3 緒方慎司の話(2)
「部室に戻ってこようとは、お釈迦様でも思うまい」
忍び足で階段をのぼりながら、小さくつぶやく。
部室から逃げ出したはずの俺が、この短時間のうちにまた部室に戻ってこようとは、誰も思わないはずである。持ち出した秘蔵のフィルムも、一度捜索を受けた部室に隠し直せば、盲点となる。ついでに、風紀委員の立ち入り検査を事前に明かさなかった嶺岸にも説教ができる。
「一石三鳥だな」
ほくそ笑みながら、部室の扉に耳を当てる。
風紀委員はすでに立ち去ったのであろう、中から物音はしない。いつものように部活動を放棄した嶺岸が推理小説を読んでいる光景を想像して、俺は扉に手をかける。
「嶺岸、お前な──」
開いた扉の向こう、嶺岸の部室での定位置に座っていたのは、しかし嶺岸由希子ではなかった。瞬時に扉を閉めて、階段に向けて踵を返す。咄嗟のことで顔までは確認できなかったのであるが、俺のカメラマンとしての直感が、あれは「彼女」だと告げている。
「緒方!?」
俺の名を呼ぶ声が、推測を確信に変える。
嶺岸和歌子──俺の級友であり、嶺岸由希子の姉であり、バスケットボールのホープであり──風紀委員の書記でもある。
「何でよりによってあいつが!」
俺に優しくない神様にありったけの悪態をつきながら廊下を駆け抜ける。今この状況で、もっとも捕まりたくない相手こそが、彼女であった。ポケットに詰め込んだフィルムケースのふくらみに触れて、それがそこにあることを確認する。このフィルムだけは、彼女に渡すわけにはいかない。
彼女が追いかけてくる前に、と階段に向けて廊下を疾走する。下の階にも風紀委員がいることに変わりはなかったが、俺がいまだに捕まらないことで彼らの陣容にも変化が出ているはずである──その虚を突く!
俺は階段を駆け下りて、バリケードの撤去された隙間を縫って、その先に向かう。そこにはトイレがある。男子トイレに隠れれば──そう思った矢先に、女子トイレから出てきた生徒にぶつかりそうになって、慌てて止まる。
「びっくりしたあ」
女子生徒は誰あろう──嶺岸由希子である。
確かに、写真部の部室から最寄りの女子トイレはここなのであるが、敬愛する先輩が風紀委員に追いまわされているというのに、のんびり用足しとは。
「まだ捕まってなかったんですかあ?」
嶺岸の、のほほんとした口調に、堪忍袋の緒が切れる。
「お前な! 誰のせいで逃げまわってると思ってるんだ!」
言って、嶺岸の手を引いて、急ぎトイレそばの階段の踊り場に隠れる。
「言っておきますけど、責任はすべて先輩にあるんですからね!」
俺の先の口ぶりが気に入らなかったようで、嶺岸は反抗的につんと唇を尖らせる。
「先輩は私のせいで逃げまわってるわけじゃありません。立ち入り検査のことを事前に明かさなかったのは、正式な通告があったわけじゃないからです。風紀委員の姉さんから、先輩には言わない、という条件でこっそり教えてもらったんです。やましいところがないのなら、立ち入り検査のことを事前に知らなくとも、困ることなんてないはずでしょう?」
図星を指されて、胸がちくりと痛む。ポケットに詰め込んだフィルムケースが、心なしか重くなったように感じる。
「先輩は、自分は犯人じゃないって、繰り返し言ってましたよね? それなのに、いざ立ち入り検査を前にすると慌てて逃げ出すなんて──それこそが、どこかにやましいところがある証拠じゃないんですか?」
言って、嶺岸は俺のポケットのふくらみをみつめる。
「先輩が逃げまわってるのは、私のせいですか?」
「──違うよ、俺が悪い」
俺の日頃の行いが、今のこの状況を生んだ──その点に異論はない。しかし、同時に、どこか釈然としない、誰かに誘導されて袋小路に追い詰められたような、そんな違和感も残る。
「でもな──嶺岸」
呼びながら、俺はすばやく嶺岸の腕をつかむ。
「風紀委員の立ち入り検査があった時、俺が隠しているものを持って逃げ出すだろうってこと、お前は予測していたんじゃないのか?」
握った腕が、かすかに震えるのがわかる──それだけで十分だった。嶺岸の肯定が、違和感のピースをパズルのように組み上げていく。
俺は自分の考えを整理するように口を開く。
「風紀委員会は、今回の盗撮事件に俺が関わっているのではないか、と考えている。ビデオカメラの設置、ビデオテープの回収──順当に考えれば、俺以外にそんなことを実行するような人間は、校内にはいないと思われてるだろうからな」
