21:再びミドル州のアリシア・クロウ
ルシア・ソーンは一時は重篤な状態に陥ったが、それを抜けると、見る見る間に回復して行った。彼女の不調の多くは、その精神の苛烈さに由来しているので、落ち着けば体調の回復も早かった。
それに伴い我儘も復活していたが、ローズウッド邸の人間がそれを歓迎し、何を言われても嬉しそうに対応するので、ルシアは馬鹿馬鹿しくなったのか、小さな我儘は鳴りを潜めていく。
ただし、大きな我儘は言った。
ここではない場所に行きたい。
それは仕方がない事だろう。エドワード・マーチンの教区に住んでいたら、嫌でも週に一回は顔を見なくてはいけない。交流も避けられない。
ライアンは新たな居住先を選定する羽目になった。ローズウッド邸を改修したばかりだが、またこの屋敷は放棄されることになる。それくらいの我儘はルシアには許され、ライアンの経済状況もそれを許した。
さて、肝心の移動先だが、ルシアは思いもかけない提案をした。
「ねぇ、ミス・クロウのご出身のミドル州は大変、気候の良い土地とドーソン夫人から聞きましたわ。
そこに行ってみたい。
私、思い出しましたの。ミドル州にはソーン家の親戚筋に当たる人間が住んではいなくて?
確か……えーっと、そうそう、ミスター・ブレイク。
彼の屋敷に逗留させてもらえば、すぐにもこのローズウッド邸を離れられると思うの。
新しい住処はそれから探せばいいでしょう。私、一刻も早くここから離れたい。
この間みたいに、屋敷の改修が済むまで待つなんて、まっぴらご免よ」
「ミドル州! アリシア先生の故郷?
ユージェニーも行くわ! いいでしょう?」
「勿論よ。ユージェニーも一緒に行きましょう。
いくら親戚筋とはいえ、ミスター・ブレイクには初めて会うのだもの。
一人じゃ心細いわ」
ローズウッド邸の我儘娘とお転婆娘は意気投合し、さもこれが決定事項のように頷きあった。
慌てたのはライアンである。
「それは困る」
「まぁなぜ?」
「なぜって、まずはミスター・ブレイクに確認を取らないといけないだろう。
それに……」
ライアンはアリシアを見た。
家庭教師として職を得た娘が、実家の隣に働きに行くなど、さすがに居たたまれないだろうと心配したのだ。
「なにかありますの?」
メアリーが二人の只ならぬ様子に尋ねた。
「ミスター・ブレイクは私の……いえ、レインバード邸の隣人なのです」
「あら」とメアリーは口元を抑えた。となると、あの兄を残酷に捨てた例の家庭教師・キャロラインが住んでいるということだ。それはいけない。
ソーン兄妹は必死でルシアを諦めさせようとしたが、そうすればするほどルシアが意固地になり、ミドル州への移転に拘った。興奮するあまりまたもや体調が崩れそうなこともあり、ライアンは折れた。
そして、せめてアンダーソン家は置いて行こう、との心遣いを示す。
思えば、アリシアを家庭教師に勧誘する時、自分はもうすぐローズウッド邸から去る予定だとライアンは言った。それに嘘はなかったが、ルシアの騒動でのびのびになってしまっていた。このままでは約束を破ることになるのではないか。その場合、約束を大事にするアリシアは自分を嫌いになるのではないか。
そんな不安からライアンは一旦、アリシアから離れるのも致し方なし、と判断したのだ。
しかし、アリシアは果敢にもユージェニーについてミドル州に帰ることを了承した。
雇い主の赴く場所についていくのが自分の仕事だし、また、ルシアのことも気になった。今ではルシアもアリシアを頼りにしてくれているようだった。もう一つ言えば、レインバード邸の様子も気になっていた。母親の手紙からは、あまり良くない話しか聞こえてこない。大袈裟で愚痴っぽい母の取り越し苦労なのか、それとも真実なのか、彼女は確かめたかったのだ。
