16:ローズウッド邸のアリシア・クロウ
アリシアがいよいよローズウッド邸に移る日、ドーソン夫人はそれほど惜しんだ様子は見せなかった。なぁに、隣に移るだけだ。またお茶や食事に呼べば良い。
だが、マーサは祖母ほど楽天的な気持ちにはなれなかった。あのユージェニー・アンダーソンの恐ろしいお転婆娘っぷりを見せられて安心できるはずがなかった。
ああ、可愛そうなアリシア先生。ローズウッド邸でさぞやご苦労なさることだろう。このままハートヒル邸にいればいいのに。祖母の招きに応じて、こちらに訪れる時間なんて作れるのだろうか?
歩いて数分の場所に移動する家庭教師との別れを前に、さめざめと泣く孫娘を見て、ドーソン夫人は大袈裟なこと、と笑った。
「準備は出来ましたか?」
「はい。ミスター・ソーン」
荷物はすでにハートヒル邸からローズウッド邸に運んであるので、アリシアは小さな鞄一つだけを持っていた。それを持とうとするライアンを断り、彼女はドーソン夫人とマーサ、そしてわざとらしく残念そうな顔を作っているイブリンに手を振ると、新しい運命に向かって歩き始めた。
彼女の運命は、今日もまた木の上で待ち構えていた。
ライアンは早速、走ったが、今回、彼の救助は求められていなかった。求められていたのは『家庭教師の解雇』である。
「家庭教師なんていらない! その女を辞めさせない限り、私、ここから絶対に動かないの!」
ライアンは困った顔でアリシアを見た。ハートヒル邸での仕事を辞めさせて来てもらったのに、すぐに返すなんて真似は出来ない。予想出来たとはいえ、あまりにも頑強なユージェニーの態度に、説得できる気がしなくなった。
そこに、ついっとアリシアが進み出た。
「ミス・クロウ。申し訳ありません。ご心配なさらずに、今すぐになんとかしますので」
「いいえ。彼女はもう私の生徒ですから、私がなんとかします」
ユージェニーに劣らず頑固そうな顔つきのアリシアは、ライアンにさる申し出をした。
「あの窓のある所に行かせて下さい」
きっぱりと言うと、ユージェニーの父親、ウィリアム・アンダーソンが狼狽した。
「え? ミス・クロウ! それだけは止めて下さい。
前の家庭教師のお嬢さんも同じようなことを願って、そこから木の上に乗り移ろうとしたのです。
途中で足がすくんで動けなくなって、それを助け出すのに、ユージェニー以上に酷い目にあいました。
ユージェニーはそれを見て、手を叩いて笑っていましたよ」
「ご心配なく、ミスター・アンダーソン。
私は淑女です。淑女たる私を評価されてミスター・ソーンは私をミス・ユージェニー・アンダーソンの家庭教師として推挙して下さったのですわ。
そして淑女たるもの、木の上に登ったりはいたしません」
それほど大きな声で言った訳ではないが風に乗ってよく響いた。アリシアが見上げるとユージェニーにも聞こえていたようだ。木の上に登るなど淑女のすることではない、とあからさまに批判され怒っているようだが、動揺しているようにも見える。
「そこから動いてはいけませんよ」
返事がなかったので、今度の声は聞こえたのか、無視されたのか分からなかった。隣で父親のウィリアムがアリシアの代わりに叫ぶ。
「動かないって、言ったでしょう! 何よ! 絶対に、あなたなんて家庭教師として認めないんだから!」
「ええ、絶対に動かないのよ」
「動かないってば!」
ユージェニーは反抗しながらも不安になる。
動いちゃいけないの? 絶対に? 夜になっても?
腹が立つ家庭教師が木の近くの窓辺に辿り着く前に地面に降りてしまうという考えもあったユージェニーだったが、絶対に動かないといった手前、簡単に降りたら負けたような気がする。
下に心配そうに見上げる父親と伯父の姿。使用人たちもシーツや藁を持ちより、『お嬢さま』に何かあった場合に備えている。
太い木の枝に座り足をぶらぶらさせてみるが、今にも息せき切ってやってくるはずの家庭教師は一向に来ない。
何をやっているのか苛々し始めた頃、優雅に階段を登ってきたアリシアがやっとのことで窓から顔を出した。
「おそーい!」
「あら? 待っていて下さったの?」
「そんな訳ないじゃないの! で、そこからどうするつもり? 淑女さん?