「自覚はあるんですね」
嶺岸の反撃を無視して、俺は言葉を重ねる。
「おかしいと思ったのは、二階の廊下でバリケードを見た時だ。風紀委員会は、俺を逃がさないために万全を期していた。バリケードを築いて、別働隊を配置して、さらには俺が逃げ出した後の部室にさえ見張りの人員を割いていた。それほどまでに労力を費やしておきながら──なぜ、彼らは部室に踏み込む際に俺を逃がしてしまったのか」
嶺岸は、もう何も返さない。
「バリケードを築くくらいなら、別働隊を含めた全員で部室を取り囲めばよかった。そうすれば、俺は窓から逃げ出すこともできず、その場で捕まっていただろう」
嶺岸の腕から力が抜ける。握っていた手を離すと、腕はだらりと垂れる。
「彼らは俺を故意に逃がした。俺が部室から逃げ出すことは、決定事項だった。だからこそ、二階の廊下にバリケードを築き、捕獲の容易な場所に別働隊を配置した──彼らは、部室のどこに隠されているのかわからない俺の『大切なもの』を、俺自身に持ち出してほしかったんだ」
嶺岸はあきらめるように、小さなため息をつく。
「嶺岸和歌子は、相手が妹だからといって、委員会の内情を軽々しく話したりはしない。彼女が何事かを漏らすというのならば、それは意図があってのことだ──姉さんに頼まれたんだろう? 風紀委員が踏み込む直前に、俺が『大切なもの』を持って逃げ出すように、立ち入り検査のことを教えろ、と」
「ずいぶんと姉さんのことに詳しいんですねえ」
嶺岸は観念したことを示すように両手をあげる。
「ごめんなさい。姉さんに頼まれると、嫌とは言えなくて」
「それは──何となくわかる」
嶺岸和歌子の怒った顔を想像して苦笑する。単なる級友でさえ怖いのだ。姉妹ともなれば、震えあがるのも無理はない。俺の苦笑を見て、嶺岸も表情を崩す。
「それで、先輩は何を持って逃げているんですか? ビデオテープじゃないんでしょう?」
隠し事のなくなった嶺岸は、軽くなった肩を確認するかのように、背伸びをしながら問いかける。
「俺が持って逃げているのはフィルムだ。ビデオテープじゃない。今回の件とは本当に関係がないんだ」
「今回の事件と関係がないのなら、おとなしく捕まってしまえばいいのに。疑いも晴れますよ」
彼女は軽々しく言う。
「俺は盗撮なんてしていない。でも、他人が俺の撮影をどう思っているか、くらいのことは想像がつく。だから、大事なフィルムを風紀委員会に没収されるわけにはいかない。あいつら、今回の件とは関係なくとも、別件で俺を捕まえるくらいのことはやりかねないからな」
「そんなに──いかがわしい写真ばかり撮ってたんですか?」
「いかがわしくない!」
反射的に反論を加える俺に。
「芸術はいかがわしくない、でしょ?」
嶺岸は先まわりして微笑を添える。
不意の笑顔は幼く無邪気で、不覚にも「その笑顔を保存したい」という欲求にかられてしまう。逡巡する俺の心を知る由もなく、彼女は「ん?」と首を傾げながら、やわらかく俺をみつめる。今度という今度は、部長の威厳という防波堤も決壊寸前である。
「──ともかく!」
俺は、自らの煩悩を抑えつけるように、力強く宣言する。
「犯人を捕まえる!」
俺の決意に、嶺岸が、おお、と声を漏らす。
「このまま逃げ続けても埒が明かない。たとえ今日を逃げきったとしても、明日も明後日も学校はあるんだ」
「でも──どうやって? 犯人に心当たりでもあるんですか?」
「ない」
嶺岸の問いを一刀のもとに切り捨てる。俺が容疑者となっている点を除けば、事件の知識はすべて噂によるものである。
「──嶺岸」
あらためて、その名を呼ぶ。
「犯人探し、手伝ってくれないか?」
俺の懇願に、彼女は小さなため息を──それから苦笑を漏らす。
「いいですよ。手伝わないと、写真部、なくなっちゃいそうですからね」
「ありがとう」
言って、頭を下げる。
「それで、どうすればいいんですか?」
「そうだな、まずは──」
俺は、いつ追手に見つかるやらわからぬ中で、嶺岸に最低限の指示を出す。有能な──口に出せば調子に乗るから、あまり言いたくはないのであるが──彼女のことである。きっとやり遂げてくれることであろう、と信じる。
「いたぞ!」
指示を出し終える──と同時に、風紀委員の声が響く。
嶺岸は追われていない。彼女ならば任務を遂行できるであろうから──あとは俺が逃げおおせるだけである。
「体育館で落ち合おう!」
言って、俺は振り返らずに駆け出す。




