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追試を前にした教室で、トールはパンを食べている。無表情で、遠くをみつめて、むしゃむしゃと無心にパンを食べている。見れば、パンには何やら文字のようなものが描かれていて──まさか本当に暗記パンを食べているのであるまいか、と思わせる。
「トール、お前とうとう酸素欠乏症に──」
言って、オードリーはトールの肩をつかんで揺する。
「暗記パンはないけど、合格パンはつくったことがあるからって親父が──」
トールは食べかけのパンをこちらに見せる。
パンの表面には、合格、と印が押されており──なるほど、これを食べれば受験に合格できる縁起のよいパン、というていで過去に売り出したことがあるのであろう、と想像する。
「泣かせるな。あたしにもくれ」
言って、オードリーはトールの返事よりも先に、机の上の袋から合格パンを奪い取る。
「意外にうまいな」
「うちのパンは何でもうまいよ」
パンの話に終始するオードリーとトール──僕は心配になって尋ねる。
「その後──勉強は?」
「俺なりにはやった」
トールは、その言葉の割には、自信なさげな顔である。
「あたしも」
そう続けるオードリーの方が、まだマシな顔をしている。
実のところ、オードリーの心配はそれほどしていない。彼女はやればできる子なのである。普段はあまり勉強をしたがらないから成績はよろしくないのであるが、今回はトールにつきあって勉強していたはずであるからして、赤点をまぬがれるくらいはそう難しくなかろう、と思う。
「──席につけ」
言いながら、沼田が教室に入ってくる。僕らは、それぞれ指定された席について、神妙な顔で沼田の行動を見守る。
「──暑いな」
つぶやいて、沼田は汗をぬぐう。
沼田はおもむろに窓を開ける。肥満体の沼田ならば、間違いなく窓を開ける。計算どおりである。窓の外から、十月の涼しい風と──部活動の声が届く。沼田は、その声が試験の邪魔になるほどではない、と納得するように何度か頷いて──問題用紙を配り始める。
問題用紙と解答用紙──その両方を配り終えて、沼田は僕らの顔を見まわす。準備はよいか、という確認であろう。僕らは皆、頷いて返す。
僕は神妙な顔のトールを見やる。わざわざ息子のために縁起もののパンを焼きあげたトールの父親のためにも、トールを落第させるわけにはいかない。
「はじめ!」
沼田の合図に、深呼吸を一つ──落ち着いて、まずはすべての問題にざっと目を通す。問題の量自体は、それほど多くはない。内容も、ほとんどは正答が判断できる。迷うものもなくはないが、他の選択肢の誤りから正解を導き出すことはできそうである。頭の中で時間配分を決めて──自身の解答については問題ない、と確信する。
オードリーとトールはどうであろう──そちらを、ちらと見やる。オードリーは、うなりながらも、鉛筆を動かしている。わかるところから解答しているという印象である。一方で、トールの方はというと──すでに天を仰いでいる。これは、勉強の成果には、期待できそうもない。やはり、僕がやるしかない、と覚悟を決める。
沼田は、律儀に見まわりを始める。僕はともかくも、オードリーもトールも、言わば札つきのワルである。もしかしたらカンニングに手を染めるやも、という疑念を抱いているのであろう。沼田のその疑念は正しい──が、見まわりで看破できるような手段ではないことが、彼の敗因である。
僕は急いで解答欄を埋める。僕が正答しなければ、トールも道づれとなる。もちろんプレッシャーはある──が、試験こそは僕の得意とする戦場でもある。
問題を解き終えて、解答を上から順に記憶して──見直しもそこそこに、沼田に申し出る。
「──終わりました」
僕の迅速な解答に、沼田は驚きもせずに頷いて──僕は席を立って、解答用紙を提出する。教壇の上の掛け時計に、ちらと目をやる。試験の終了までには、まだ三十分以上ある。これならば、十分に間に合う。
「さすがは宮川、早いな」
沼田は、僕の世界史の成績を知っている。そして──追試を早く終わらせたい理由も。
僕はいそいそと身支度を始めて。
「おい──ちょっと待て」
不意に、沼田に呼びとめられて、心臓が飛び出そうになる。
まさか──まさか、この後の算段が露見したのではあるまいか、という不安を押し隠して──僕はつくり笑いで沼田に向き直る。
「名前、書き忘れてるぞ」
何たるケアレスミス──僕は沼田に愛想笑いを返して、急ぎ名前を書き込んで、今度こそ解答用紙を提出する。
「部活動、がんばってこい」
沼田は僕の肩を叩いて。
「はい!」
快活に返して──僕は教室を飛び出して、廊下を駆け出す。




