18:廻るダンス、巡る因果
家庭教師としてローズウッド邸に籠るアリシアにも様々な噂が聞こえてくる。とは言え、あくまでも噂だ。しかし、一度、人の口の端に上がれば、それに戸を立てるのは難しかった。
「ねぇ、聞いた? ルシアがこの間、ハートヒル邸の晩餐にお呼ばれした時、ずっとエドワード・マーチンを見つめていたんですって」
「ねぇ、見た? 今日の礼拝中、ルシアはずっとエドワード・マーチンを見つめていたわね」
「ねぇ、知ってる? エドワード・マーチンがルシアのお見舞いに来て、枕元で詩を朗読してあげたそうよ。有難い説教ではなくて、素敵な恋の詩を」
「ねぇ、アリシア先生?」
今は詩の勉強の時だと言うのに、ユージェニーは本も持たずに足をぶらぶらさせ、話しかけてくる。
「おだまんなさい。ミス・ユージェニー・アンダーソン。授業中ですよ」
「そうよ。勉強中よ。こんな薄っぺらい詩を勉強するよりも、もっと大事なことだと思うの。
ルシアはどうなるのかしら? 奥さんのいる人を好きになってしまったら、どうなるの?
何かあったら、きっと耐えられないわ。可哀想に」
子どもながら真剣な眼差しで見られ、アリシアはこれはよくよく気を付けて答えなければならないと思った。
「大丈夫ですよ。人は恋をするものですが、すべての恋が叶う訳ではないでしょう?
諦めるのはとても辛いことかもしれませんが、乗り越えることが出来ます。そうでなくっちゃいけません。
この詩は薄っぺらくなんてありませんよ。
苦しい恋を、叶わぬ恋を綴ったものです。あたなの好きな素敵な恋の詩でしょう?
失恋は文学に昇華することもあります。凡人はそれを読んで共感し、自らの心の支えとするのです」
「アリシア先生もそういうご経験が?」
「人間、生きていれば恋の一つや二つはするものです」
「え? え? そうなの? アリシア先生も手ひどい失恋をなさったことがあるの? どんな方でしたの?」
「さぁ、忘れてしまったわ。どんな人だったかしらねぇ。多分、素敵な人だったのでしょう。でなければ好きになったりはしないはずですもの」
実際は過去に囚われた哀れで、過去を言い訳にする卑怯な人だったな、とアリシアは思い、なぜか胸がときめいた自分に驚いた。ルシアの情熱的な態度に感化されてしまったのかもしれない。彼女の衝動的で迂闊な恋に関わってはいけないときつく戒め、忘れてしまったはず人の姿を追い出した。それから微笑みながら本を閉じ、期待に満ちたユージェニーに言った。
「詩のお勉強は止めましょう。今日はお歌がいいわね。
私がピアノを弾きますから、ミス・アンダーソンはそれに合わせて歌って下さい」
「えー」
歌ってしまえば減らず口はきけまい、という寸法だ。
それでも難しい文法や表現の勉強よりは、大きな声を出しても叱られない歌の方がユージェニーの性質にはあっていたので、抵抗は少なかった。
『曲に詩を載せたものが歌だもの』。アリシアは巧みにそれを利用して、ユージェニーに難しい詩や外国語を教え込もうとし始めていた。
***
ローズウッド邸の一室から、アリシアのピアノの音と、ユージェニーの元気いっぱいの声が漏れ響く。それをライアン・ソーンは苦しい思いで聞いていた。
手には舞踏会の招待状。と言っても、それほど大きなものではない。ハートヒル邸で行われるちょっとした集まりだ。マーサの本格的な社交界デビューの前の訓練と、ルシアを歓迎する為にドーソン夫人が計画したのである。ドーソン夫人はまだルシアとエドワードの異変に気が付いていなかった。若い婦人の頭数が増えて嬉しいだけである。もっとも、彼女の耳にまで『噂』が届くようになったら、それこそ大問題になるだろう。周りの人間は注意深く気を付けているに違いない。だからこそ、ライアンはこの招待を断ることが出来ない。ルシアの方にもすでにドーソン夫人から直接耳に入っているので、隠してしまうという選択もなかった。
救いは『ミス・クロウも是非にどうぞ』とアリシアも招待されていることだ。もしかしたら、数年ぶりにアリシアと踊れるかもしれない。
いっそ、ルシアの体調が崩れて、彼女だけが舞踏会に出られないことになればいいのに。
そう思ったライアンはまた他人の不幸を望んでしまう自分に胸が潰れそうなほどの後悔を抱く。これで本当にルシアに何かあったらとんでもないことだ。
そこでライアンは舞踏会まで殊更、ルシアを大事に扱い始めた。ルシアは当然のようにその気遣いを受け取り、舞踏会でエドワードと踊れることを夢見て、その日を指折り数えた。
***
二組の恋人になれない男女は、舞踏会でもなかなか組み合うことが出来ないでいた。立場上、互いに最初に踊る訳にはいなかい。ライアンはマーサと最初の二曲を踊り、エドワードは当然、イブリンと踊った。
ルシアは差し伸べられる手に見向きもせずに、じぃっと踊りの輪を眺めていた。アリシアはローズウッド邸に残してきたユージェニーを気にしながらも、ハートヒル邸に足を踏み入れるや否やドーソン夫人に捕まり、そのまま、ダンスではなくおしゃべりの輪に加わることになった。
自分が誘われなかったことに、いたくご立腹だったユージェニーによって、帰って来た頃には子ども部屋のカーテンが引き裂かれているかもしれない。アリシアを行かせまいと、すでにドレスが一着、ずたずたにされていたのだ。
