19:様々な思惑
不意に感じたライアンへの想いとアリシアは向き合うことが出来なかった。それは自分の気持ちから逃げ、またもや判断を先送りにする彼女の悪い癖が出たからではない。単に、その暇が無くなっただけである。アリシアは一日の間に、幾人にも相談を持ちかけれていたのだ。
相談事とは、勿論、ルシアとエドワードの恋についてだ。
まずはユージェニー。舞踏会から帰って来たルシアから直接聞いた方が早いと判断した彼女は、その成果を本人に聞きに行った。
「どうしよう……ルシアはすごく青白い顔をしていて、息も絶え絶えだった。
恋に破れて、胸まで張り裂けてしまうんだわ。このまま死んじゃったらどうしよう」
思いもかけずに本気の恋に触れてしまった少女は、その壮絶さに戸惑い、泣き出しそうになっていた。
「アリシア先生は失恋は乗り越えられるっておっしゃってたけど、それはアリシア先生だからよ。
ルシアみたいに繊細な人間には無理なの! なんとかしてよ!」
鈍感で冷酷な人間になった気分がしたアリシアだったが、ユージェニーが自分を信頼してくれたのも分かった。
「どうにかすると言う事は、ミスター・マーチンがとんでもない裏切り行為を働くと言う事ですよ。それをさせてしまったら、私はミス・ソーンのことを軽蔑するでしょう。
ミス・ソーンはミスター・マーチンの為にも辛抱しなくてはいけません。それが真の愛情というものです」
そんな杓子定規な答えにユージェーにが納得する訳がない。尚も、アリシアに食って掛かった。
「でも死んじゃいそうなのよ! ルシアがそんなことになるなんて、絶対に嫌!」
「ミス・アンダーソンは優しい子ね」
たまらずアリシアは教え子を抱きしめた。抱きしめられたユージェニーは声を上げて泣いた。彼女だって、この状況がすでに面白おかしい事態ではなくなってきたのを察していた。そして怖かった。ユージェニーはまだ親しい人間を誰も亡くした経験がない。その最初の人間が、あの若くて美しいルシア・ソーンだなんて想像もしたくない。おまけにその原因が恋煩いだなんて。
「ひくっ。人はどうして恋をするの? 私も大きくなったら、あんな風になってしまうの?」
「大丈夫ですよ。恋をするのを恐れては駄目よ。それは……それは素敵なことなのだから……」
それはアリシア自身にも言えた。彼女はライアン・ソーンに失恋をして、恋に臆病になっている。けれどもユージェニーにまでそうはなって欲しくはない。少なくとも一度は本当の恋を経験しなくては。
***
泣き疲れたユージェニーがうつらうつらし始めたので、昼寝させることにした。
あまり勉強が進んでいないことを謝罪すると、メアリーは笑って許した。
「気にしないで。それよりもあの子は大人しく……えっと、他の子どもよりは騒々しいけど……大分、落ち着いたと思うわ。今はそれで十分。ところで……お客さんが来ているの。あなたに」
「私に、ですか?」
アリシアが聞くとメアリーは頷き、「是非、相談にのってあげて。これはソーン家の名誉にも関わることだから、仕事のことは気にしなくて結構よ。むしろ、これはソーン家があなたに任せる、一大事なの」と居間への扉を開けた。
一体全体、なんのことだろうと思ったアリシアの目に入った姿はイブリン・マーチンだった。
ルシアもかくやという青く思いつめた顔をしている。
「ミス・クロウ……」
そう言って、わっと泣き出した。メアリーは人払いをして、イブリンをアリシアに任せた。
ルシアを慰めたように、ユージェニーを宥めたように、アリシアは黙ってイブリンが落ち着くのを待った。
しばらくしてイブリンは意を決したように顔を上げる。
「あなたはこんなことになって、さぞや気分がいいでしょうね」
「いいえ」
簡潔にアリシアは答えた。その短い言葉に、たくさんの想いを込めて。
「私のこと、馬鹿な女と思っているでしょうね」
「いいえ」
「なら哀れで可哀想とも?」
「いいえ」
「じゃあ、なんて思っているの!」
「なんとも思っていません」
怒りで席を立ちかけたイブリンを、アリシアは手を握ってもう一度座らせた。
