23:恋の可能性
アリシアとライアンは黙々と歩いた。
いとも鮮やかに去って行ったキャロラインに、アリシアは大事なものを踏みにじられた。それになによりも可哀想なジョセフ。母親が自分を見捨てたと知ったら、どんなに悲しむだろう。
「すみません。ミス・クロウ。やはりあなたを巻き込むべきではかなった」
今更ながらライアンは悔いの言葉を述べる。
アリシアの足が止まった。
「いいえ。行って良かったです。朝になって知ったら、私、どうしていいのか分かりませんですもの。
これから夜中かけて考えます。ジョセフに……あの子に、なんと声を掛けるべきか。どう接すればいいのか」
最後の方は涙声になっていた。
「ミス・クロウ……本当になんと言っていいのか……。
あそこまで酷い人間だとは思いもしませんでした」
「私もです。少なくとも母親としての愛情はあると思っていました。
けれども善良なる心を持つ人間は、悪意に溢れた人間の存在を正しく理解出来ないのですわ。
だってそうでしょう? とても想像できませんわ。あんな人」
ライアンの方を振り向いたアリシアの頬に涙が一筋流れた。月の光に照らされた愛しい娘の顔に、ライアンが腸が煮えくり返る思いがした。
「あの女に報いがくればいいのに……馬車が事故を起こすとか、船が……船が……」
そこまで言ってライアンは嗚咽した。またもや他人の不幸を望んでしまった自分を恐れたのだ。キャロラインは確かに殺してやりたいほど憎い。だが、手を下すのは別だ。たとえ想像でも、実現してしまったらなんと後味が悪いだろう。
それでも憤懣やるかたないライアンは、穏やかな方の復讐案を出す。
「それか男に捨てられて困窮すればいい」
「それは困ります」
「……へ?」
アリシアは困ったような顔をしつつもライアンに説明をする。
「そうしたら、戻ってきてしまいますわ。そしてジョセフに迷惑を掛けるに決まっています。
ジョセフは可哀想だと思いますけど、母親に煩わされるのはいけません。
そうでなくても母親のせいでなんの財産も残されず、これから苦労するに違いないのに。
あの人は遠い国に行ってもらって、金輪際、帰ってこないのがいいのです」
どれだけ憎くても遠くでキャロラインの幸せを祈るしかない。
ライアンはその事実に茫然とした。
「ヨアン兄さまは同情出来ません。キャロラインの言ったように、兄はキャロラインの言いなりでした。
そうしないという選択もあったのに、それを選ばなかった。それがこの有様なのですもの」
「私が……私が……もしもソーン家の財産を得た後にキャロラインに再会した時に……」
アリシアに謝罪したいあまりライアンが口走った台詞を、彼女は最後まで言わせなかった。
「いけません!
ミスター・ソーン。それ以上、言ったら、私はあなたを軽蔑してしまうでしょう。
キャロラインの呪いに打ち勝って下さい」
「もしも資産家となったライアン・ソーンが私の誘惑に乗っていたら、少なくともレインバード邸の財産は守られたかもしれないわね」
それがキャロラインがライアンに最後の最後に掛けようとした『呪い』だった。かつて『死神』の『呪い』を掛けた女が、自分がいなくなっても、その影響力を男の上に残そうとした残酷なまでの悪意だった。
「ミス・クロウ……」
「どうか顔を上げて下さい」
「ジョセフの事は私にも援助させてください」
ライアンのせめてもの願いに、叔母もやはり微笑という拒絶で返した。
「なぜですか?」
「ご親切なミスター・ソーン。でも、そこまでしていただく訳にはいきません」
「あなたが私を誘惑してくれればいいのです。いいや、もう十分すぎるほど私を誘惑しているのに、まだ足りないのですか?」と、ライアンは言いたかった。
月の光は清らかにアリシアを照らし出す。
いつもは結い上げている髪の毛は就寝の為に三つ編みにされ、後れ毛がふんわりと彼女の頬や肩に落ちていた。外套の前をしっかりと閉じている小さく華奢な手は小刻みに震えていた。寒いのか、怒りか、緊張しているのか、ライアンには判然としない。
分かっているのはただ、彼女はとても美しいということだけだ。
「私、先に戻ります。誰かに見られたら困りますから」
ライアンの視線の強さと熱さにアリシアもどぎまぎしながら言う。
「……そうですね。先に行って下さい。私はしばらく歩いてから戻ります。
考え事をしたいですし」
「どうかあまり思いつめないで下さい」
出来れば側に居て、彼を支えて慰めてあげたい欲求がアリシアを襲う。しかし、それは許されないことだ。彼女は家庭教師で、彼は雇い主の身内という立場なのだから。
「ありがとうございます。正直に申し上げましょう。あなたが付いてきてくれて良かった」
「……私などが……お役に立ててようございましたわ……」
微笑むライアンにアリシアは頬に伝った涙を拭った。
