22:青空に白い雲。闇に月。
慣れ親しんだ散歩道をアリシアが一人で歩くことはなかった。必ず誰かが付いてくる。
それはルシアだったり、ユージェニーだったり、メアリーだったり、そしてライアンだったり、あるいは全員だったり。
その内、ジョセフに連れられてヨアンもやって来た。最近のキャロラインは客人の資産家に構い切り。彼の予定を考えてくれないので、ヨアンは息子についていくことにしたのだ。
兄まで加わるとはアリシアには意外だったが、ヨアンにとっては散歩は楽しいものとなった。なにしろ、何も考えずにただ両方の足を動かしていればいいのだから。彼にはうってつけの暇つぶしだ。おまけに気分が良くなる気がした。
「ふむ。なんでもっと早く気が付かなかったのかな」
キャロラインが散歩が好きではなかったからだ。
しかし、そのことを指摘する人間はいなかった。
ライアンはかつての恋敵と並んで歩くという不思議な経験をしていた。イブリンがアリシアをそうと認識していなかったように、ヨアンも同じではあったが。
ほんの少し歩いたところで、「私、疲れたわ」とルシアの足が止まる。
「えー、ルシアまた? 全然、歩いてない!」
「ユージェニーは元気ね。……ミス・クロウ、あなたも」
わざとらしい冷ややかな視線を投げかけたルシアはもうここから動かないと、近くのちょうど良い石に座ってしまった。
「私もなんだか疲れたような気がする」
ヨアンはルシアと散歩することを好んだ。なぜならば彼女と歩調が合うからだ。休憩したい時期も同時。自分が言い出さなくてもルシアが代わりに言ってくれる。
この日も、ヨアンはルシアの隣にどっかりと腰かけた。その石はすっかり、二人が休憩する用になっていた。
「私、ここで待ってるからお先にどうぞ」
元気がありあまっているユージェニーが近くに居ては休めもしない。
「分かった! ジョセフ、行こう!」
「待ちなさい! ミス・アンダーソン!」
ジョセフを引っ張っていくユージェニーをアリシアが追う。ユージェニーは随分、良くなったが、それでも、お転婆娘には変わりなかった。さらにそれにライアンが続く。
「本当に元気ねぇ」
ルシアが呆れたように呟き、隣の人物を見た。が、彼はぼうっと空を見ていた。
その横顔をルシアはしばらく見つめ、それから自分も空を見上げた。青くて白い雲が浮いているだけの、ちっとも面白くないものなのに、隣の人間は飽くことなくずーっと見ている。
段々と、白い雲が形を変えていく。
なるほど、ちょっとは面白いかもしれない。
アリシアたちが戻ってきた時、ルシアとヨアンは別れた時と同じように石の上に座り、会話もせずに空を見上げていた。
ただ、本来であるならばヨアン・クロウは悠然と空を見ているような場合ではなかった。レインバード邸は火の車で、借金は嵩み、土地屋敷を手放す寸前なのだ。
キャロラインは何を考えているのだろう。長く幸せな生活を送るには、多少の辛抱が必要なのは賢い彼女には分かっているはずだ。それなのに彼女はまったく節約する様子もなく、全ての財産を使い切る勢いで贅沢にふけっていた。
その理由は知ったアリシアは驚きを通り越し、呆れ果て、ついには、ある種の賞賛めいた気分に陥った。
***
夜更け過ぎ。
アリシアは妙な胸騒ぎがして起き出した。窓の向こうでチラチラと小さな光が瞬いている。
その光のすぐそばに、切り取られた黒い人影があった。
彼女は窓の外に何度、その姿を見たことか。だからすぐに分かった。あれはライアン・ソーンだ。『死神』と呼ばれるに相応しい漆黒の影。
寝間着に外套を羽織り、彼女は外に出た。あの嵐の夜とは大違いのよく晴れた夜だった。空には満月が出て、あたりを煌々と照らし、ライアンの影がより濃く暗く感じられた。
怖くはあったが幼い頃から親しんできた土地だったこともあって、アリシアは迷いなく走った。
昼間のライアンの様子がおかしかったのもあった。彼はアリシアに何か問い掛けたいような、すがるような、つまりはとても卑怯な顔をして彼女を頻繁に窺っていたのだ。それをことごとく無視したものの、彼が困っているのはどうやら確からしい。
「……ミス・クロウ」
ライアンは待ち構えたように立っていた。
