、青柳家の父・翼はプロテニスプレーヤー。


 母・光子は世界的ミュージシャンであり、優子と双子の姉妹として漫才やコントでも活躍している。


 異なる競技や音楽、笑いの世界から、観察力について話を聞けるかもしれない。


 正則と亜由美は、その提案に興味を持った。


 青柳家へ事前に連絡すると、光子が快く招いてくれたのである。


「でもな、正則」


「何や?」


「光子さんって、優子さんの双子のお姉さんやろ?」


「そうやな」


 亜由美は少し笑った。


「何か、またとんでもない課題が出てきそうな気がするんやけど」


 正則は苦笑した。


「……俺もや」


 二人は思い出していた。


 柳川家でのマグカップのギャグコント。


 黄色と水色のカップを二つ置かれ、三十秒以内にコントを完成させるという課題だった。


 最初は何も思いつかなかった。


 しかし、優子は色の違いから信号機を連想し、即興で爆笑コントを完成させてしまった。


 正則は少し考えた。


「……今度は何やろな」


 亜由美が笑った。


「マグカップの次は、お皿とか?」


 正則が吹き出した。


「いや、何で食器ばっかりやねん!」


 昼食を終えた二人は、武内沙織職員に訪問先と帰寮予定時刻を伝え、外出許可を受けた。


 そして、青柳家へ向かった。

 第四章 青柳家へようこそ

 午後一時過ぎ。


 正則と亜由美は、青柳家の前へ到着した。


 柳川家と同じく、広い敷地を持つ立派な住宅だった。


 庭には手入れの行き届いた植木が並び、建物の一角には音楽の練習にも使われる部屋がある。


 正則は、建物を見上げた。


「……亜由美」


「何?」


「やっぱり、すごい家やな」


 亜由美も笑った。


「ほんまやね。柳川家も大きかったけど、こっちも立派やわ」


 正則は少し緊張しながらインターホンを鳴らした。


 ピンポーン。


 ほどなくして、明るい女性の声が聞こえてきた。


『はーい!』


 正則は背筋を伸ばした。


「河内正則です! 今日はよろしくお願いします!」


 亜由美も続けた。


「加藤亜由美です! お邪魔します!」


『二人とも、よう来たね! 今開けるけん!』


 玄関の扉が開いた。


 現れたのは青柳光子だった。


 ファイブピーチ★のベーシスト。


 世界を舞台に活動するミュージシャンであり、優子とともにM&Yとして活躍するエンターテイナーでもある。


「こんにちは! 正則君、亜由美さん!」


 二人は深く頭を下げた。


「こんにちは!」


 光子は笑顔で迎えた。


「今日は野球のことで聞きたいことがあるんやろ?」


 正則がうなずいた。


「はい!」


「よかよか! うちも楽しみにしとったと!」


 そして、二人をリビングへ案内した。


 そこには、青柳翼が待っていた。


「こんにちは。二人とも、ようこそ」


 正則は姿勢を正した。


「こんにちは! 河内正則です!」


 亜由美も続けた。


「加藤亜由美です!」


 翼は穏やかに微笑んだ。


「悠翔から話を聞いているよ。全国大会の決勝で、いい試合をしたんだってね」


 正則は少し照れた。


「ありがとうございます!」


 そのとき、奥から元気な声が響いた。


「こんにちはー!」


 青柳陽翔が姿を見せた。


 続いて、青柳燈真と青柳彩羽もやってきた。


 陽翔はバレーボール。


 燈真はテニス。


 彩羽は卓球。


 三人とも、それぞれの競技で練習を重ねている。


「正則君、亜由美さん! ようこそ!」


 陽翔が笑顔で挨拶した。


 燈真も頭を下げた。


「こんにちは!」


 彩羽も続けた。


「今日はよろしくお願いします!」


 正則と亜由美は、そろって頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします!」


 光子が笑った。


「今日は野球だけじゃなくて、いろんな競技の話を聞いていってね!」


 そして、少し悪戯っぽく続けた。


「もちろん、最後には実地訓練もあるばい!」


 正則と亜由美は顔を見合わせた。


「……実地訓練?」


「……やっぱり来た!」


 光子が腹を抱えて笑った。


「まだ何も言うとらんやろ!」


 リビングに笑い声が広がった。

 第五章 陽翔が教える、バレーボールの観察力

 一行がリビングで落ち着くと、光子は正則と亜由美へ尋ねた。


「まず、二人が今どげんなことで困っとるか、聞かせてくれる?」


 正則が答えた。


「中学野球で変化球が増えて、相手が何を投げてくるのか分からへんのです」


 亜由美も続けた。


「先輩たちに配球を考えることを教わったんですけど、今度は考えすぎて、バットが振れなくなってしまうことがあるんです」


 翼はうなずいた。


「なるほど。相手の動きを読むことと、自分のプレーに集中すること。その両立が難しいんだね」


「はい!」


 すると、陽翔が口を開いた。


「それ、バレーでも似たようなことがあるとよ」


 正則が顔を上げた。


「バレーボールでも?」


「そうたい!」


 陽翔は立ち上がり、両手を使って説明を始めた。


「例えば相手がスパイクを打つとき、ボールばっかり見とったら、打球に反応するのが遅れることがあるっちゃん」


 亜由美がうなずいた。


「なるほど」


「やけん、相手の助走、肩の向き、腕の振り方、どんな体勢で跳んだかを見るとよ」


 正則が尋ねた。


「それで、どっちに打つか分かるん?」


 陽翔は首を横に振った。