そうして二人は別れた。
***
翌朝のレインバード邸は大騒ぎだった。奥さまがいなくなった。正しくは男と逃げた。使用人は持ち場構わず囁き合い、騒々しいこと蜂の巣をつついたようだ。
アリシアたちは早速、レインバード邸に駆けつける。夜半にアリシアとライアンがキャロラインに会ったことは当然、伏せられていた。
ヨアン・クロウは寝間着のまま客人を迎えることになった。妻が男と夜逃げしたショックで寝込んだからではない。
「何を着たらいいか分からなくてね。使用人たちもなんだか忙しそうで相談に乗ってくれない。
君たちが来てくれて良かったよ」
キャロラインがいなくなったことを悲しんでいる様子はまったくなく、ただ、困っていた。着る服を考えるのが面倒で、だ。もしも、キャロラインの代わりに誰かヨアンに忠告を与えれば、彼はすぐにご機嫌になるだろう。そして妻のいなくなったことなど、気にも留めないのだ。
使用人たちもキャロラインのいなくなったことを驚いてはいるものの、ほとんどのものが歓迎している。もっと言えば、いなくなって清々しているのだ。
アリシアの情け心がキャロラインを哀れだと囁いた。いなくなっても悲しむ人間も惜しんでくれる人間もいないなんて。
哀れではあるが、それはキャロラインも承知しているだろう。
彼女は夫すらも自分が出て行くのを止めはしないだろうということを知っていたからこそ、夜陰に乗じて逃げたのだ。そうすることで自分が引き留められないという事実を見ないように、いいや、周囲に見せないようにしたのだ。
やはり哀れな人だ。
キャロラインに同情することは彼女を侮辱することだ。ならば心置きなく、アリシアは彼女に同情しよう。
すると、神妙な顔で立っていたアリシアの横から暴風の如き荒さと勢いをもった人物が進み出る。
「何を言ってますの? 服くらいご自分で選びなさいな。
そんなのだから奥さんに逃げられるのよ。信じられませんわ。
なぜそんなに呑気でいられるの?」
「え……」
いかにも面倒くさそうな顔のヨアンにルシアが滔々と捲し立てる。
「え? じゃありませんわ!
なんで怒らないの? 奥さんに裏切られたのよ。もっとこう憎むとか、呪いの言葉を吐くとか、することあるでしょうが!
ああ! ジョセフ! 大丈夫? 悲しいわね、寂しいわね、辛いわね。
私も母が私を捨てて、再婚したからよく分かるわ」
いきなりルシアに抱きしめられ、ジョセフは目を白黒とさせる。
いくら事実でも、そんな風にあけっぴろでにジョセフを慰めるのは逆効果なような気がアリシアはした。自分ならばもっと言葉を選ぶ。
けれどもルシアの歯に衣着せぬ直情の言葉は荒療治ではあったが、ジョセフの心を一気に解放した。
「平気です……なんとなく……分かっていました……僕は母に捨てられたんですね!」
ジョセフはルシアに押しつぶされそうになりながらも、必死で言った。それから、泣き出した。
いくら情のない母親でも、自分になんの言葉もなくいなくなってしまうとは思わなかっただろう。賢いジョセフは悟っていた。母親はもう二度と、帰って来ないことを。だからこそ、お別れの挨拶くらいはしたかった。
ルシアも一緒になって泣き出す。
ルシアの母親の場合は寡婦であり、未だヨアンと結婚したままのキャロラインとは立場とは異なるのだが、それでもルシアは我がことのようにその不貞を憎み、泣きわめき、怒り、また泣いた。
それはあのローズウッド邸に来たばかりの頃の、感情豊かなルシアを思い出させるものだった。
そう……アリシアは思い出してから気が付いた。このところのルシアはかなり落ち着き、感情の起伏も激しくは無く、体調もかなり安定していた。
しばらくすると、案の定、ルシアの肉体は激しい感情の揺れに耐えきれずに、意識を手放した。
***
「申し訳ありません」
ライアンはヨアンに頭を下げると、妹のメアリーだけを連れてミスター・ブレイクの屋敷に戻って行った。
倒れたルシアはレインバード邸の一室で休むことになり、それにアリシアが付き添うことになったのだ。こうしてアリシアは、奇妙な因縁で、生まれた家に帰ってくることになった。
それから一週間、アリシアはレインバード邸に滞在した。ルシアは徐々に回復したものの、ライアンが来ると、あからさまに体調を崩した。
しかし、ライアンがいないと彼女は元気だった。
また、アリシアがミスター・ブレイクの屋敷に戻ると言いだすと同じことが起きた。
つまりは仮病なのだ。
仮病を装って何をしているかというと、ヨアンの服選びを手伝っていた。
「あなたは難しく考えるから難しいと思うのですわ。服選びなんて簡単。簡単。
シャツを着て、ズボンを履けばいいだけじゃないの」
「そうは言ってもね、ミス・ソーン。色合いとか素材とか……」
「そんなの着てみれば分かるわよ。変だったら着替えればいいでしょう?