かくして、ローズウッド邸の面々はそのままそっくりミドル州のミスター・ブレイクの屋敷に移動することになった。
ドーソン夫人はそれを聞き、仰天した。アリシアがいなくなるなんて、信じられないことだ。
ローズウッド邸に手放したものの、それは近くであってすぐに会えるという前提があってこそ。こんな話は聞いていないと、嘆き悲しむこと限りない。
アリシアも涙せずにはいられなかった。
「そんな悲しまないで。ローズウッド邸も改修したことだし、時々、こちらにも滞在することにしましたの。その時は、ミス・クロウも連れてきますから。それに王都でも会えることでしょう」
ドーソン夫人とマーサ、アリシア、そしてイブリンまでも別れを惜しんで涙を流すのを見て、メアリーが明るく声を掛けた。
ドーソン夫人はメアリーの手を取って感謝したが、メアリー本人の心の内は「ミス・クロウはね。ミセス・ソーンになったら知りませんわ」というものだった。ついでに「ああ、また新しい家庭教師を探さなくてはいけないのね。ユージェニーはきっと怒るでしょうけど、仕方がないわ。兄を結婚させる方が先だもの」とため息をついた。
こうして去りがたい気持ちを残しつつ、アリシアは故郷に帰ることになった。
エドワード・マーチンも見事な惜別の挨拶をした。
彼はこれから先もここでイブリンと暮らしていくだろう。イブリンはルシアの件で懲りたものの、喉元過ぎれば熱さを忘れる。しばらくするとすっかり横柄で傲慢さを取り戻した。エドワードはその内、妻の本性を知り、ルシアやアリシアと比べてしまうこともあったが、概ねは恩義に殉じた自分に満足していた。イブリンはルシアが評した様に大層なケチ……倹約家だったこともあり、不自由ではあったが財政的にも安泰に末永く暮らすことになる。
それはもう、アリシアには関係のないことだった。
***
涙で分かれた先には、涙の出迎えが待っていた。
ミスター・ブレイクは可愛い隣人が戻ってきたのを手放しで喜んだ。ジョセフ・クロウもアリシアの帰還を歓迎する為にレインバード邸を抜け出してきていた。
「ジョセフ! まぁ、一年見ない内に大きくなって!」
「アリシア叔母さん、お帰りなさい」
「ただいま……なのかしら? ともあれ、私はミドル州に帰って来たわ。
そうだ、ジョセフ、ミス・アンダーソンを紹介しましょうね。私の教え子。
あなたと年も近いし、仲よくして下さると嬉しいわ。
ミス・アンダーソン? あら、どうしたの? そんなところで……」
珍しいものを見た。あのお転婆娘のユージェニー・アンダーソンが母親の後ろでもじもじしているのだ。メアリーも吹き出しそうだ。
今年十歳になろうかとするジョセフ・クロウは優しい面立ちの少年だった。物腰も態度も上品で、小さな紳士といった佇まいなのだ。
ユージェニーは少年を前に、自分の立ち居振る舞いに自信がなくなり恥かしくなった。これからはもっときちんとアリシア先生に学んで、淑女になろうと決意した。
簡単に言えば、ユージェニー・アンダーソンも恋をする瞬間がやってきたというわけだ。それはとても微笑ましいもので、アリシアもメアリーも歓迎した。ルシアもすっかり落ち着いて、明日からでも早速、アリシアについて散歩を始め、体力をつけようと決心していた。
恋というものは、これがなかなか体力を使うということが分かったからだ。
レインバード邸にはライアンとルシア、アンダーソン夫妻が挨拶に行った。
キャロライン・クロウは再びやってきたライアンにそれはそれは驚いた。しかもアリシアを連れて!