「必ず分かるわけじゃなかよ。上手な選手は途中で打つ方向を変えたり、フェイントを入れたりするけんね」


「そうなんや」


 陽翔は続けた。


「でも、相手が打つ前に準備しとったら、反応しやすくなるとよ。何も考えずに待っとるより、ずっと動きやすか」


 そして、正則へ尋ねた。


「正則君、野球でも打者の構え方とか見よるやろ?」


「うん。バットの位置とか、立ち位置とかは見るで」


「そうたい! それに近かと思う」


 亜由美が笑った。


「そう考えたら、野球とバレーって似とるところがあるんやね」


 陽翔もうなずいた。


「そうたい。ただし、見た情報を全部いっぺんに考えようとしたら間に合わんけん、何を見るか決めとくことも大切たい」


 正則は、思わず膝を打った。


「……それや!」


 陽翔が驚いた。


「何が?」


「俺、打席で球種もコースもフォームも、全部一度に考えようとしとったんや!」


 陽翔は笑った。


「そしたら大変たい!」


 亜由美も吹き出した。


「ほんまやね。考えとる間に球が来てしまうもんな!」


 正則は大きくうなずいた。


 まず何を観察するのか。


 その優先順位を決める。


 それが、最初のヒントだった。

 第六章 燈真が教える、動き出すタイミング

 続いて、青柳燈真が話し始めた。


「僕はテニスで、似たようなことを教わったよ」


 正則が尋ねた。


「テニスでも?」


「うん。相手がボールを打つ前に、どっちへ飛ぶか考えることは大切やけど、考えすぎて足が止まったら意味なかとよ」


 燈真は、リビングの広い場所で軽く構えを取った。


「例えば、相手がボールを打つタイミングに合わせて、こうやって小さく跳ぶと」


 軽く両足を動かす。


「スプリットステップっていうんやけどね。相手が打ったボールにすぐ反応できるように準備するとよ」


 正則は興味深そうに見ていた。


「なるほど。足を止めたまま待つんやないんやな」


「そうたい!」


 燈真は続けた。


「相手が打つ方向を予想しても、違う方向へ来ることはあるやろ?」


「あるな」


「でも、体が動ける状態になっとったら、予想と違っても対応できる可能性が高くなるとよ」


 亜由美が顔を上げた。


「それ、守備にも使えそうやね」


 燈真はうなずいた。


「そう思う!」


 亜由美は、先日の守備練習を思い出した。


 三年生が放つ強烈な打球。


 最初は、ただボールが来るのを待っていた。


 しかし、打者が振る直前から準備するようになって、少しずつ捕れるようになった。


「……うち、最初は打球が来てから動こうとしとったんや」


 燈真は笑った。


「そこを変えたら、もっとよくなるかもしれんね」


 そして、正則へ向き直った。


「打撃でも、相手が投げる直前までいろいろ考えすぎんで、決めた球を打てるように準備するのが大切やと思う」


 正則はうなずいた。


「なるほどなぁ」


 燈真は少し笑った。


「でも、僕も試合で考えすぎて失敗することはあるよ」


「ほんまか?」


「うん。だから、試合が終わってから反省して、次はもっと上手くできるように練習しよると」


 正則は笑顔になった。


「……みんな同じなんやな」


 燈真もうなずいた。


「そうたい!」

 第七章 彩羽が教える、ほんの一瞬の違い

 今度は青柳彩羽の番だった。


「私は卓球で、ボールの回転を見る練習をしよるとよ」


 亜由美が尋ねた。


「卓球の回転?」


 彩羽がうなずいた。


「そうたい。卓球って、ボールが小さくて速いけん、回転を間違えたら返球が難しくなることがあるっちゃん」


 翼も静かにうなずいた。


「卓球は、短い時間で多くの判断をする競技だからね」


 彩羽は、手元にあった卓球のラケットを持った。


 そして、ゆっくりと振る動作を見せた。


「例えば、ラケットを下から上へ動かしたら、上回転がかかることがあるやろ?」


 正則がうなずいた。


「うん」


「でも、ラケットの角度や、ボールのどこに当てたかによって、回転のかかり方は変わるとよ」


 亜由美は感心した。


「そんな小さな違いまで見るんやね」


「そうたい!」


 彩羽は続けた。


「ただ、相手のラケットだけ見とったら、ボールを見失うこともあるけんね」


 正則が顔を上げた。


「……それ、俺らと同じや!」


 彩羽が笑った。


「そうなん?」


「俺、投手の腕の振りとか考えすぎて、肝心のボールを見るのが遅れとったんや!」


 亜由美もうなずいた。


「うちもそうやね」


 彩羽は少し考えた。


 そして、ゆっくりと言った。


「じゃあ、見る順番を決めたらどうやろ?」


「見る順番?」


「うん。相手が打つ前にはラケットの動きを見る。でも、ボールが飛んできたら、今度はボールを見る。ずっと同じところだけ見とくわけじゃなかとよ」


 正則は、少し驚いた。


「……なるほど」


 彩羽は笑顔で続けた。


「観察することと、実際にプレーすることは、つながっとるけど同じじゃなかけんね」


 亜由美は思わず感心した。


「彩羽ちゃん、すごいなぁ」


 彩羽は少し照れた。


「いやいや、私もまだまだ練習中たい!」


 その言葉に、光子が嬉しそうに笑った。


「そうやね。みんな、自分の競技からいろんなことを学んどるね」


 正則と亜由美は、三人の話を聞いて、改めて思った。


 競技は違う。


 使う道具も違う。


 しかし、相手を観察し、次の動きを予想し、自分の体を準備するという考え方には、共通する部分があった。


 第八章 プロテニスプレーヤー・青柳翼の助言