それを見たライアンはユージェニーを咎めなかった。
彼は身内に甘すぎる。アリシアはルシアだけでなくユージェニーの我儘を助長するような態度に呆れた。それでライアンがお詫びとして持ってきたドレスを拒否したのだが、結局は、押し切られてしまった。ローズウッド邸の家庭教師として華美ではないものの、きちんとしたドレスを着てもらわないと名誉にかかわると言われては仕方がない。
地味なデザインだったが着てみると、生地も縫製も素晴らしいものだと言うことがすぐに分かった。
これが伯父が姪を叱らなかった理由である。ライアンはユージェニーに、表向きは舞踏会に行けない代わりにと言いながら、前からねだられていたリボンまで与えたほどである。
自身が選んだドレスを着たアリシアと踊ることが出来ると思うとライアンの心は躍ったが、現実はアリシアには踊る気配はさらさらなく、もっぱら女性陣が他の男性と踊れるようにドーソン夫人を一手に引き受けていた。
しばらくするとエドワードと踊り終わったイブリンがやって来た。夫婦と雖も、ずっと一緒に踊るのは外聞に悪い。
「あらまぁ、お久しぶりねぇ、ミス・クロウ? ローズウッド邸はいかが?」
「ハートヒル邸と同じくらい、よい場所ですわ」
「……そう、それは良かったですわね」
イブリンにはそれまでの勢いがなくなっていた。毎日、ハートヒル邸にルシアが来ては、彼女の自尊心を踏みにじって行くからだ。それはかつてイブリンがアリシアに対して行っていたことと同じやりようだったが、ルシアの方が性質が悪かった。ルシアはエドワードに恋をし、熱烈に崇拝していた。その奥方というものは素晴らしい女性でなくてはいけないと思い込んでいた。しかし、そうではないことに、ただ純粋に戸惑いと疑問を持ち、それをイブリンにぶつけてくるのだ。圧倒的な美貌と若さ、それなりの資産と身分のあるルシア・ソーンに、そんな態度を取られ続けるイブリンはたまったものではない。おまけに、頼りにすべき夫も、この女性の虜になっているのだ。愚痴を言おうにも、夫を取られそうだなんて、認めたくもないし、他人に知られたくもなかった。
「ミセス・マーチンは新しい生活に慣れましたか? なにかお困りのことがあれば、ご相談下さいね。
私も……こちらに来たばかりのときは不安でしたから」
弱ったイブリンに、ついアリシアの情け心が動いてしまった。
もしこの相手がキャロラインだったら、彼女は侮蔑されたと怒ったかもしれない。が、小さなキャロルであるイブリンはアリシアの言葉に涙を流さんばかりに感激した。
「可哀想に。長く親しんだ伯父さまの家から離れて寂しいのね。
ミスター・マーチンは何をしているのかしら。可愛らしい新妻にこんな顔をさせるなんて。
ミスター・マーチンはどこ? 私が説教して差し上げましょう」
ドーソン夫人はイブリンが置かれている状況を深刻には受け取っていなかった。茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せると、エドワードの姿を探した。そして、驚きの声を上げる。
「まぁまぁ、ご覧なさって。ミスター・マーチンはミス・ソーンと踊るようよ。
ミス・ソーンはいつ見ても美しいわね。あれこそ美人というものだわ。
とても優雅で気品があって。ミスター・マーチンは幸せ者ね。あれほどの淑女とは王家の舞踏会でも踊れませんよ。
ほら、イブリン。ご覧なさい。あなたのご主人もいい男っぷりだわ。もう少し、立派な服を着ているともっと見栄えが良くなるでしょうが……ええ、分かってます。分かってますよ。ミスター・マーチンは牧師さまですもの。勿論、相応しい服装だと思っていますよ。
イブリン、ご覧なさいな。まぁまぁ、上手に踊りなさるわね」
舞踏会も中盤となり、様々な男女が組んでいたので、さほど目立った行為ではないのが幸いだったが、ルシアのエドワードを見つめる目、密着度はあからさま過ぎた。耳元で何事か囁いて、くすくすと赤い唇が笑みを浮かべる。エドワードは困惑しつつも、ルシアに魅了される己を律しきれていないようだ。
イブリンは屈辱に打ち震えたが、その脇でアリシアがドーソン夫人の注意を引くべく話題を振っているのに気が付き、それに加勢した。ドーソン夫人にエドワードのことを知られたくない。その一心がイブリンとアリシアの共闘となった。
たった一曲だったが関係者にとって永遠とも思える長さだった。早く曲が終わって、ルシアとエドワードを引き離さないと、醜聞は事実となって広がってしまう。
もう一曲、あと一曲。ルシアはようやく巡って来たエドワードとの踊りを続けることを求めたが、気力がそれを許さなかった。そうでなくてもエドワードと出会ってからのずっと興奮状態の精神、それによって虐げられてきた体力が、ここにきて限界を迎えたのだ。
崩れ落ちるルシアを抱きとめたのは、もっとも近くにいたエドワードでも、ライアンでもなく、メアリーだった。二人を観察していたメアリーはすぐさま行動した。
「お兄さま、すぐに馬車を」
妹に言われたライアンも動く。
「分かった」
ざわつく会場内にドーソン夫人の声が響く。
「あらまぁ、どうなさったの!?