「ミスター・ソーン……どうなさったのですか? あの……窓の外から見えて……それで……」
それで? アリシアは自分の衝動的な行動に戸惑った。これではまるで十七歳の頃の愚かで迂闊な自分に戻ったようだ。けれどもアリシアは気になったのだ。ライアンがどこに行こうとしているのか。あちらはレインバード邸。キャロラインのいる屋敷だ。ちりちりと胸が焼きつくような感情がこみ上げてくる。
「気になりますか?」
ライアンは自分を追いかけて来てくれたアリシアを愛おしそうに見た。息をきらし、頬を赤くして自分の為に来てくれた。
卑怯者の彼は、アリシアが気が付いてくれないか未練がましく彼女の部屋から見える所に立っていたのだ。自分に気が付いて外に出てくれたらいいな、という願望を持って、随分、愚図愚図と長くそこに佇んでいた。
果たして彼の努力は報われた。ただし、そうなった場合、彼はアリシアをどう扱うかまでは考えていなかった。それほど、彼の望みが叶う確証はなかったからだ。
「いえ……あの……気になります! でなければ来ません」
アリシアは言い澱んだが、最終的には素直になった。気にならなかったら、ここまで来ないだろう。そしてここまで来たのならば、下手な言い訳ならしないほうがいい。
「私はあなたに助けてもらいたいのです。けれども、あなたにはとても不愉快な次第になるかもしれません。
このままあなたを帰すべきだとは頭では分かっているのですが……」
「私に関わることなのですか?」
「多少は……」
ライアンの歯切れは悪かった。アリシアは少し考えてから言った。
「何が起きているのか聞いてから、ミスター・ソーンについて行くかどうか、決めてもよろしいでしょうか?」
「そうですね。それがいいと思います。あなたが納得する形になるのが一番です」
「まぁ……」
ライアンはいつもアリシアの気持ちを優先する。アリシアはそれに改めて気が付く。
月明かりの下で、このまま二人でダンスに興じた方がいっそ楽しいだろうにと、ライアンは思う。それでも彼は意を決してアリシアに打ち明け話をすることにした。
「実はミセス・クロウから手紙を受け取ったのです」
「キャロラインから?」
以前はアリシアがキャロラインの話題を出し、ライアンを不快にさせたと恐れたが、今度はそれがライアンの身に降りかかっていた。アリシアは剣呑な顔になっていた。元から反りが合わないのだ。当然だ。アリシアが帰ってきても、彼女のことを隣家に厄介になっている家族の家庭教師として扱い、レインバード邸に一度も招待することはなかった。
恐れながらもライアンはアリシアに手紙を差し出した。アリシアは迷った。
「読んで下さい。構いませんよ。この手紙自体にはなんの意味もありません」
読んでみれば分かることだった。手紙にはただ「今宵、お別れのご挨拶をしたいので来て下さい」と書いてあるだけだ。
「お別れ?」
「ええ……私はどこにも行く予定はありません」
「と言う事は……」
お別れするのはキャロラインということになる。
「行きましょう」
迷うことなくアリシアは決断し、ライアンに先んじてレインバード邸への道を急いだ。
と、途中で怪しい馬車が停まっているのが見えた。
ライアンはアリシアの手を取り、自分の方に引き寄せた。未婚の男女にしては密着し過ぎているが、それどころではない。
「まさか盗賊とか?」
「しぃっ……静かに、ミス・クロウ」
アリシアの体温を近くに感じながらライアンは意識を集中する。何か只ならぬことが起きているのは間違いない。何があっても、彼はアリシアを守らないといけないのに、こともあろうに丸腰で来てしまった。
馬車の周りには二人の人影が、苛立ちを見せていた。どうやら誰かを待っているようだ。
ついに三人目がやってきた。彼女……そう、彼女は遅れて来たにも関わらず、悠然としていた。
「キャロライン!」
思わずアリシアが声を上げる。
月の光の下で、キャロラインの赤い唇がゆがんだ。
「まぁ、あなたなの。
ミスター・ソーン。どうしてこの子を連れてきたの?」
「……一人で来いとは書いてありませんでした」
尚もアリシアを側に惹きつけたまま、ライアンは姦婦を睨みつけた。
「普通は一人で来るものよ」
