15:去る者に、来る者
警戒していたものの、サム・ブラックウェルは紳士だった。話題もアリシアに寄せたものを選びしきりに話しかける。景色や草花の話、音楽のこと、などだったが、いかんせん、知識はあっても思い入れが無いためにアリシアの答えに上手く合わせることが出来ず、どれも尻すぼみになってしまい会話は消え去ってしまった。
無言になってしまった二人はついに、ハートヒル邸に向けて戻ることにした。
ああ、良かった、とアリシアは一人、胸をなでおろしたものだが、サムはその隙を狙っていた。
「本当に名残惜しい気持ちでいっぱいですよ」
「そう思って下さると、私もハートヒル邸に勤めるものとして嬉しく思います」
「ええ、みなさんいい方達で……ですが私が一番、残念に思っているのはあなたとお別れすることです、ミス・クロウ」
「……はい?」
唐突な発言にアリシアは虚を突かれた。
「あなたも私の気持ちにもうお気づきかと思いますが……」
「いいえ、まったく! なにか誤解がありますわ。
それにミスター・ブラックウェルはマ……ミス・ドーソンがお好きなはずです」
「ああ、それこそ勘違いです。ミス・クロウ。
私は初めからあなたに魅了されていたのです」
サムはアリシアの前の回り込み、さっと跪いた。
またなの? 男が女に跪くってこんなに安っぽいものだったかしら? 奇しくも短期間に三人の男に跪かれた女はもはや無感動に近い思いだった。
「どうか私を愛すると誓って下さい」
「……そんなことは出来ません」
「なぜですか?」
「なぜって……」
ライアン・ソーンに聞かれた以上に返事に困る質問だ。
「そうではありませんか。私とミスター・ブラックウェルにはこれといった接点はないと思われますけど?」
「ああ、そんなことを気にしていたのですね。
大丈夫。あなたが家庭教師であることなんて気にしていませんよ」
「いえ……そうではなくって」
どうにも噛合わない会話はドーソン夫人とシルビア以上だ。
「あなたはただ、私を愛して下されば良いのです。
簡単なことでしょう?」
なにしろ私は見た目も良いし財産もある。洒落者で頭の回転も良い。
そう言わんばかりの自慢げな顔で、サムはアリシアを見上げた。
アリシアは自分が簡単に男に落ちるような女と思われたことに情けない気持ちでいっぱいになった。
「申し訳ありませんが、それはとても難しいことです」
「謙虚な方ですね。そんなにもご自身のことを後ろめたく思う必要はありません。
はい、とおっしゃって下されば、あなたも私も幸せになれるのですから」
サムはアリシアの手を取り立ち上がり、そう耳元近くで囁いた。
頑ななアリシアにサムは苛立ち始めていた。アリシアにしては当たり前のことなのだが、サムにはそれが分からない。よもや自分がアリシア程度の女にまで拒絶されるとは思っていなかったのだ。これまで彼女の歓心を得られなかったのは、自分が求めていなかったからであり、ちょっと誘惑してみればすぐにものに出来ると自惚れていたのである。
明らかにアリシアを軽く見ている態度だった。
「どうしてそう思われるのか不思議です」
サムを押しやろうとして、それが叶わないことを知ったアリシアは内心、焦り始めた。幸い、人の目はないが、逆に助けを求めることが出来ない。それが不運だった。
「あなたの兄嫁のお話、聞きましたよ」
「……え?」
キャロラインの? とアリシアは眉を顰める。
「あなたもそうなのでしょう?」
「どういう意味ですか?」
「別の誰かが見つかるまで、私と付き合ってみませんか? という意味です。
ミス・ドーソンを出し抜いて。面白いと思いませんか?」
アリシアは絶句し、それから屈辱に打ち震えた。サムの手を振り払い、きっぱりと言う。
「お断りします」
「そうはさせません」
「人を呼びますよ」
「出来るならどうぞ」
