第11話 旅立ち
カイルは拍子抜けするほどに軽装だ。まるで、ちょっとその辺りを散策して来るかのような風情である。
カイルがレイを全力で打ちのめしたあの日から、三日ほどが経った。二人の少年はフュリーにしこたま叱りつけられた。レイは丸一日、胸の痛みで起き上がることもできなかったからだ。カイルは、フュリーを心配させたことは反省したが、全力で打ちのめしたことは反省していなかった。
それからフュリーとレイは、死ぬまでに必ずサイゼラ村に戻って来ることを、カイルに約束させた。色んな土産話を持って帰って来ると、カイルも約束した。
そして今日、カイルは獣の神、セシエルと共にサイゼラ村を旅立つ。フュリーとレイ、それに村長やガイ、イーリス夫妻ら、別れを惜しむ多くの大人たちも見送りにやって来た。セシエルは皆からは少し離れた所で待っている。
「やはり思い直してはくれないか?」
しつこく引き留めるのはフューザック・サイゼラ村長だ。村のことだけではない。娘のことを思えば、引き留める理由は大いにある。しかしこの期に及んで、カイルの意思は変わらない。
皆が思い思いに別れの言葉を口にした。
突然、にわかに空気がひりついた。
少し離れた場所で、神と対峙するかのように、一人の老人が立っている。
アムガー・ダインだ。
手には、使い込まれた鍬を握りしめている。その目付きは尋常のものではない。
「…バーサの、仇…!」
小さく呟くと、アムガーじいさんは猛然と神に駆け寄って行く。鍬を大きく振り上げながら。
「駄目だ!」
事態に気付いたカイルが思わず叫ぶ。己が妻の身を案じたのではない。鉄の鍬程度では、彼女の身体には傷一つ付かないだろう。
セシエルは確かに、カイルの妻になると誓った。しかし彼女は獣の神だ。自らに刃を向ける人間に対して、どこまで寛容であるかは誰にも分からない。
アムガーじいさんは老人とは思えない疾走を見せた。
離れた場所にいるカイルではもう間に合わない。
老人は、獣の神こそが妻の仇と信じた。いや、どこかに討つべき仇がいると信じたかったのだ。
老人が振るう鉄の鍬は、過たず、神の胸元目掛けて振り下ろされる。
鈍い音がして、鍬は柄から折れ飛んだ。
セシエルの身には傷一つ付かず、身動き一つしていない。
アムガーじいさんはその場にへたり込んだ。獣の神がこれから自分をどう処するのかは分からないが、その目には最早命を惜しむ恐怖は微塵もない。ただただ、深い後悔と自責の念が浮かんでいる。
カイルは駆け寄るのをやめた。
セシエルは折れた鍬を拾い上げると、目の前の老人に問うた。
「お前は鉄を鍛えるのか?」
アムガーじいさんは首を横に振った。セシエルは大蛇のような尾から鱗を一枚剥がすと、座り込む老人の前に投げて寄越した。
虹色に輝いている。
絶望に取り付かれた老人の目にも、思わず生気が甦るような怪しい美しさだ。
「その鱗を三日三晩かけて粉に挽け。そして、その粉を鋳溶かした鉄に混ぜて鍛えるのだ。そうして鍛えた鉄の鍬なら、私の身体にかすり傷くらいは与えられるだろう」
誰もが一連のやり取りを、言葉をなくして見守った。カイルでさえ絶句した。やはり神の理屈は人の道理では量れない。村はさらなる驚きに包まれることになる。
おもむろに、セシエルは自らの鋭い爪で自らの胸を切り裂いた。人や獣と同じ色の鮮血が滴る。
カイルはショックを隠し切れない。
セシエルは勢いよく飛翔すると、村のはるか上空を、目にも止まらぬ速さで旋回した。
大気がかすかに朱に染まる。
一頻り飛び回った後、セシエルは再び地上に降り立った。その姿は実に神がましい。いつの間にか、胸の傷は綺麗に消えている。
「村に私の血で結界を張った。私がカイルと共にある限り、いかな獣もこの村を侵すことはないだろう」
しばしの沈黙の後、村人たちは快哉を叫んだ。いつも隣り合わせで生きてきた脅威が除かれたのであれば、これほどのことはない。しかも、神のお墨付きである。
アムガーじいさんは既に、命を投げ捨てるような目はしていない。神から与えられた"武器"をもって、神に一矢報いるという目的を得てしまったのだ。
こうして、少年の旅立ちは思いがけず盛大なものになったのだった。