何が可笑しいのか、キャロラインはからからと笑う。それから寄ってきた人影に微笑んだ。
「お待たせ」
「来ないかと思ったよ。我が愛しい人」
人影は例の外国の資産家だった。
「ごめんなさい。でも女は支度に時間がかかるものなのよ」
キャロラインは旅装をしていた。傍らには馬車と男。そしてお別れの手紙。アリシアは信じられない気持ちで問い掛ける。
「どこに行くの? ジョセフは?」
「この人と一緒に海を渡るわ。ジョセフは置いていく。これでいい?」
なんの痛痒も葛藤もなくキャロラインは答えた。
ある程度、その答えを予期していたアリシアですら二の句が継げない。
キャロラインはアリシアではなくライアンに向かって話し始めた。
「この人、私のことが好きなんですって。四年前に初めて会った時から夢中になって、一緒に来てほしいって言うから、そうすることにしたの」
「……あなたという人は……レインバード邸を散々、荒らした挙句、自分は金蔓を見つけて逃げ出すのですね」
「嫌な言い方しないで。そんな風に誤解する人も多いでしょうね。人は誤解する生き物だもの。
あなたはそれをよくご存知で。
だから分かるでしょう? 噂と真実は違うって。
どうか私は真に愛する人を見つけてしまって、仕方がなくここを出ることにしたと皆に言い触らして下さると幸いだわ」
ライアンも言葉が続かない。
目の前の人間はアリシアとライアンの頭では理解出来ない人物だった。
キャロラインは四年前の、アリシアが社交界に披露された年に、音楽会で出会った男と通じるようになっていた。ゆっくりと時間をかけて男を籠絡し、これはいけると思ったのだろう、レインバード邸の財産を躊躇なく使い切った。そして、自分は資産家の男と遠い国に逃げ、またもや贅沢な生活を送る算段をつけたのだ。
どこか自慢気で勝ち誇ったキャロラインは二人を睥睨した。
「ごめんなさいね。あなたのお家の財産、全部、使ってしまったわ。
でも、それはあなたのお兄さまの甲斐性がないのですもの。仕方がないわね。
この人はそうじゃないわ。この人はとっても先見の明があるし、精力的。
あなたのお兄さまとは大違いだわ。ねぇ?」
客人の資産家はキャロラインの見え透いた媚びにも嬉しそうだ。キャロラインを抱き寄せ、手の甲にキスをした。
「そうね……レインバード邸がこうなったのは兄と、そして父の怠惰が原因だわ」
「ミス・クロウ……!」
アリシアの言葉にライアンは驚きの声を上げた。アリシアはライアンから離れると、真っ直ぐにキャロラインに歩み寄った。
「あなたのその判断と決断力は本当に見事ですわね」
「そ……そう……ね」
キャロラインはアリシアの言葉に鼻白み、ライアンは肩をすくめた。ライアンもまた、キャロラインの自己中心もここに極まれり、という性格を憎悪してはいたものの、やり遂げる精神力には感心していた。
ただし、それは賛美ではない。アリシアも同じ思いだった。
「尊敬は出来ませんけどね。ええ、真似したいとも思いませんわ。
あなたはこれからもその要領のよさを活かして上手に生きて行くでしょう。
それでも羨ましいとは思いません。
どうぞお幸せに。『あなたの幸せ』を、お祈りしますわ」
それだけ言うと、アリシアは踵を返して歩き出した。
「ふん!」とキャロラインは言うと、最後にやり残したことをしようとライアンに向かう。それをアリシアは瞬時に悟って、声を上げた。
「許されない恋人同士は新月の闇に紛れて出発するものですわ。こんな満月の夜は似つかわしくない。
それでもこの日を選んだのは、時間がないからでしょう?
ならば一刻も早く、ここから立ち去るべきです。月の光がすべてを明らかにしないうちに、去るべきです」
そうしてライアンに「ミスター・ソーン。ここに居てはいけません。誰かに見られたら、私たちも共犯と見られてしまいますわ」と促した。
なにも逃げ出すキャロラインを親切に見送る義理など、一つもないのだから。
ライアンはアリシアの意図を知り、すぐさま彼女と行動を共にした。二人の後ろで慌ただしい出発の準備の音がし、それから馬のいななきを一つ残して、馬車が去っていく気配がした。
しかし、二人の目は、それを見ることはなかった。