「なにを思うことが? あなたはイブリン・マーチン。エドワード・マーチンの妻です。
それは揺るぎのない事実。何を思い悩むことが?」
「だって、見たでしょう? ミス・ソーンが……」
「ええ。でもそれがなんだって言うのでしょう。
ミス・ソーンがいくら何をしようとも、妻はあなたです。
その妻が、毅然としていなくてどうするのですか」
「でも」とか「だって」という風にイブリンはぱくぱくと口を動かしたが、声にはならない。
「あなたが動揺すればミス・ソーンの思うままです。
ミスター・マーチンも確かに揺れ動いているでしょう。しかし、あの人は決して、あなたを裏切るとは思いませんわ」
「なぜそんな風に言いきれるの? 私と主人は愛情があって結ばれたのではないの。エドワードは伯父に言われて仕方がなく私と結婚したのよ。本当は別の女の人と結婚しようとしていたのに。それを知っていたのに、私、邪魔をしたの。彼を誘惑したわ。そして彼はそれに参ってしまったの」
その当の本人に向かって、イブリンは白状した。アリシアは内心、苦笑した。
「仮にそうだとしても、あなたと結婚すると決めたのは誰あろうミスター・マーチンです。
にしても誘惑した? あなたが?」
「ええ、そうよ。こんな不美人が滑稽でしょう?」
「そうね、意外だわ。そういう性格には見えないもの……」
どちらかというと地味で陰湿なイブリンが、どんな風にエドワードを誘惑したのだろう。アリシアは自分が残酷で冷酷な人間だと思った。こんな時だと言うのに、なぜか面白い。
「必死だったの。これを逃せば結婚出来ないと思って。
それに……それに彼って……素敵でしょう?」
「ああ……」
頬を染めたイブリンの告白にアリシアは破顔した。
「何よ。そんな風にお笑いになって。馬鹿にしてるのね」
「いいえ、いいえ。嬉しいのです。あなたはミスター・マーチンがお好きなのね」
「……そうよ。そうね、そうだったわ。なぜあなたが喜ぶの?」
「ミスター・マーチンは私の親戚ですよ。そんな彼が恩義に囚われて不幸な結婚をしていなくて良かったと思って」
「恩義……」
「そう、恩義ですよ。ミセス・マーチン」
彼を縛るとしたら、それは愛情では無い。恩義だ。イブリンの伯父の恩、そしてドーソン夫人の恩。この二つを上手く使えば、エドワードはルシアを諦めるはずだ。もしも、彼をして恩義に逆らうことがあるならば、その時は本当に諦める時だ。つまり、まだ諦めるには早い。
「恩義……」
イブリンは呟く。呟きは次第に確信めいたものに変わった。
「分かったわ。私、やってみます。卑怯かもしれないけど、それがなんだって言うの。
だって私、卑怯な人間なんですもの。そうやって手に入れた大事なエドワードを引き留められるなら、それくらいやってみせるわ」
来たときは真っ青な顔が、真っ赤になっていた。
これで良かったのかしら? アリシアは不安になった。
少なくともイブリンはエドワードを愛している。エドワードに情よりも恩義を大事にしているのだから、イブリンと結婚したままの方がいいはずだろうとは思うのだが。
結論が出ない内に、メアリーがまたもややって来て「ルシアがあなたを呼んでいるの。でも断っても構わないわよ」と言いに来た。
そこで考えがまとまらない内に、アリシアはルシアの部屋に行くことになった。
***
ベッドの上に半身を起こしたルシアは怒っていた。
「イブリン・マーチンが来たのですって? 何をしに?」
「あなたと同じように、恋に悩んでいるのですよ」
「はぁ? あの人が? ミス・クロウ。あなたは知ってるはずよ。ミセス・マーチンは結婚さえできれば誰だっていいのよ。
でも私は違う。あの人じゃなきゃ駄目なの。だったら譲ってくれてもいいじゃないの。
意地が悪くてケチなのよ。あんな人と結婚しているなんて、ああ、ミスター・マーチンはなんて可哀想なの」
あまり興奮させてはいけないと分かっていたが、この件でルシアの気に障らない言い方があるのだろうか。
「そう思うのなら、どうかマーチン夫妻をそっとしておいてあげて下さい」
「あなた……あちらの味方なのね」
