25:ライアン・ソーン、四度目の訪れ
春になり、ようやくレインバード邸に戻って来たライアンはアリシアの周辺に男の影がないことを確認し、まずは安堵した。
しかし、これ以上、彼は自分の気持ちを押し隠すのは無理だとも感じていた。
一刻も早く、アリシアとの関係を進ませたいが、その前にクロウ家の農地改革を進めるのが先だった。冬が終わり、春が来るように、春が来たら夏が来て、収穫の秋がやって来る。ちょっとした気の緩みも収穫量に関係してくる。
ライアンは一度手を出したことを、途中で放棄するような男ではなかった。
またもやライアンはヨアンとウィリアム、そして後学の為にジョセフも連れて農地を見回り、作付を管理し、栽培や新しい農具の遣い方について指導して回る。
ヨアンの足腰、及び考え方は大分、鍛えられており、昨年の秋よりもずっと長く積極的に歩くことが出来た。
帰りにレインバード邸に顔を出し、ルシアにその成果を報告する。
ある日、ヨアンの話を嬉しそうに聞いたルシアは、彼が帰った後にライアンに向かってしみじみと言った。
「あなたは父の思いを継いで、いろいろなさってくれていたのね。
ソーン家が今も豊かなのは、あなたのおかげです。
ありがとう」
その言葉を聞いたライアンは、全てが許され、認められた気になった。
事実、ルシアのライアンに対する憎しみは消えていた。彼が努力と苦労を重ね、彼女の実家であるブルーム邸とその土地を守っていることがよく分かったからだ。父の死が、当然、偶然だということも。
感激にうち震えたライアンが思わず外に出たのを見て、アリシアも後を追ってしまう。
天を見上げるライアンの後ろ姿に、アリシアは言葉を掛けてよいものか悩む。自分にその権利があるだろうか。
それでも彼女は声を掛けずにはいられなかった。
「ミスター・ソーン……あの……よろしゅうございましたね」
「ああ、ミス・クロウ……ありがとうございます」
嬉しさのあまり咄嗟にライアンはアリシアの手を取ってしまった。
あんなに気をつけていたのに彼女に嫌がられ、警戒されるようなことをしてしまったと、彼はアリシアの様子を伺ったが、彼女は振りほどくような素振りを見せない。
アリシアはびっくりしつつも、嬉しい気持ちで固まってしまっていたのだ。
そこで二人はしばし見つめ合う形になる。互いに困ったように。
それから名残惜しい気持ちで手は離れ、アリシアはレインバード邸の中に戻った。
と、屋敷内で一番初めに彼女が出会った人間はユージェニー・アンダーソンだった。少女はなんの意図もなく、偶々、そこを通りかかっただけだったのに、アリシアはそうは思わなかった。
血の気が引いた。
自分は大事な約束を忘れ、それを破っていた。
ユージェニーと彼女は約束をしていたではないか。
ユージェニーの伯父、ライアン・ソーンに絶対に恋はしない、と。それで家庭教師としてここにいるのだ、と。
***
アリシアは自分の立場と約束を思い出し、急速にライアンから遠ざかった。ライアンはその変化を敏感に感じ取ったが原因が分からない。手を握ったことがいけないことならば、その時に、もっと不快感を示すはずだ。けれども、あの時は贔屓目で見ても、悪い雰囲気ではなかったような気がする。
では何があったのか。
ライアンが自身の恋に思い悩んでいる間に、他方の恋は着々と進み、ついに決着を見た。
「妹さん……ミス・ソーンと結婚したいのです」
ヨアン・クロウにそう打ち明けられた時、ライアンはさほど驚かなかった。ルシアはヨアンのことが気に入ったようだし、逆もそうだった。
問題はヨアンがまだキャロラインと結婚しているという事だったが、エドワード・マーチンの時とは違い、彼の結婚生活は完全に破綻していた。それも妻が他の男と逃げ出したというスキャンダラスなものだ。結婚したらいろいろと噂されるだろうが、ルシアはそれでも構わないと力強く言った。キャロラインの評判はかなり悪かったので、非があるとしたら、ヨアンよりも断然、キャロラインだろうと思われる率も高い。
ライアンはヨアンに再度、確認する。
「本気なのですね? ルシアに強制された訳ではなく」
「はい。私が考えて決めました。