 ここで、翼が口を開いた。


「正則君、亜由美さん。ここまでの話で、何か共通点が見つかった?」


 正則は少し考えた。


「……相手を観察することと、自分が動けるように準備することです」


 亜由美も続けた。


「それから、何を見るか決めることも大事やと思いました」


 翼はうなずいた。


「そうだね」


 そして、少し真剣な表情になった。


「プロのテニスでも、相手のサーブを読むことは重要なんだ」


 正則が尋ねた。


「サーブって、あのすごい速い球ですよね?」


 翼は笑った。


「そう。速い選手だと、時速二百キロを超えることもある」


 正則は目を丸くした。


「二百キロ!?」


 亜由美も驚いた。


「野球より速いですやん!」


 翼はうなずいた。


「もちろん、テニスのサーブと野球の投球は距離や球の性質が違うから、単純には比べられないけどね」


 そして、説明を続けた。


「サーブを受けるときは、相手の構えやトスの位置、体の向きなどから、ある程度コースを予測する」


「はい」


「でも、上手い選手ほど、似たフォームから違うコースや回転のサーブを打ってくる」


 正則は静かにうなずいた。


「野球の変化球と同じですね」


「そうだね」


 翼は続けた。


「だから、予測が外れたら終わり、という準備ではいけない。まず相手の傾向を頭に入れておく。そして、実際に打たれたボールを見て反応することが大切なんだ」


 亜由美が尋ねた。


「でも、ほんの一瞬でそんなことができるんですか?」


 翼は微笑んだ。


「最初から全部できるわけじゃないよ。何度も練習して、少しずつ判断を速くしていくんだ」


 正則はうなずいた。


「なるほど……」


 翼はさらに続けた。


「もう一つ、大事なことがある」


「何ですか?」


「自分の予想にこだわりすぎないことだよ」


 亜由美が顔を上げた。


「予想にこだわりすぎない?」


「そう。例えば、相手は外角へサーブを打つだろうと予測したとする。でも、実際には内角へ来た」


 翼は、二人の顔を見つめた。


「そのとき、なぜ外角じゃないんだ、と考えている余裕はない。まず来たボールへ対応しなければならない」


 正則は思わずうなずいた。


「……ほんまや」


「振り返るのはプレーが終わってからでいい。試合中は、今の一球に集中することが大切なんだ」


 亜由美は小さくつぶやいた。


「観察して、準備する。でも、予想と違ったら切り替える……」


 翼は笑顔になった。


「そのとおり」


 そして、少し付け加えた。


「観察力がある選手ほど、すべてを見ようとするのではなく、必要な情報を選ぶことが大切になるんだよ」


 正則は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 亜由美も続けた。


「すごく勉強になりました!」


 翼は穏やかに微笑んだ。


「二人とも、これからが楽しみだね」

 第九章 光子の観察力は、ちょっと違う方向へ

 すると、光子が手をたたいた。


「よし! じゃあ、最後はうちの番たい!」


 正則と亜由美は顔を上げた。


「光子さんも、アドバイスしてくれるんですか?」


「もちろん!」


 光子は笑った。


「うちは音楽とお笑いの両方から話すばい!」


 そして、リビングの一角に置かれていたベースを指さした。


「例えば、バンドで演奏するとき、うちは優子のドラムをよう聴いとるとよ」


 正則がうなずいた。


「はい」


「同じテンポで演奏しよっても、曲の盛り上がるところでは、音の強さやニュアンスが変わることがあるけんね」


 亜由美が尋ねた。


「それを聴いて、演奏を合わせるんですか?」


「そうたい!」


 光子は続けた。


「でも、ほかのメンバーの音を全部いっぺんに細かく考えよったら、自分のベースが弾けんようになるやろ?」


 正則が吹き出した。


「確かに!」


「だから、普段の練習で聴く力をつけとく。実際の演奏では、それを生かして自然に合わせるとよ」


 翼もうなずいた。


「野球でも似たところがあるね」


 光子は笑顔で続けた。


「それから、お笑いも同じたい!」


 亜由美が少し身構えた。


「……お笑いですか?」


 光子はニヤリと笑った。


「そうたい! 前に優子のところで、マグカップのギャグコントをやったっちゃろ?」


 正則は思わず吹き出した。


「……聞いとったんですか!?」


「もちろんたい! 優子から聞いたよ!」


 亜由美が笑った。


「あれ、めちゃくちゃ難しかったです!」


 光子は大きくうなずいた。


「そうやろうね。でも、ちょっと見方を変えたら、何でもネタの材料になるとよ」


 正則は苦笑した。


「……何でも、ですか?」


「そうたい!」


 そして、光子は立ち上がった。


「じゃあ、今度は外に行こうか!」


 陽翔、燈真、彩羽も顔を見合わせた。


 三人には、母親が何を考えているのか、何となく分かったらしい。


 陽翔が笑った。


「……お母さん、また何か始める気やね」


 燈真もうなずいた。


「そうやろうね」


 彩羽は少し悪戯っぽく笑った。


「正則君と亜由美さん、頑張ってね!」


 正則と亜由美は顔を見合わせた。


「……また三十秒の課題か?」


「……嫌な予感がするわ」


 光子が振り返った。


「二人とも、よう分かっとるやん!」


 一同、大爆笑。

 第十章 黒い高級セダンと赤い軽自動車

 一行が向かったのは、青柳家の裏手にある駐車場だった。


 そこには、二台の車が隣同士に止まっていた。