なまじ美しいだけに、睨みつける姿が鬼気迫るものがあった。しかし同時に、それほどまでに美しい顔が嫉妬と憎しみにゆがみ、なんて醜いのだろうかとアリシアは思った。先ほどのイブリンの方がまだ見られた。
「誰の味方かと言えば、私は秩序の味方です。マーチン夫妻は結婚しているのですよ。憧れるだけならともかく、人から奪い取ろうだなんて。きっと後悔しますよ」
「あなたのこと、気に入っていたのに。残念だわ」
吐き捨てるようにルシアは言って、手を振る。もうこれで話すことはないらしい。
「私もとても残念です。
ミス・アンダーソンが心配しています。どうか早くよくなって下さいね」
「ミスター・マーチンを諦めろって言うの! この……家庭教師風情が、分かったような顔をするんじゃないわ!! 辞めさせてやる!!」
枕が飛んできた。アリシアは甘んじてそれを受けてから退室した。
心配したメアリーがすぐに寄ってくる。
「悪いわねぇ。こんな面倒なことに巻き込んでしまって。
あなたって人に頼られるのね」
「そうでしょうか?」
立場的に愚痴や不満を吐き捨てやすいだけだ。アリシアはそう思ったが、口にはしない。メアリーは優しげな笑みを浮かべ彼女に頼み込んだ。
「この件では何があってもあなたを解雇するようなことはさせないわ。あなたはユージェニーの家庭教師。アンダーソン家が雇った人ですもの。ソーン家だって口は出させない。
と言うことで、ここはひとつ、私のお願い。兄の話も聞いて下さらない?」
あの四人だけの闇の中の舞踏会の誘いに、メアリーの他意がなかった訳ではなかった。メアリーの穏やかで優しげな表情は、彼女の気持ちを上手に包み隠していたが、メアリーは気が付いていたのだ。
兄はまた家庭教師に惚れたらしい。
一度目は手酷い目にあい、もともと大人しい性格の兄はさらに陰気で憂鬱な人間になってしまった。恋どころか女性に対してひどい不信感を抱くになって、結婚どころか恋愛も出来ない有様だ。それが、ようやく復活の兆しが見えた時があった。しかしそれはすぐに見えなくなり、より一層、辛気臭い男になる。
これはもう駄目だ。
兄はもう二度と、誰も愛さないし、誰とも結婚するつもりはないのではないかと思った。
そうなった場合、彼女の可愛い男の子がソーン家の財産を継ぐことになるのだが、メアリーはそれをよしとしなかった。
兄の不幸の上に立つ我が子の幸運など、なんの意味があるだろうか。大体、その財産も、思わぬことで転がってきたのだ。それがさらに転がるなんてよくない気がした。転がり癖がついた財産は、また転がるかもしれないからだ。そんな財産を受け継ぐのは不吉な気がした。
だが最近、メアリーは兄の様子がおかしいことに気が付いた。なんだかうきうきしているではないか。
慎重に観察した結果、原因はアリシア・クロウという家庭教師にあることが分かった。
ああ、また家庭教師なのか。しかも一度目の家庭教師の義理の妹とは……兄はどんな趣味をしているというのだろう。
そうは思ったが、今度の家庭教師は先の人間とは人格がまったく異なっているのはすぐに分かった。高潔で清廉潔白。あまりにも見事な心持ちすぎて、逆に兄の想いをまったく汲み取らないところが問題だった。少しでも色恋沙汰を見せれば、嫌がって逃げて行きそうだ。兄もそれを知って及び腰なのだ。
そこでメアリーは背中を押すことにした。
メアリーの言われるがまま、アリシアはローズウッド邸の図書室に行くことになる。
作り付けの本棚は立派だったが、蔵書の方はお粗末で、空の棚が目立った。
「すみません。本の多くはブルーム邸に持って行ってしまったのです。父が集めた蔵書です。
ここで朽ち果てさせる訳にはいかなかったので。
もしお読みになりたい本があれば取り寄せましょう。そこに目録がありますよ」
一人、物思いふけっていたライアンはアリシアの姿にそう言った。
アリシアは遠慮なく何冊かの書名を上げたが、それは全て、ユージェニーの教育に必要なものの域を出なかった。あくまでも仕事の件でしかライアンには頼みごとをしないという姿勢の表れだった。