ミスター・ソーンが疑う気持ちは十分、承知しています。
私はこれまでの人生、寝ていたようなものです。何も考えず、漫然と時をすごしていましたし、それで満足していました。
けれども、ミス・ソーンなそんな私を叩き起こし、本当の満足とは何かを教えてくれました。
まだまだ寝ぼけているような自分ですが、ミス・ソーンと、それからジョセフの為に、きっと変わってみせます」
かつての面影など、どこにもなかった。彼は心からルシアとの結婚を望んでいた。
それでもライアンは「はい、そうですか」とは言えない。これまでのヨアンを思えば、それも当然だ。そこで条件を出すことにした。
「では、前の奥さんとの離婚を成立させて下さい。
専門家に相談して、あなた自身の手で、その手続きを完了させるのです」
離婚は基本的に許されてはいなかったが、事情によっては可能だった。しかし、かなり煩雑な手続きや不快なやり取りは避けられない。
それをヨアンが助けを借りつつも、独力でやり遂げてこそ、彼の本気さと成長を見せることになるのだ。
「分かりました」
一年はかかりそうだが、それで決まった。
***
ルシアの体調も精神状態もすっかり落ち着いてレインバード邸にも慣れたのを見て、メアリー・アンダーソンは自分たちは必要なく、そろそろ地元に帰るべきだろうと思うようになった。
それを聞いたユージェニーは自分はここに残ると言い張ったが、最終的には両親と一緒に戻ることを選んだ。そうなると、彼女の家庭教師であるアリシアもついていくことになる。ライアンもブルーム邸に行くことに決まった。
長く一緒に過ごした一族は、ばらばらに生活する時を迎えた。
アリシアはそれで安心すれば良かった。けれども火が着いた恋心は消せるものではない。たとえ別々に暮らしていても、ソーン家とアンダーソン家の結びつきは強い。なにくれと交流はあるし、ライアンの話も聞こえてくる。まして彼が結婚するとなったら、妻をつれて訪ねてきたり、もしくは訪ねていくことになるだろう。ユージェニーとの約束を破っている心苦しさまで加わって、アリシアの心は千々に乱れ、耐えきれるものではなかった。
兄が自分の頭で考えることを学んだ頃、妹である彼女は考えることを放棄した。
逃げることにしたのだ。
「家庭教師を辞めさせて下さい」
藪から棒に、そんなことを申し出られたライアンは二の句が継げなかった。この所、避けられている感じはしていたが、いつの間に、それほどまでに嫌われたのだろう。長い冬の間、我慢して会いに行かなかったというのに、その辛抱はまったく役に立たなかったというのだろうか。
ユージェニーがアリシアを先生としても人間としても信頼しているのは明白だった。ならば嫌われているのは自分しかいない。離れることになっても、ちょくちょく顔を見せると思われ、うんざりしているに違いない。春になり、これからアリシアに本格的に近づこうとしていた時だった。それを彼女が早々に察知したのだと考えた。
ライアンはそれでも諦めきれない思いで、彼女を引きとめる。
「理由を聞かせてもらえませんか? 折角、ユージェニーも懐き、勉強も捗っています。
これは大変良い先生を迎え入れたと、妹のメアリー共々、喜び、胸を撫で下ろしたというのに。
このように突然、そのようなお話をされるとは戸惑うばかりです」
自分の下心を押し隠す為に、殊更、仕事の面を強調したせいで、アリシアの無責任さを糾弾したような台詞になった。実際、アリシアのやっていることは傍目から見て、無責任で卑怯な行いだった。
しかし、それでもアリシアはユージェニーとの約束を守ることを優先したのだ。
そんな約束など露とも知らないライアンは、アリシアの悲しそうな顔に、自分の言葉が誤解されたことを悟り、今度はもう少し自分の感情を明かして説得することにした。
「何か気に入らないことでもあったのでしょうか?
確かに、ルシアの一件ではあなたに散々、ご迷惑をお掛けしました。けれども、それも落ち着きましたし、レインバード邸からも離れます。
アンダーソン家ではもっと心穏やかに過ごせると思いますよ。
あ……もしや、レインバード邸から離れるのがお嫌になりましたか?