ミス・ソーンは平気なの?」
メアリーが必死でルシアを支えているのを見て、アリシアはイブリンに黙礼すると、助けに加わった。
「どうなの? 何があったの?」
「ご心配をお掛けしましたわ。ドーソン夫人。でも大丈夫です。ルシアはいつもこうなんです。
体力がなくて……ミスター・マーチンにもご迷惑をお掛けしましたわね。支えて下さってありがとう。
ああ、ミス・クロウ。助かるわ」
ルシアがエドワードにしなだれかかっていたのではなく、ふらつきがちなルシアをエドワードが支えていたように印象を操作してから、メアリーはアリシアと協力して玄関ホールにルシアの身を運んだ。
一足先に駆出し、馬車を手配したライアンが二人からルシアを受け取る。
ハートヒル邸とローズウッド邸は歩いて通える距離ではあったが、ルシアの為に馬車を仕立てていたので、すぐに彼女を運ぶことが出来た。行くときはアリシアは遠慮して徒歩だったが、今度はウィリアム・アンダーソンが後ろから歩いて行くことになった。
共に馬車に乗りこんだアリシアにぐったりとしなだれかかるルシアの口元から、その美しい形からは不釣り合いの呪いの言葉が漏れていた。
「ああ、憎らしいわ。どうしてこの身体は動かないの? どうして……せめてあと一曲。二曲は一緒に踊りたかったのに。最初ではなくても、せめて二曲続けて踊りたかったの。
この身体はどうして動かないの?」
それがエドワードでもイブリンでもなく、ライアンでもなく、自分自身に向けての呪い言葉だったことが、アリシアには救いだった。
アリシアはルシアの手を握ることで、彼女を落ち着かせ慰めることにした。向かい側ではメアリーも同じように反対側の手を握っていた。
馬車はすぐにローズウッド邸に着き、ルシアは自分の部屋のベッドに運ばれた。
「ありがとう」
メアリーがアリシアに礼を言ったので、アリシアは恐縮してしまった。さらにメアリーは続ける。
「折角の舞踏会でしたのに、誰とも踊ってはいなかったようね」
「はい。けれども構いませんわ、そんなこと」
これぽっちも惜しいと思っていない口調に、側にいたライアンは天を仰いだ。
「早く帰れて良かったです。今頃、ミス・アンダーソンがやきもきしていることでしょう」
「もう寝てしまっていますよ。早く寝かせるように言い付けておいたの」
ユージェニーの母親であるメアリーはそうアリシアに言い、「そうですか……では、私もこれで失礼します」と言って去ろうとする彼女を引き留めた。
「なんでしょう?」
「折角だからお兄さまと踊って行ったらいかが? 私が伴奏しましょう」
「と……とんでもないことですわ。ミセス・アンダーソン」
「あら、そんな難しく思う事なんてないわ。若い女性がそんな風に着飾ったら、踊らずにドレスを脱ぐものではないと思うの」
他意の無さそうなメアリーの申し出を拒むことは、逆に不審に思われそうだ。
アリシアはしぶしぶそれに従うことにした。あくまでも、メアリーに求められて仕方が無くという姿勢を崩さないままだったが、ライアンは望みが叶った。
伴奏は妹のピアノで、部屋は普段はアリシアがユージェニーを教えている子ども部屋で薄暗かったが、それでも彼は満足だった。メアリーと追いついたウィリアムに、何よりも自分が満足だと言うことをアリシアに悟られないようにするのに骨が折れた。
苦虫を噛み潰したような顔が月の光と蝋燭の炎によって、さらに陰鬱に見える。そんな顔で見下されたアリシアは、「可哀想に。ルシアのことで相当参っているに違いないわ」との感想を抱いた。
かつては分からなかった彼の苦悩の原因が、今ではよく分かっていた。そうなってみると、なるほど彼の過去は悲劇的ではあったが、若い娘が妄想していたよりは残酷なものではなかった。おまけに、キャロラインに騙され、次はルシアに振り回されている。知ってみれば拍子抜けの素顔だ。
なのにどうしたことだろうか。アリシアは真実が明らかになった弱いライアンの方が、なんだかだんだん好ましく見えてきてしまった。