淑女は木の上には登らないんでしょ?」
「そうですよ。落ちたらどうするの?」
「そんなことを怖がっていて、私の家庭教師なんて勤められると思ってるの?
やっぱりあなたなんて、首よ、首!」
地団駄が踏めない代わりに足をばたつかせる。ユージェニーの危なっかしい動きに内心、冷や汗をかきながらも態度だけは泰然とアリシアは言った。
「動かないで」
「言われなくてもって! っていってるでしょう」
「本当に? 本当に分かっているのかしら?」
「……な……にがよ!」
アリシアは決意していた。もう結婚の望みなんてものは持たないようにしよう。こうなったら家庭教師としての職務を全うするだけだ。この試練を乗り越えれば自分はまた成長することが出来るかもしれない。これから一人で生きて行かなくてはならないのだから。
だからこそ、ここで首になる訳にはいかない。まして木から落ちるなど論外だ。
「もしも私が木に乗り移ろうとして落ちたらどうなるか? とか」
「大笑いだわね!」
憎まれ口を叩く少女をアリシアは真剣に諭す。
「あなたの大好きな伯父さまは困ったことになるでしょう」
「嘆き悲しむって言うの? 図々しいわね!」
ユージェニーは頬を膨らませて大いに不満の意を現した。それに対し、アリシアは静かに首を振る。
「いいえ。困ることになるわね、と言ったのですよ、ミス・アンダーソン。
もしも私が木から落ちて死んでしまったら、なんと言われるかしら? あなたは想像できて?
雇ったばかりの家庭教師まで殺す……『死神』」
「違うわ! 伯父さまは『死神』なんかじゃない!」
ムキになって叫ぶユージェニーを見て、アリシアは二つの確信を抱いた。
一つはユージェーニーもまた、ライアン・ソーンにまとわりつく悪しき噂を聞き知って、心を痛めいていることだ。
「そうです。でも、事実だけ抜き出してみれば、そう思われるでしょう。
それにね、それほど親しくもない他人だって、目の前で事故にあったら嫌なものです。おまけに嫌な噂まで流されるんですよ。ね? 困ったことになるでしょう?」
静かに問われたユージェニーは押し黙った。
なるほど伯父である男の語った通り、賢い女の子だ。事の深刻さを正しく理解している。
アリシアがユージェニーについて分かったことの二つ目は、少女はライアン・ソーンのことが大好きだということだ。本人は恋愛感情だと思っているが、強すぎる憧れを拗らせているだけだということも分かった。
「ましてや、あなたのように血の繋がった大事な大事な姪にもしものことがあったら……それも自分の目の前で! そんなことになったら、ミスター・ソーンはどれだけお辛い思いをすることでしょう。それはあの嫌な噂よりもずっとミスター・ソーンの心をずたずだにすることなのです」
「……落ちたりなんか……しないもの」
アリシアの理路整然とした説明に、弱弱しい言葉が返ってくる。木の枝ではなく、幹に手が回っているのは落下を恐れているからだ。もう少しだ、とアリシアは思った。
「でもなにがあるか分からないわ。木の枝は突然、折れるかもしれないし、風が吹いて体勢が崩れるかもしれない。だから、危ないことをしてはいけないわ」
「……あなたがいけないの! どうして家庭教師になんか来るのよ!」
最後の悪あがきだったが、だからこそ手ごわかった。
「それは……ねぇ、ミス・アンダーソン。どうしてそんなに家庭教師を嫌うの?