ユージェニーもこちらには愛着がありますし、ルシアも住んでいます。しょっちゅう遊びに来ることになりますよ。
あなたの兄上とルシアの結婚が整えば、あなたにとっても再び、実家とあいなりましょう。
休みの日に、帰る場所にもなると思います。
どうか辞めるなんて言わないで下さい」
「いいえ……里心がついた訳ではありません」
蚊の鳴くような声でアリシアは答える。
「どうか了承しては下さいませんか?
推薦状はいりませんので。
私も自分の申し出が非常識なのは重々、承知しています。
それでも辞めることを希望しているのですもの。良い推薦状が頂けるとは思ってはおりません」
「それで? 行く宛はあるのですか?」
アリシアの凄腕を聞きつけ、どこかの家が彼女を引きぬこうとしているのではないかとライアンは疑った。その家には若く誠実な独身の紳士がいるのだ。
そのライアンの妄想に、アリシアは首を振って否定した。
「まだどこも……新聞に広告を出そうと思っています」
「ああ……」
ライアンは絶望的な声を上げずにはいられなかった。
この家庭教師があぶれているようなご時世、新聞広告で募集するなんて無謀すぎる。元の雇い主からの確かな推薦と紹介こそが大事なのだ。
なのにアリシアはその保証を捨てても構わないから、ここを辞めたいと言う。余程のことだが、尚更、理由が知りたくなる。
「理由を! 理由を教えて下さい!
そうでなければ納得できません!」
「理由……あの、私……ミス・アンダーソンとの約束を破ってしまったのです。
だから……家庭教師を辞めないと。そういう約束なので」
「約束……」
アリシア・クロウが約束を大事にする女性だということをライアンは身に染みて知っていた。彼女の決意を覆すのは難しい。
「どんな約束なのですか?」
「そ……それは! 言えません。私とミス・アンダーソンの間の約束です……」
他言はしないと約束はしていなかったが、その内容が「ライアン・ソーンを好きにはならない」というものだったので、アリシアは言えなかったのだ。
「考え直して下さい。どうか……ユージェニーの為にも」
「そのミス・アンダーソンとの約束を守れなかったのです。
私は家庭教師として、あの子にもう、何も教える資格がありません。
一つあるとしたら、約束は守るものだということだけです」
「そうですが……推薦状は出します。
ただ、少し待っていただけますか?」
「……はい。よろしくお願いします」
アリシアが去った後、ライアンは急いで考えを巡らせた。もはや一刻の猶予もなかった。急いで対策を練らないと、彼の幸せは永遠に失われるだろう。
彼はアリシアにミスター・ブレイクへの用事を頼み、レインバード邸から遠ざけると、事の次第を家族全員に伝えた。一同はアリシアがここを去ると知り、信じられない思いになり、出来るのならば引き留めたいという気持ちを一つにした。
「ミス・クロウはユージェニーとの約束によって、家庭教師を辞めると言っている。
どんな約束をしたんだい?」
聞かれたユージェニーは混乱していた。彼女はアリシアに家庭教師を辞めて欲しくなんかなかった。それも自分のせいで? どういうことかさっぱり分からない。最近は、とても真面目に勉強もしているのに、何がいけないというのだろうか。
「約束? そんなものしていないわ!
誰かがアリシア先生を苛めたのね。そいつを辞めさせるべきだわ!」
語気を強めたユージェニーに、呆れたのはルシアだった。
「あなた……約束したじゃない。あんな大事な約束、忘れちゃったの?」
「そんなのしてない!」
「したわ。
ミス・クロウがローズウッド邸に来た時によ。あなたは木の上にいた。
私の大事な伯父さまを誘惑しないでって。
ライアンのことを好きにならないのならば、家庭教師にしてあげるって。
あなた『約束』したでしょう?」
「あ……」
ユージェニーは悪気もなくすっかりと忘れていたのだ。あの頃は……今も伯父さま大好きなのには変わりがないが、好きの性質は随分変わっていた。今はどちらかと言うと、ジョセフ・クロウの方が大好きだ。
まさかアリシアがそんな子どもの戯言を本気にしているなんて。
ソーン家とアンダーソン家の面々は、アリシアの高潔さに感心すると同時に、少し呆れた。
「あの……その約束を破ったということは、つまりはミス・クロウはミスター・ソーンのことを好きになってしまったと言うことですか?」
ウィリアム・アンダーソンがいち早く、アリシアの真意に気付き、笑いを含みながら指摘した。
「あ……」
ライアンは一同に見つめられ、頬を染めた。