 一台は、黒塗りの高級国産セダン。


 大きな車体。


 落ち着いたデザイン。


 磨き上げられた黒いボディが、春の日差しを反射している。


 もう一台は、赤い軽自動車。


 小柄な車体。


 丸みを帯びた親しみやすいデザイン。


 黒いセダンとは対照的な姿だった。


 正則は二台を見比べた。


「……黒い高級車と、赤い軽自動車ですね」


 亜由美もうなずいた。


「大きさも全然違いますね」


 光子は満面の笑みになった。


「そうたい!」


 そして、二台の車を指さした。


「では、問題です!」


 正則と亜由美は、思わず背筋を伸ばした。


「はい!」


 光子は宣言した。


「この黒い高級セダンと赤い軽自動車が、夫婦だったらどうなるか。ギャグコントを完成させてください!」


 一瞬、沈黙。


 そして。


「……えええっ!?」


 正則と亜由美の声が重なった。


 光子は笑顔で続けた。


「制作時間は三十秒!」


 正則は頭を抱えた。


「また三十秒!?」


 亜由美も叫んだ。


「しかも、車が夫婦!?」


 光子がうなずいた。


「そうたい!」


 正則は黒いセダンを見た。


 そして赤い軽自動車を見る。


「……いや、どないせえっちゅうねん!」


 亜由美も困った顔をした。


「車が夫婦って、何をしゃべらせたらええん?」


 陽翔が笑いをこらえながら言った。


「正則君、頑張って!」


 燈真も続けた。


「三十秒しかなかよ!」


 彩羽はニヤニヤしている。


「もう考える時間が減りよるよ!」


 正則が叫んだ。


「まだ始まっとらんやろ!」


 光子は笑いながらスマートフォンを取り出した。


「では、いくよ!」


 そして、タイマーを押した。


「スタート!」


 正則と亜由美は慌てて考え始めた。


 黒い高級セダン。


 赤い軽自動車。


 大きさが違う。


 色も違う。


 値段も違う。


 正則は小声で言った。


「……黒いほうが旦那で、赤いほうが奥さんにしよう」


 亜由美がうなずいた。


「うん。それで?」


「旦那は高級車で、奥さんは軽自動車やろ?」


「そうやね」


「……それで?」


「それをうちに聞かんといて!」


 二人は顔を見合わせた。


 光子が声をかけた。


「残り十五秒!」


「ええっ!?」


 正則は必死に考えた。


「旦那の車がでかすぎて、奥さんの車が小さい!」


 亜由美が突っ込んだ。


「見たまんまやん!」


「ほな、奥さんが旦那に……」


 そこで言葉が止まった。


 光子が告げた。


「残り五秒!」


 正則は慌てた。


「……旦那、でかすぎるから駐車場が狭い!」


 亜由美が続けた。


「奥さんが小さいから、もっと広く使える!」


 そして。


「三十秒、終了!」


 光子が手をたたいた。


 正則と亜由美は、がっくりと肩を落とした。


「……またあかんかった」


「……難しすぎるわ」


 光子は二人の顔を見つめた。


 そして、楽しそうに笑った。


「でも、さっきより考える材料は増えたやろ?」


 正則が顔を上げた。


「……そうですか?」


「そうたい! 大きさ、色、値段、駐車場の広さ。いろいろ見つけたやん!」


 亜由美は少し考えた。


「……確かに」


 光子はうなずいた。


「じゃあ、その特徴を使って、うちがお手本を見せるばい!」

 第十一章 高級セダンの夫、赤い軽自動車の妻

 光子は二台の車を見渡した。


 そして、黒いセダンの前で、少し偉そうな姿勢を取った。


 声を低くする。


 黒いセダンの夫「ふっふっふ。今日もわしの黒いボディが輝いておる。さすが高級セダン。威厳が違う!」


 続いて、赤い軽自動車のほうへ移動する。


 今度は明るい女性の声になった。


 赤い軽自動車の妻「あんた、また鏡みたいにピカピカにしとると?」


 黒いセダンの夫「当たり前たい! わしは高級車ぞ!」


 赤い軽自動車の妻「でも、昨日スーパーの駐車場で何回切り返しよった?」


 黒いセダンの夫「……五回」


 赤い軽自動車の妻「うちは一発で入れたばい!」


 正則が吹き出した。


 亜由美も笑い始めた。


 しかし、光子は止まらなかった。


 黒いセダンの夫「そ、それはわしの車体が立派やけんたい!」


 赤い軽自動車の妻「立派でも、駐車場に入らんかったら困るやろ!」


 黒いセダンの夫「わしは長距離が得意たい!」


 赤い軽自動車の妻「うちは近所の細かい道が得意たい!」


 黒いセダンの夫「わしには豪華なシートがある!」


 赤い軽自動車の妻「うちには小回りがある!」


 黒いセダンの夫「……わしには高級感がある!」


 赤い軽自動車の妻「それで、昨日の買い物は誰が行ったと?」


 黒いセダンの夫「……お前」


 赤い軽自動車の妻「子どもの送り迎えは?」


 黒いセダンの夫「……お前」


 赤い軽自動車の妻「狭い道の先にあるクリーニング屋さんは?」


 黒いセダンの夫「……お前」


 赤い軽自動車の妻が、得意そうに言った。


 赤い軽自動車の妻「ほら見んしゃい! 小さか車にも、小さか車の仕事があるとよ!」


 黒いセダンの夫が、しばらく黙る。


 そして、静かに答えた。


 黒いセダンの夫「……そうやな。わしが大きいからといって、お前より偉いわけじゃなか」


 赤い軽自動車の妻「そうたい!」


 一瞬、温かい雰囲気になった。


 ところが。


 黒いセダンの夫「じゃあ、今日は二人でドライブに行こう!」


