第13話 キジークの海と銀龍魚
ゾーヤの背に揺られながらの道程は、驚くほどに快適だった。無論、鞍や鐙など用意していない。にも関わらずこの安定感はどうだ。ゾーヤの逞しくもしなやかな四肢は、地を蹴る衝撃を馬上に伝えはしなかった。カイルもまた、いとも容易くゾーヤと呼吸を合わせてみせた。
「なかなか見せつけるではないか…」
セシエルが仄暗い微笑をゾーヤへ向けたただ一度だけ、カイルは落馬しそうになった。
さて、そのカイルであるが、左手に広がる荒海への好奇心を抑えられずにいた。森には精通していたが、海のこととなるとからっきしである。
これまでは、セシエルと会うために全身全霊をミルボの森へ向けて生きてきた。しかしこうして今、想い人と再会して旅に出てみれば、キジークの海とはなんと不思議の存在だろう。岩壁を穿つほどに猛々しいというのに、海にもまた、生命が溢れているという。
なるほど、恵みの森を縦断するキュフレル川が流れ込むのだから、栄養は豊富に違いない。しかし、妖魔の如き荒海での生命の暮らしぶりが、皆目見当もつかないのだ。
そんなことを思いながらカイルは、ゾーヤの背から怒濤砕くる海を眺めていた。ふと、銀色の光が煌めくのを目の端が捉える。
「銀龍魚だ!」
不意に、やけに明瞭に、カイルの記憶が甦った。
幼い日に一度だけ、父が手土産に銀龍魚を持ち帰ったことがあった。「幻の魚」と父は誇らしげに言った。
銀龍魚はキジークの、わけても波の荒い場所にしか生息しない。熟練の漁師がその一生をかけて一尾取れるかどうかだと言う。しかも非常に足が早く、市場に出回ることもまずない。
この時はまさに奇跡的に、帰りの道中に銀龍魚を持った漁師と出会えたのだ。カイルの父は、スポア村で買い込んだ珍品と金子を惜しみなく差し出し、早駆けでサイゼラ村へと戻って来たのである。
カイルは己の欲求を抑えることができなかった。
もう一度あの魚を食ってみたい。
その一念で、断崖絶壁を山猿のような身のこなしで駆け降りたまでは良かった。しかし、海面に足を入れたとたん、荒波に食い付かれ、水中できりもみするはめになった。
海中での身の処し方が皆目分からずカイルは、情けなくもセシエルに助け上げられるまで、銀龍魚を捕らえるどころではなかったのだ。
それから数日のカイルは、セシエルとゾーヤを大いにあきれさせた。妖魔の海で今にも命を落としそうになったにも関わらず、カイルはその場に留まり、何度もキジークに挑み続けたのだ。
思えばミルボの森でも、このように命を削って身の処し方を学んでいった。しかも今は、いざとなれば助けてくれる頼りになる妻がいる。より思いきった試みが可能だった。
「私に食われる前に海の藻屑にならないでくれよ」
セシエルは笑いながらそう言ったが、カイルの体捌きと洞察はやはり尋常のものではない。次第に、荒海での身の処し方を掴み始めていた。
カイルは水の流れを見た。水の流れは、岸壁に近い場所と少し離れた場所、浅い場所と少し潜った場所とで、その向きや速さがまるで違う。キジークのような荒海であれば、流れはより一層複雑に絡み合っている。この流れを読みきることで、カイルは見事、荒海を乗りこなしてみせた。
「あきれたものだ。私の夫は一条の魚だったか」
セシエルはまた笑ったが、魚にしては何度も岸壁に打ち付けられ、その身は傷だらけだ。カイルの頑強さがあったからこそ耐えられた。
水の流れを読むことを覚えたカイルにはもう一つ発見があった。一見すると一面激しく波が渦巻いているような海面だが、どういった塩梅か水の流れがぴたりと止まる"たまり"がある。このたまりで、銀龍魚は時おり休んでいるのだ。
波さえ乗りこなしてしまえば、銀龍魚をその手に掴むこと自体は難しくなかった。こんな過酷な環境下で、捕食者に注意を払う必要など、銀龍魚にはなかったからだ。
しかし、ひとたび我が身の危機を知ったなら話は別だ。銀龍魚はカイルの手の中で、激しくその身をよじって逃れようとする。カイルの半身ほどもある巨体に加え、荒海を泳ぎ切るその力は凄まじかった。カイルは抱き付くようにして銀龍魚を抑え込もうとしたが、おかげでたちまち波に飲まれてしまった。
結局カイルは、再びセシエルに助け上げられることとなったが、それでもその手から銀龍魚を離さないでいたのは、もはや執念と言うほかない。
その夜、銀龍魚を焼いて食った。
正直、そう美味でもなかった。キジークの荒波で鍛えられた肉質は固く、味は淡白だ。
それでも、それなのに、その清廉さはカイルに昔を思い起こさせるのに十分だった。
幼い頃、確かにカイルはこの魚を食った。
そこには父がいた。
そして母がいた。
レイもいたしフュリーもいた。
皆で、味がないだの固いだのと、散々に文句を言いながら食べたのだ。それでも父は笑ってこう言っていた。
「この魚を食えばあらゆる困難にも負けない強い人間に育つ」と。
美味くもない魚肉を食らいながら、気付けばカイルは泣いていた。
「存外、よく泣く男だな」
カイルを見つめるセシエルの瞳は穏やかだ。
しかしそうではないのだ。カイルはこの10年というもの、涙を流したことなどついぞなかった。今、こうしてセシエルと出会い、村の仲間たちに自らの想いをぶつけ、旅の空の下にある今こそ、心に纏った堅牢な鎧を、一つ、また一つと剥がしている最中なのだ。
「俺は、強い人間になれただろうか…」
泣きながら食いながら、カイルは誰に言うともなく呟いた。