もしかしてあなたの大切な伯父さまが関係していて?」
「……そうよ。 あなたもどうせ伯父さまに色目を使って誘惑するんだわ。 嫌な女」
自分の真意を木の下に知られないようにか、ユージェニーの声は低くなった。
「そんなことしません」
きっぱりと、アリシアは言った。あまりに断定的だったので一瞬、ユージェニーが怯む。
「それに、あなたの伯父さまは好きでもない女性にそう簡単に誘惑されるような方じゃないでしょう?」
過去、ライアンが女性関係で痛い目にあったことをアリシアは知っていたが、それをユージェニーに言うつもりはなかった。だが、少女は断片的ではあったがその過去を知っていた。下に憚りながら小さな声で囁く。
「いいえ、伯父さまは家庭教師が好きなんだって。だからすぐに騙されるかもしれないって。お母さまが言ってたの」
思わずアリシアは噴出してしまった。
哀れなライアン・ソーン。妹と姪に家庭教師好きと思われているんだわ。可哀想だけど、なんだかおもしろい。ああ、おかしいわ。
口元を抑え、くすくすと笑い出したアリシアにユージェニーは戸惑う。伯父ごと自分までも馬鹿にされているような気がするが、あんまり楽しそうなので邪気を感じられないのが不思議だった。
「私のようなものが、あなたの伯父さんをなんとかしようなんて、思ってもみないことです」
「ほ……本当に……?」
問いかけるまでもなく、アリシアがライアンにちっともその気がないことがユージェニーは分かった。
アリシアはついこの間、ライアンの求婚を断ったばかりだった。その経験に裏付けられた言葉は自信と確信に満ちていた。ライアンが聞いたらさぞやがっかりするだろうが、ユージェニーは非常に頼もしく受け取った。
「約束してくれる? 絶対に伯父さまを好きにならないって。
そうしたら、あなたを私の家庭教師にしてあげる」
「勿論ですよ。約束しましょう」
アリシアはまたも深く考えずに約束を交わした。その結果がどうなるかまったく不安には思わなかった。その落ち付いていて美しい顔には、僅かな偽りの陰すら落ちてはいない。
「いいわ。あなたを私の家庭教師にしてあげる」
「良かった。では、木から降りてくれますね」
頷いたユージェニーは息を吸ってから、木の下に向かってすさまじい大声で叫んだ。
「おじさまー! ライアンおじさまー!」
それからアリシアをちらっと見る。厳格そうな家庭教師は目を丸くして、少女の無作法を咎めた。
「淑女たるもの、そのような大きな声を出すものではありません……でも」
「でも?」
つい最近の出来事を思い出したアリシアはユージェニーを叱ることを考え直した。
「常日頃、大きな声を出す訓練をしておかないと、いざという時に、大声が出ないかもしれないわね」
「へ?」
戸惑うユージェニーをしり目に、アリシアも地上に向かって叫んでみた。
「ミスター・ソーン! ミス・アンダーソンが木から降りたいそうです!」
上ずって張りも無く、下に居るライアンに届いているかどうか、といったような『大声』にユージェニーはわくわくする気持ちを抑えて言う。
「あなたそれ、大声のつもり? 全然じゃないの。下手くそね」
「……本当に、難しいものだわ」
眉を顰めて深刻そうなアリシアに、見てて御覧なさいとばかりにユージェニーが叫ぶ。
「おーじーさーまー、木からおりるのー!」
今度の声は間違いなく聞こえたようだ。ライアンがするすると登ってきた。ユージェニーの所までいくと、彼女をしっかりと抱き、それからアリシアを見た。
「ミス・アンダーソンは私を家庭教師として認めて下さいました」
「え……」
「伯父さま、驚いて私を落とさないでね」
ぎゅうっとユージェニーはライアンに抱き着いた。それはまるで彼は私のものよ、と言わんばかりだったが、アリシアがこれっぽっちも痛痒も感じていないので、なんだかつまらないとの腹立たしいのと、それから恥ずかしさがないまぜになって、顔を伯父の胸に押し付けた。
「やれやれ、とんだお転婆娘だ。もう父上や母上を困らせたり悲しませたりしてはいけないよ」
ユージェニーは無言で小さく頷いた。密着していたおかげでライアンにはそれがはっきりと分かった。アリシアを尊敬の目で見てから、姪を傷つけないようにゆっくりと確実に木を降りて行った。
***
「まぁ、あなた……上手におやりになったわね」
窓を閉め、階下に降りようとしたアリシアに冷やりとした声が掛けられた。
「あ……あの失礼ですが、どちら様で?」
「本当に失礼だわね、この家の主人に対して」
消え入りそうなまでに儚げ。白金の髪の毛を結いもせずに背中に垂らし、薄青い瞳は、しかし、炎が燃えているかのように爛々とした、これまでに見たことのないほど美しい女性が佇んでいた。
「主人?」
「ルシア・ソーン。ローズウッド邸の主人。ようこそ、家庭教師さん」
ふふふ、と小さく美女が笑った。