 赤い軽自動車の妻「よかね! どこ行くと?」


 黒いセダンの夫「まずは洗車場たい!」


 赤い軽自動車の妻「また洗車かい! あんた、走るより磨かれとる時間のほうが長かろうもん!」


 光子は両手を広げた。


「以上、黒い高級セダンの夫と赤い軽自動車の妻による、休日の夫婦漫才でした!」


 一瞬の沈黙。


 そして。


「ぶはははははっ!」


 正則が腹を抱えた。


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 亜由美も大笑いしていた。


「高級セダンが、奥さんに完全に言い負かされとるやん!」


 陽翔も笑い転げた。


「お母さん! 高級車の威厳、どこ行ったと!」


 燈真が続けた。


「洗車場ばっかり行きよるし!」


 彩羽も吹き出した。


「走るより磨かれる時間が長いって、最高たい!」


 翼も声を上げて笑った。


「光子、またすごいのを考えたね」


 光子は満面の笑みだった。


「そうたい! 黒い車と赤い車の特徴を組み合わせただけたい!」


 正則は、涙を拭きながら言った。


「……すごすぎる」


 亜由美もうなずいた。


「色と大きさだけで、ここまで話ができるんですね」


 光子は笑った。


「そうたい!」


 そして、少し真剣な表情になった。


「でもね、二人とも。大切なのは、うちと同じネタを作ることじゃなかとよ」


 正則が顔を上げた。


「……どういうことですか?」


「黒い車と赤い車を見て、何を思いつくかは人によって違うやろ?」


「はい」


「大事なのは、見つけた特徴をどう組み合わせるか考えること。そして、最初の思いつきにこだわらず、別の見方も試してみることたい」


 亜由美は静かにうなずいた。


「……なるほど」


 光子は続けた。


「野球でも、相手が速球派やからって、速い球しか投げんとは限らんやろ?」


 正則がうなずいた。


「そうですね」


「だから、相手の特徴を見つけて、どういう可能性があるか考える。でも、最後は実際に来た球を見て対応する」


 正則は大きく息を吐いた。


「……今日、ようやく少し分かった気がします」


 光子は微笑んだ。


「それならよかった!」

 第十二章 今度こそ、二人だけの車コント

 すると、彩羽が手を上げた。


「お母さん!」


「何ね?」


「正則君と亜由美さん、もう一回やってみたらどう?」


 正則が目を丸くした。


「……また!?」


 亜由美も吹き出した。


「彩羽ちゃん、なかなか厳しいなぁ!」


 彩羽は笑った。


「だって、さっきよりいろいろ思いつくようになっとるかもしれんやん!」


 翼がうなずいた。


「いいね。同じ課題でも、学んだあとに挑戦したらどう変わるか確かめられる」


 光子は満面の笑みになった。


「よし! じゃあ、もう一回三十秒たい!」


 正則と亜由美は顔を見合わせた。


「……やるか!」


「やろう!」


 今度は、二台の車を見つめる。


 黒い高級セダン。


 赤い軽自動車。


 二人は小声で相談した。


「亜由美、黒いほうが旦那で、赤いほうが奥さんやろ?」


「うん。でも、さっきとは違うネタにしよう」


「ほな、黒い旦那が格好つけとるけど……」


「赤い奥さんがツッコむ!」


「よし、それでいこう!」


 光子が告げた。


「三十秒、終了!」


 正則は黒いセダンの前に立った。


 そして、少し偉そうな声を出した。


 黒いセダンの夫「わしは高級セダンや! 今日も優雅に走るで!」


 亜由美は赤い軽自動車の前に立った。


 赤い軽自動車の妻「あんた、今日はどこまで行くと?」


 黒いセダンの夫「まずは近所のコンビニたい!」


 赤い軽自動車の妻「近所のコンビニに高級セダンで行くと!?」


 黒いセダンの夫「何を言うとる! わしは高級車ぞ!」


 赤い軽自動車の妻「ほな、買うものは?」


 黒いセダンの夫「……百円のお茶」


 亜由美が勢いよく突っ込んだ。


 赤い軽自動車の妻「車だけ豪華で、買い物めちゃくちゃ庶民的やん!」


 その瞬間。


「ぶははははっ!」


 青柳家の全員が吹き出した。


 正則も思わず笑ってしまった。


 しかし、何とか続けた。


 黒いセダンの夫「高級車にも節約は大切たい!」


 赤い軽自動車の妻「ほな、うちが買ってきたるわ!」


 黒いセダンの夫「いや、わしも行く!」


 赤い軽自動車の妻「何で?」


 黒いセダンの夫「……駐車場で格好つけたい!」


 亜由美が即座に突っ込んだ。


 赤い軽自動車の妻「誰もあんたのこと見に来とらんわ!」


 そこで二人は顔を見合わせた。


 そして、自分たちで大笑いした。


 光子が拍手した。


「よかよか! ちゃんと一つのコントになっとるやん!」


 陽翔も笑った。


「正則君、最後の台詞よかったよ!」


 燈真がうなずいた。


「亜由美さんのツッコミも面白かった!」


 彩羽も笑った。


「さっきよりずっとスムーズやったね!」


 正則は、少し照れた。


「……ほんまですか?」


 光子はうなずいた。


「そうたい!」


 そして、二人を見つめて続けた。


「最初は何も思いつかんかった。でも、いろいろ試して、少しずつできるようになったやろ?」


 亜由美は静かにうなずいた。


「……そうですね」


 光子は微笑んだ。


「野球でも同じたい。最初は打てん球でも、どうしたら打てるか考えて、試して、また考える。その繰り返しで少しずつ上手になるとよ」


 正則は力強く答えた。


「はい!」