アリシアは勿論、そうさせてもらうつもりだった。けれどもいざ、助けを呼ぼうとすると声が出ない。普段から大声など出したことのない彼女は、緊急の際にあって上手く自分の声を扱うことが出来なかったのだ。それにこんな所を人に見られて、変な噂を流されたら困る。サム・ブラックウェルはあることないこと言うだろうし、また、人はそれを信じるだろう。アリシアは家庭教師で、サム・ブラックウェルは立派な紳士だからだ。立派、というのが何を指すのか知らないが―――だ。
その沈黙にサムはにやりと笑う。
「あなたもこんな田舎ではつまらいことも多いでしょう。人知れず、こっそりと愛を育む、なんてなかなか楽しいと思いますよ」
つまりサム・ブラックウェルは自分と結婚するつもりはなく、単なる暇つぶしとしてお相手願おうという寸法らしい。そしてアリシアがそれに対して色よい返事をするような女だと侮られていることも。
アリシアにしてはサムにそんな風に見られるような振る舞いはしていなかったつもりだったが、サムにとっては、そんなことは関係ないのである。お金に困っている娘、と言うだけで、容易に攻略できるという偏った思想を持っているだけであった。
そんなことを知らないアリシアはひたすら自分を責めた。愚かな小娘は、どこまでも迂闊なのだ。
しかし、いつまでもそんな事をしている場合ではない。彼女は選択しなければならない。これまでにない決断の迫られ方だった。こんな物事の決め方なんて、想像もしていなかった。
そこに歩いてくる人影があった。その姿を認めたアリシアの気持ちはいか様だったろうか。
かつてその人影は彼女に『死神』が来たとまで思わせたが、今は『救いの神』であった。
近づいても影のような黒っぽい姿はライアン・ソーンに他ならなかった。
「やぁ、おはよう。ミスター・ブラックウェル。君にしては珍しいね、こんなに朝早く」
珍しいのはやたら爽やかに朝の挨拶をする『死神』の方だ、とサムは毒づいた。
アリシアは一瞬の安堵の後、不安に襲われる。彼は新しい雇い主なのに、誤解をされたらその仕事がなくなってしまうかもしれない。
だが、ライアンはアリシアがまるでそこにいないように視線を合わせない。
「ここで会えて良かったよ。実は君に話しておきたいことがあるんだ。
今、構わないかな?」
「え……今?」
「そう、今だ。良かった、承諾してもらえて。
なにしろ、こんなこと君にしか相談出来なくてね。ハートヒル邸には素晴らしい淑女はいるが、紳士は少ない。君くらいなものだ。
もうすぐ義弟のアンダーソンがくるが、彼の到着を待つ時間がなくてね。
そう言えば、君はアンダーソンに会ったことがあったかな?
なければ紹介しようと思っていたが、でもそうか……君はもうすぐハートヒル邸を離れるんだったね。それは残念だ。
ローズウッド邸にも是非、招待しようと思っていたのだが、改装が間に合わないようだ。
そうそう相談というのはその改装の件なんだ」
あの寡黙な男がドーソン夫人もかくやという脈絡のないおしゃべりを始めたので、サムとアリシアは唖然とした。が、アリシアはライアンがそれとなく自分とサムの間に入り、後ろ手で合図をしたのに気が付いた。その時の彼女の決断は素早くて間違いのないものだった。彼女は後ずさりをしてから、一気に走り出した。
***
ライアン・ソーンがタイミングよく表れたのには勿論、裏があった。いつものようにちょっとだけアリシアに挨拶して言葉を交わそうと目論んだ彼は、彼女がサムに誘われて散歩道の奥に入っていくのを見かけた。アリシアは明らかに嫌そうな顔をしていたが、断りきれないらしい。
賢明な男だと思っていたサム・ブラックウェルは過大評価だったらしい。そう見えたのは単にイブリン・マーチンと同類ではないものの、似た者同士の警戒心が働いただけだったようだ。