豪勢な食卓で歓迎された四人は、しかし、どこか空虚なものをレインバード邸に感じた。特に往時を知るライアンにはどことなく手入れが行き届かず、退廃した雰囲気を感じずにはいられない。
ミスター・ブレイクによれば、相当、資金繰りが苦しいらしい。それでも客人を金を掛けてもてなすのはキャロラインの自尊心故である。ヨアンは何も考えずにそこに座っていた。さらにもう一人、客人が座る。聞けば外国の資産家とのことだった。外国と言っても、ルシアの住んでいた国よりもずっと遠くの、新興国家に渡り、そこで財を成したと言う。金に糸目を付けず、洒落た格好をして冗談を飛ばしている。それにキャロラインがいかにも楽しそうに笑い声を上げていた。
***
「あんまり楽しくなかったわ。あなたはいいわね。私も今度からは遠慮したいわ。あなたと夕飯を食べた方がまし」
アリシアの散歩にくっついてきたルシアが昨夜の成果を報告していた。
「ミドル州はお気に召しませんでしたか?」
彼女はミドル州を愛していたが、ルシアが気に入らなければ、また転居ということになるだろう。それならそれでいいとアリシアは思った。レインバード邸の現状は確認出来た。思ったよりも悪い。だが彼女に出来ることなど何もないことも分かったのだ。ただジョセフの将来だけは、なんとかしなければならないだろう。彼は苦労するに違いない。ミスター・ブレイクはジョセフを気に入り、援助してくれると聞いた。それに甘えるしかない。いつかミスター・ブレイクの財産はライアン・ソーンのものになるが、ある程度の財産は好きに出来る。それをジョセフの為に残してくれるそうな。
ありがたいことであるが、エドワード・マーチンのように恩義を大事にするあまり、大切なものを捨てて欲しくはない。叔母としては願うばかりだ。あとはせめて自分がジョセフに迷惑を掛けないようにするしかない。
「そんなに落ち込まないで。ミドル州は気に入ったわよ。
素敵な景色に、いい気候。悪くないわ。この近くに適当な屋敷があればいいわね。
ミスター・ブレイクの元にいつまでも居候するのも悪いしね。
あら? なぁに? 私だって人に遠慮することだってあるのよ。
それにしても、まだ歩くの、私、疲れちゃったわ」
「気が付かなくてすみません。少し休んで、それから戻りましょう。今日は十分、歩きましたよ」
元から体力がない上に病み上がりのルシアでは、アリシアについて長く歩くことは出来ない。散歩の時間の大半は休憩に費やされた。
もっとも、アリシアはこの後、ユージェニーを連れて散策する予定もあったので、一日の歩く距離はいつもと変わることはない。彼女は根気強くルシアの『散歩』に付き合った。
ルシアに健康的な趣味が出来たことにソーン兄妹はアリシアに感謝した。彼女は着々と、ソーン家とアンダーソン家に受け入れられ、アリシアも充足した毎日を送れそうだった。
***
ライアンも楽しそうなアリシアの姿を見て、ここに来て良かったと思っていた。ただ、レインバード邸との交流は最小限にしたかった。もともとミスター・ブレイクはレインバード邸と親しくしていなかったのだが、キャロラインはしきりに彼らを呼び出し、歓待した。それは一種、異常だった。まるで破滅に向かってひた走るのに、巻き込もうと言わんばかりだ。
「あなたがいらっしゃると母がまた散財するのです」
ついにジョセフがライアンに訴えることになる。
「君のお母上の招待を断れずに申し訳ない。しかし、断っても歓迎の準備をするようだ。
ならば同じことだよ。もっと根本を見なおさないと」
「そうですね。勝手なお願いでした。申し訳ありません」
聡明な少年は、母親の所業にひどく胸を痛めているというのに、年若い彼では何もできない。
「いいや、君を責めている訳ではないんだ。私に何か手助けできればいいのだけれど」
「ありがとうございます」
甥と叔母はそっくりだった。感謝の言葉を口にしても、その微笑みは拒絶だった。
ジョセフにしてみれば、ライアンはただの知人にすぎないからだ。だが、ライアンのことは尊敬できると思っていた。彼の周りにはあまり頼りになる成人男性がいなかった。ライアン・ソーンとウィリアム・アンダーソンという立派な紳士二人は彼の成長する目標になりそうだった。