 亜由美も笑顔になった。


「ありがとうございます!」

 第十三章 寮へ帰る前に交わした約束

 午後も遅くなり、二人は寄宿舎へ戻ることにした。


 玄関では、光子と翼、陽翔、燈真、彩羽が見送ってくれた。


「今日は本当にありがとうございました!」


 正則と亜由美は深く頭を下げた。


 翼が微笑んだ。


「こちらこそ。二人とも、焦らず練習を続けてね」


 陽翔が笑った。


「野球でも、まず準備が大切たい!」


 燈真も続けた。


「考えすぎて足が止まらんごとね!」


 彩羽は少し得意そうに言った。


「それから、事実と予想を分けること!」


 亜由美が笑った。


「みんな、ちゃんと違うこと教えてくれたね」


 正則もうなずいた。


「ほんまに勉強になったわ!」


 すると、光子が突然言った。


「正則君、亜由美さん!」


 二人が振り返る。


「はい!」


 光子はニヤリと笑った。


「次に来るときは、車の夫婦コントの続編を考えてきてもよかよ!」


 正則は目を丸くした。


「ええっ!? 続編ですか!?」


 亜由美も笑った。


「今度は子どもの車まで出てくるんちゃいます!?」


 光子は腹を抱えて笑った。


「それ、よかね! 黒いセダンと赤い軽自動車の子ども、何色にしようか!」


 正則が突っ込んだ。


「いやいや、車から子どもが生まれるんですか!?」


 陽翔も大笑いした。


「お母さん! 家族が増えたら駐車場が足りんようになるばい!」


 彩羽が続けた。


「ほな、庭まで駐車場にするしかなかね!」


 翼が苦笑した。


「それは勘弁してほしいな」


 一同、再び大爆笑。


 正則と亜由美は笑いながら青柳家をあとにした。


 帰り道。


 亜由美が話しかけた。


「正則、今日もすごい勉強になったね」


「せやな」


「バレーもテニスも卓球も、違う競技やのに共通することがいっぱいあった」


 正則はうなずいた。


「俺、特に翼さんの話が印象に残っとるわ」


「予想にこだわりすぎないって話?」


「そうや。次は絶対にカーブが来ると思い込んだら、直球に対応できへんもんな」


 亜由美も笑った。


「うちも、まず見るものを決めて、打つ準備をちゃんとしたい」


 正則は少し考えた。


 そして、笑顔になった。


「……次の練習、楽しみやな!」


 亜由美も大きくうなずいた。


「うん!」


 第十四章 翌週、正則のバットが変わった

 翌週の放課後。


 博多フューチャーズの練習場。


 城戸直哉監督は、打撃練習を実戦形式で進めていた。


 投手は三年生の藤岡蓮司。


 捕手は相原健悟。


 打席には河内正則。


 藤岡は、いつものように落ち着いてサインを確認していた。


 正則は、打席へ入る前に考えを整理した。


(藤岡先輩は、初球から直球でストライクを取りにくることが多い。でも、カーブもある)


 そして、バットを構えた。


(まずは、打てる直球を狙おう。ただし、違う球が来たら無理に振らへん)


 藤岡が初球を投げ込んだ。


 外角低めへの直球。


 ストライク。


 正則は見送った。


(……今のは低かった。次も同じとは限らん)


 二球目。


 内角へ外れる。


 ボール。


 1ボール1ストライク。


 相原が藤岡へサインを送った。


 正則は、捕手のミットの位置を盗み見ようとはせず、投手の動きと球筋へ意識を向けた。


(……狙いは直球。でも、来た球を見る)


 三球目。


 藤岡が腕を振った。


 外角寄りへの直球。


 正則の目が、ボールを捉えた。


(……これや!)


 踏み込む。


 バットを振り抜く。


 カキィィン!


 鋭い金属音が響いた。


 打球は、二遊間へ飛んだ。


 ショートの秋山紘太が横へ走る。


 グラブを伸ばす。


 しかし、打球はその先を抜けた。


 センター前ヒット!


 正則は、一塁へ駆け抜けた。


「……やった!」


 ベンチから声が飛んだ。


「正則! ナイスバッティング!」


「よう打ったね!」


 亜由美も立ち上がった。


「正則! やったやん!」


 正則は一塁上で拳を握った。


「よっしゃぁ!」


 そして、マウンドの藤岡が驚いたように笑った。


「河内! お前、もうヒット出るようになったんか!」


 正則は少し照れた。


「はい! まだ一本目ですけど!」


 藤岡は笑った。


「前は、変化球を警戒しすぎて、真っすぐにも振り遅れとったやろ?」


 正則がうなずいた。


「そうです!」


「今のは、ちゃんと直球に合わせて打てとったね」


「ありがとうございます!」


 相原健悟もマスクを外して声をかけた。


「正則君、今の打席、考え方が変わっとったね」


 正則は笑った。


「はい。全部を一度に考えるんやなくて、まず何を狙うか決めました!」


 相原はうなずいた。


「よかね!」


 そして、少し悪戯っぽく続けた。


「でも、次も同じ配球とは限らんけんね!」


 正則は笑った。


「分かっとります!」


 ようやく生まれた、中学野球での初安打。


 それは、ただの一本のヒットではなかった。


 失敗を振り返り、新しい考え方を試し、その結果を確かめた一本だった。

 第十五章 亜由美にも生まれた、最初の一本

 続いて打席に入ったのは加藤亜由美だった。


 相手は同じく藤岡蓮司。


 捕手は相原健悟。


 亜由美は、静かに深呼吸した。


(……正則が打った。うちも続きたい)


 しかし、すぐに思い直した。


(……いや、焦ったらあかん)