すぐさま助けに入るべきだと彼の良心は訴えたが、下心がそれに待ったをかける。
彼女がもっと窮地に陥った時に、颯爽と現れるべきではないだろうか? そうすればアリシアは自分にもっと信頼と愛情を寄せてくれるかもしれない。
そんな企みのせいで、アリシアは大変に不快な思いをするということを、彼は失念していた。ライアン・ソーンは完璧な人間ではない。むしろ弱くて卑怯で陰気臭い男だった。
ただし、その辛気臭い男が意を決して、陽気にサム・ブラックウェルをアリシア・クロウから引き離したことだけは評価されてもいいだろう。いきなり殴りかかったり怒鳴り込んだり、とにかく険悪な雰囲気に持ち込んだ場合、アリシアに陰湿な報復が行われる可能性が大だったからだ。
彼がいけなかったのはタイミングをわざと遅らせたことで、その報いは遠からず受けることになる。
兎にも角にも、アリシアは無事にハートヒル邸に辿り着き、それ以降、一切、サムに接触させる機会を与えることはなかった。
そう、アリシアはまたも学んだのだ。男なんてものは信用ならない生き物なのだ。少しくらい冷たく思われるくらいの対応で構わない。決して油断は見せない。侮られてはいけない。彼女の立場はよくよく気を付けて振舞わないと、自らの不利にしかならないのだ。などなど。
それはサム・ブラックウェルだけでなく、ライアン・ソーンに対してもだ。それどころか、これから雇い主となる彼にはさらに注意する必要があると痛感することとなった。
と言う訳で、ライアンもまたアリシアに感謝はされたものの、思ったような反応を得ることが出来なかった。自業自得である。よって、ここで特に掛ける言葉はない。
***
暇と自尊心を食い潰したサム・ブラックウェルがいっそ清々した顔でハートヒル邸を去り、代わりについにローズウッド邸に住人が戻ってきた。
ドーソン夫人は意気揚々と、早速挨拶に向かうことにした。
ローズウッド邸の女主人たるルシア・ソーンは身体が弱く、旅の疲れからすぐには外には出ることも客人をもてなすことも出来ないらしいが、メアリー・アンダーソンには会える。その娘にもだ。
「まぁまぁ、どんなお嬢さまなんでしょうね。お会いするのが楽しみだわ。
ねぇ、ミス・クロウ? あなたも楽しみでしょう。新しい教え子さん。なんて名前だったかしら。
確か――ユージェニー……」
イブリンは上機嫌でアリシアに語りかけていた。
と、大きな声がローズウッド邸から響き渡った。
「ユージェニー! 今すぐ降りなさい!」
大柄な男性が木の上に向かって叫んでいた。
ハートヒル邸一行が足を速めると木の上に少女の姿があるのがはっきりと見えた。あれがユージェニー・アンダーソンなのは間違いないようだ。下で真っ青な顔でうろたえているのが父親だろう。
ドーソン夫人ですら驚きのあまり声を失うような光景だった。
「お父さまじゃ嫌だって言ったでしょう! ライアンおじさまじゃなきゃ嫌なの! ライアンおじさま以外が登ってきたら、ユージェニー、ここから飛び降りてやるんだから!」
亜麻色の髪の少女はそれはそれは愛くるしい顔立ちで、恐ろしい言動を木の上からしている。
ローズウッド邸からようやくライアンが駆けつけ、事情を飲みこみと、すぐざま姪を助けに木に登る。何度目かの救出劇なのかは不明だったが、彼の手慣れた様子で、これが一度や二度のことではないということが、初めて目にする人間にも簡単に想像出来た。
伯父の首に手を回し頬を寄せ、いかにも得意げな顔で木から降りてきた少女は、驚き呆れるハートヒル邸の淑女を前ににっこりと笑って見せた。
「はじめまして。ユージェニー・アンダーソンですわ」
アリシアの後ろにイブリンが回り込み、とてもじゃないが笑いをこらえきれないと言った様子で囁いた。「あんな子を世話する羽目になるなんて、あなたもまぁ、大変な選択をしたものねぇ」と。