どうせ暇なんだから。
そうしていればその内、何も考えず選べるようになるわ。
早く着替えて下さいな。私、散歩に行きたいのだから」
散歩に行くといっても二人はいつだって、あの石の上に座ってぼうっとしているのである。
あのルシアが、だ。
アリシアはその散歩に付き合うふりをしてライアンと落ち合い、近況を報告するようになった。
「ではルシアは落ち着いているのですね?」
「ええ……とても」
ヨアンの呑気さが移ったようにルシアは以前ほど激しい感情の起伏は見せなくなっていた。逆にヨアンはルシアに影響されたのか、感情に動きが出てきて、能動的になってきた。
二人は互いの無いものや、過剰なものを分かちあっているように見えた。
事実、ルシアはヨアンの側にいると自分の身を苛むほどの感情が宥められ、静かな気持ちになることを発見した。ヨアンは煮え切らないし、自分の権利を侵害されても怒ることも出来ない。感受性も情の深さも持ち合わせていない人間だったが、なぜか、ルシアは隣に座っていると、心が落ち着くことを発見した。
それから……。
「ミス・ソーンは兄に可能性があるというのです」
「可能性?」
「兄は考えることをひどく億劫がっておりましたが、それは物事全てを難しく捉えすぎるからだと言うのです。だからもっと単純化してしまえば、兄も考え易くなって、長じては複雑な思考もいとわなくなるのだと」
その通り。ルシアはたった一週間でヨアンを良い方向に引き上げ始めた。ヨアン・クロウは激情を持つルシアに尻を叩かれ、考えることを強制された。結果、いやいやながらも考えることをし始めた。ルシアはただ強制するだけでなく、うまくヨアンを誘導し、彼自身に答えを出すようにさせた。それが自信になった。自分でも答えが出せる。思ったよりも面倒でも難しくもないかもしれない。
ヨアンはこだわりがない人間だったので、年下の女性に厳しく自身を教育されていることに抵抗心を抱かなかった。実に素直に言う事を聞く。よって上達も早かった。
「キャロラインには出来なかったことです。いいえ、やらなかったことです」
連れ添う相手が違えば、ヨアンはずっと良くなっていたはずだ。それが十年も無駄に時を費やし、人格を貶められてきたのだ。
「『可能性があるということは良いことです』……そう昔、ミスター・マーチンが言っていました。
人はいくつになっても成長できるのですね。その気さえあれば。そして善き師、友があれば」
アリシアのきっかけはライアンだったのかもしれない。あの早咲きの薔薇の茂みの側で刺さったライアンの棘が、彼女をここまで成長させた。今度はルシア・ソーンが兄を導いてくれる。
感謝の気持ちを込めて呟いた台詞だったが、ライアンはその中に出て来た男の名前だけに反応してしまった。
「エドワード・マーチンなんかの言葉を有難がるのですか? あなたは?」
突然、怒りに燃えたライアンにアリシアは驚き、動揺した。
それを見たライアンは羞恥に頬を染め、「すみません」と言うと、「ルシアを頼みます。また明日」と挨拶して帰って行った。