 青柳翼が教えてくれたこと。


 予想にこだわりすぎない。


 青柳陽翔が教えてくれたこと。


 相手が動く前から準備する。


 青柳燈真が教えてくれたこと。


 考えすぎて体を止めない。


 青柳彩羽が教えてくれたこと。


 見る順番を決める。


 そして、青柳光子が教えてくれたこと。


 一つの特徴から、いろいろな可能性を考える。


 亜由美は、バットを構えた。


(……まずは直球を狙う。でも、低めの変化球には手を出さん)


 藤岡の初球。


 外角低めへのカーブ。


 亜由美は見送った。


 ボール。


 二球目。


 内角への直球。


 ストライク。


 三球目。


 外角へ外れる直球。


 ボール。


 2ボール1ストライク。


 亜由美は、小さく息を吐いた。


(……打てる球が来たら、しっかり振る)


 四球目。


 藤岡が投げ込んだ。


 外角寄りの直球。


 亜由美が踏み込んだ。


 カキーン!


 打球は、右中間方向へ鋭く飛んだ。


 センターの早良夏美が追う。


 ライトの桑野光も走る。


 しかし、打球は二人の間へ落ちた。


「ヒット!」


 亜由美は一塁を回りかけたが、外野手の返球が速いと判断し、一塁へ戻った。


 ライト寄りのセンター前ヒット。


 亜由美は、一塁上で大きく息を吐いた。


 そして、満面の笑みになった。


「……やったぁ!」


 正則がベンチから叫んだ。


「亜由美! ナイスバッティング!」


 亜由美は笑顔で応えた。


「ありがとう!」


 藤岡がマウンドで笑った。


「……何ね、二人とも急に打つごとなったやん!」


 相原も笑った。


「ほんとたい。これは配球を考え直さんといかんね!」


 亜由美は少し照れながら頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 しかし、藤岡はすぐに真剣な表情になった。


「でも、二人とも。これで打てるようになったと思ったらいかんよ」


 正則と亜由美はうなずいた。


「はい!」


「次は、俺らも二人の特徴を考えて投げてくるけんね」


 正則は力強く答えた。


「望むところです!」


 亜由美も笑った。


「うちも、もっと練習します!」


 藤岡は満足そうにうなずいた。


「よし!」


 その様子を、城戸監督と平松コーチが少し離れた場所から見守っていた。


 平松コーチが言った。


「二人とも、ようやく最初の安打が出ましたね」


 城戸監督がうなずいた。


「そうですね」


「柳川家や青柳家で教わったことも、役立っているようです」


 城戸監督は微笑んだ。


「ただ、今日の二本だけで判断することはできません」


「そうですね」


「それでも、何を変えればよいか自分たちで考え、実際に試していることは評価できます」


 平松コーチはうなずいた。


「これからが楽しみですね」


 城戸監督も笑った。


「ええ。本当に」

 第十六章 できなかったことが、できるようになる喜び

 練習が終わったあと。


 正則と亜由美は、ベンチで今日の打撃を振り返っていた。


 正則が笑った。


「亜由美、やっと一本出たな!」


「ほんまやね!」


「俺、めちゃくちゃうれしかったわ!」


 亜由美もうなずいた。


「うちもや!」


 そして、少し真剣な表情になった。


「でも、正則」


「何や?」


「今日の一本で、もう大丈夫ってわけやないよね」


 正則は大きくうなずいた。


「分かっとる!」


 亜由美は続けた。


「藤岡先輩も言うとったやん。次はまた違う配球をしてくるって」


「せやな」


 正則は、グラウンドを見つめた。


「でも、前は何をどうしたらええか分からへんかった」


 亜由美がうなずいた。


「うん」


「今は、少しずつやけど、何を練習したらええか分かってきた気がする」


 亜由美は笑顔になった。


「うちもや」


 そして、正則が少し笑った。


「……まさか、マグカップと車の夫婦コントが、野球の勉強につながるとは思わへんかったな」


 亜由美が吹き出した。


「ほんまやね!」


 正則は続けた。


「青柳光子さん、ほんまにすごい人やわ」


 亜由美もうなずいた。


「優子さんも光子さんも、ただギャグを作っとるんやなくて、いろんなものを観察しとるんやね」


 正則は少し考えた。


「そうやな。それで、見つけたことを組み合わせて、新しいものを作る」


 亜由美は笑った。


「うちらも野球で、それができるようになりたいね」


 正則は力強くうなずいた。


「もちろんや!」


 二人は、今日の練習記録をノートへ書き込んだ。


 河内正則、中学野球初安打。


 加藤亜由美、中学野球初安打。


 しかし、そこには安打の記録だけでなく、どの球を狙い、どう判断したのかも書き添えた。


 次に同じような場面が来たとき、もう一度自分で考えて対応するためだった。

 第十七章 大阪の智雄へ、うれしい報告

 その夜。


 博多南中学校の寄宿舎。


 正則は、池永智雄へメッセージを送った。

 正則:智雄! 今日、ようやく中学で初ヒットが出たで!


 ほどなくして返信が届いた。

 智雄:ほんまか!? おめでとう! 誰から打ったんや?


 正則:三年生の藤岡先輩や! 直球をセンター前へ打ったで!


 智雄から、すぐに返事が届いた。

 智雄:おおっ! あの百三十キロ超える先輩か! すごいやん!


 正則は笑った。


 そして、さらに送った。

 正則:亜由美も今日、藤岡先輩から初ヒット打ったで!


 智雄:何やて!? 二人そろってか! 負けてられへんな!


 正則は、少し考えた。


 そして、青柳家での出来事も伝えた。

 正則:ちなみに、野球の勉強で、黒い高級セダンと赤い軽自動車の夫婦コントもやったで!


 しばらく返信が来なかった。


 やがて。

 智雄:…………は?


 続いて、もう一通。

 智雄:正則、お前、博多行って何の練習しとるんや!?


 正則は腹を抱えて笑った。


「ぶははははっ!」


 同室の寺島湊が驚いた。


「正則君、どうしたの?」


 正則は笑いながら答えた。


「大阪の智雄から、めちゃくちゃええツッコミが来たんや!」


 そして、智雄へ返信した。

 正則:ちゃんと野球の練習や! 観察力を鍛えるためやねん!


 智雄から即座に返事が届いた。

 智雄:車の夫婦コントで観察力!? 何やそれ! 意味分からへんわ!


 正則は、さらに大笑いした。


 しかし、少しして、智雄から別のメッセージが届いた。

 智雄:でも、初ヒットおめでとうな。俺も今日、若狭先輩の変化球を初めてレフト前へ打てたで!


 正則は目を輝かせた。

 正則:ほんまか!? やるやん! 智雄もおめでとう!


 智雄:おおきに! 次に対戦するときは、もっとすごい球投げたるからな!


 正則:望むところや!


 大阪と博多。


 離れた場所で、二人の投手は同じように成長を続けていた。


 そして、正則と亜由美も、今日の成功だけで満足するつもりはなかった。

 第十八章 小さな変化が、大きな成長につながる

 翌朝。


 博多南中学校の寄宿舎。


 正則は、いつもどおりの時間に起床した。


 洗面を済ませ、寝具を整える。


 昨日の洗濯物も、きちんと畳んで収納した。


 同室の湊が笑った。


「正則君、最近は洗濯物を畳むのも早くなったね」


 正則も笑った。


「せやろ! 毎日やっとったら、少しずつ慣れてきたわ」


 湊がうなずいた。


「野球と同じだね」


 正則は、少し考えた。


 そして笑った。


「……ほんまやな」


 一方、女子居住区域。


 亜由美も朝の準備を進めていた。


 澪が尋ねた。


「亜由美ちゃん、昨日ヒット打てたんだって?」


 亜由美は笑顔になった。


「うん!」


「おめでとう!」


「ありがとう!」


 澪は続けた。


「それで、青柳家で教わったことが役立ったの?」


 亜由美は少し考えた。


「うん。直接バットの振り方を教わったわけやないけど、何を見て、何を考えるか整理できるようになった気がするねん」


 澪はうなずいた。


「なるほど。観察することと、実際に試すことをつなげられたんだね」


 亜由美は笑った。


「そうやね!」


 そして、机の上に置いた大阪タイタンズの集合写真へ目を向けた。


 あの頃、自分たちは小学生として全国準優勝を達成した。


 それは、間違いなく大きな経験だった。


 しかし、中学へ進学すると、自分より優れた技術を持つ選手がいくらでもいることを知った。


 最初は驚いた。


 悔しかった。


 何をどうすればよいのか、分からなくなることもあった。


 しかし、そこで諦めずに考えた。


 先輩たちに教わった。


 悠翔に相談した。


 優子のギャグコントから発想の広げ方を学んだ。


 陽翔、燈真、彩羽、翼、光子から、競技や音楽を超えた観察力の大切さを知った。


 そして、実際に練習で試してみた。


 その結果、ようやく最初の一本が生まれた。


 亜由美は、静かに笑った。


「……まだまだこれからやね」


 同じ頃、正則も野球ノートを開いていた。


 新しいページへ、大きな文字を書き込む。


『分からないことは、考えて、聞いて、試してみる』


 そして、その下にもう一つ。


『一本打てたからといって、そこで満足しない』


 正則は、ゆっくりとノートを閉じた。


「……よし!」


 今日も、また練習がある。


 昨日より、ほんの少しでも上手になるために。


 春の朝日が、博多南中学校の校舎と寄宿舎を照らしていた。


 正則と亜由美の挑戦は、まだ始まったばかりだった。


 次回予告

 第51話「初めての対外試合、レギュラーへの挑戦」

 博多フューチャーズへ入団してから、約一か月。


 河内正則と加藤亜由美は、三年生の藤岡蓮司から、ようやく中学野球での初安打を記録した。


 しかし、二人はそれだけで満足していなかった。


 投手としての制球力。


 変化球への対応。


 強い打球への守備。


 そして、相手の配球を考えながら打席へ立つこと。


 まだまだ課題は多かった。


 そんな中、城戸直哉監督が選手たちへ告げる。


「来週、今年度最初の対外練習試合を行います」


 相手は、福岡県内でも実力を持つ中学生チーム。


 上級生だけでなく、一年生にも出場機会が与えられることになった。


 正則は、投手としての登板を目指す。


 亜由美は、三年生の三浦康平や一年生の牧田和美との二塁手争いに挑む。


 一方、大阪の西九条中学校では、池永智雄、宮本さくら、西村奈緒たちも対外試合へ向けた準備を始めていた。


 そして博多リトルスターズでは、柳川悠翔が四番打者兼キャプテンとして、新四年生たちを率いて次の大会に挑もうとしていた。


 そんな中、悠翔から正則と亜由美へメッセージが届く。


「二人とも、初ヒットおめでとう! 今度は試合で打てるとよかね!」


 正則が笑う。


「当たり前や! 今度は投げるほうでも結果出したるで!」


 亜由美も続ける。


「うちも、絶対にレギュラー争いに食い込んだる!」


 次回、第51話「初めての対外試合、レギュラーへの挑戦」。


 一度できたことが、次もできるとは限らない。だからこそ、繰り返し練習し、考え続ける。正則と亜由美は、中学生として初めての対外試合へ向けて、新しい挑戦を始める。

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