14:うかつな決断
改めてハートヒル邸に仕える覚悟を決めたアリシアにとってライアンの申し出は思いもかけぬものであり、当惑するものだった。
そんなアリシアが余計なことを考えない内にライアンが畳みかけた。
「これは同情ではありません」
下心はあるがそれを知られる訳にはいかない。ライアンは今こそ、アリシアを騙さなければならなかった。それは三年前よりもずっと難しく、ずっと真剣なものだった。
「実は困っているのです。
あなたに見て欲しいと考えているのは私の妹の娘、つまり私にとっては姪なのですが。
これがなんというか……なんというか……」
「なんというか?」
姪をどう表現すべきか伯父は悩み、仕切り直した。
「姪の名前はユージェニー・アンダーソンと言います。
八歳の賢く可愛らしい娘です」
それならばなんの心配もなければ苦労のしようもないではないか、とアリシアは呆れそうになったが、続く言葉に絶句してしまう。
「ですが、この一年半で九人の家庭教師を追い出してしまったのです」
「まぁ……それは……」
確かにとんでもない娘だ。
アリシアはまじまじとライアンを見た。額に汗をかき、本当に困っているように見える。
「王都ではすでに噂が立ち始め、良い推薦状を持っている家庭教師はわざわざそんな面倒な家の仕事を受けてはくれません。いくら条件を良くしても、どんな理由で辞めることになっても推薦状はきちんとしたものを出すと言っても、さすがに勤めて十日もしないで辞めるという経歴はありがたくないのです。
そろそろ募集に応じてくれるのは若く経験も浅い、とにかくどこでもいいから雇って欲しいという、なりふり構わないような娘さんばかりで、任せるには少々不安なのです。
実際、すぐにユージェニーによって追い出される有り様で……」
「私の経験の無さも同じようなものです」
「分かっています。ミス・ドーソンを一年、教えたくらいではあなたの手腕の評価は出来ません。
が、あなたがきちんとした淑女なことには間違いありません。それは私が保証します。
教育と言いましたが、あの娘に今、最も大事なのは淑女としての振る舞いです。落ち着いた物腰です。この世の摂理であり、目上に対する礼儀です」
「あの……そんなに?」
「大丈夫、私の知っているあなたは八歳の娘に物事を教えるに十分の教養があると思います。
……あなたはとても本が好きな読書家でしたね」
つい昔のことを懐かしむような口調になってしまったライアンはアリシアが即座に警戒心を発動したことに気が付く。
「それになんと言っても、あのドーソン夫人の話し相手として過不足なく勤めあげたではないですか。
その辛抱強い、あるいは、心映えの優れた所があればユージェニーの相手も出来ると思ったのですが、いかがでしょうか?
あなたが勤めるのはあくまで妹夫婦の家です。私の住むブルーム邸ではありません。
ルシア……もう一人の妹がローズウッド邸に落ち着くまではこちらに住むことになりますが、しばらくすればメアリーはメアリーの家に帰ります。
そうなれば、あなたを悩ませるマーチン夫妻の存在も、私の存在も……遠くに追いやれますよ。
そこで十分、家庭教師として働いて下さい」
目にも声にも真摯なものが宿っていた。逃げるようで嫌だったが、逃げた先も決して安穏そうではないことを知ったアリシアはこの仕事を受けることする。
ライアンの「どうかお願いします」と差し出された手を、「分かりました」とアリシアは受け取ってしまった。受け取ってから、これはドーソン夫人にお伺いを立てる案件ではないかしら? と思い立つ。
それはまるで、初めての舞踏会でライアン・ソーンの手を取ったのと同じような考え無しの衝動的な振舞いだった。あの時も、彼女はキャロラインを一瞥することなく、一緒に踊ることを承諾したのだ。
しかし、これは舞踏会で一緒に踊ることと同義ではない。
「ドーソン夫人に許しを得なければなりません。それにマーサのことも」
マーサが軽率な真似をしないように側で見守ると誓ったばかりだった。
「ドーソン夫人には私からも話を通しましょう。
ミス・ドーソンはもう大人ですし、あなたから学ぶべきことはすっかり身についていると思いますが、何か心配でも?」
そう言われるとアリシアは答えにくかった。ライアン・ソーンとサム・ブラックウェル、それから他の男たちに騙されないように、自分が目を光らせていたいなんて。
「心配と言うか……社交界に出るのに私が善き姉代わりとして、何くれとなく支えてあげたいのです」
「祖母や母親という立派な後見人がいるのだから、社交界をたった三年しか経験していないあなたがそれほど必要とは思えません」と言い掛けてライアンは言葉を飲んだ。アリシアはどうも自分の言葉に対して抗弁したくなるようだ。さらに重ねて彼女の考えを否定するような言をすれば、ますます意固地になり、さらには言い訳を考えている最中に自分の申し出の不自然さや強引さに気が付いてしまうかもしれない。
そこで彼は攻略方法を変えた。押して駄目なら引いてみろ。
「分かりました。こちらとしては非常に残念ですが、このお話はなかったことにしましょう。
あなたが『はい』と言って下さったのでつい喜んでしまいましたが、無理強いをしてしまったようで申し訳ありません」
いかにも口惜しそうにライアンは言った。あまりに感情豊かに演じすぎて、アリシアが不審に思うのではないかと途中で気が付く。慎重に彼女の様子を窺う。
「……いいえ! あの、ドーソン夫人が許して下さるのなら、私、このお話、お受けします。
一度、はい、と言ったのですもの。翻すなんていけないことでした」
エドワードが恩義に執着しすぎる男なら、アリシアは約束に拘泥しすぎるきらいがある。
しかし今はそれを逆手にとってライアンは上手くアリシアから約束を取り付けた。約束した以上、彼女は守ってくれるだろう。
となれば、ライアンが次に攻略すべきはドーソン夫人だ。
簡単に行くと高をくくっていたら、意外と口説き落とすのに苦労することになった。
ドーソン夫人はアリシアを手放すのをひどく嫌がったのだ。これはすなわちアリシアの働きや人柄が評価されてのもので、彼女が思い込んでいるように楽に甘んじていなかった証左だとライアンは思った。もしくはアリシアは自然体のままで十分、人を惹きつける魅力がある、と。
けれどもアリシアの件はそれとこれとは別である。なんとしても承諾してもらわないといけない。
ここで不愉快ではあったが彼の助けになったのはイブリン・マーチンのおべっかだった。
アリシアがいなくなっても自分がいるではないか。自分はアリシア以上に夫人にお仕え出来る。それも雇われているからでもなく義務感でもなく、純然たる隣人愛の発露としてだ。自分はドーソン夫人を崇拝している。夫人はアリシアを手放してもちっとも困ることなんてない。
そんな風にドーソン夫人に主張し、夫人をその気にさせてしまった。
ライアンは喜びながらもドーソン夫人の見る目に無さに苛立ち、イブリンの図々しさに軽蔑の気持ちを新たにするしかなかった。
なぜならば、イブリンはライアン・ソーンとサム・ブラックウェルの前ではドーソン夫人については全く異なる態度を見せるからだ。
***
アリシアがレインバード邸からローズウッド邸に移ることに決まった数日後、ドーソン夫人がシルビア、ブラックウェル夫人と連れ立ち、風邪気味というウエスト夫人の見舞いにいっている間、どこから聞きつけたのか、イブリンがライアンとサムのいる部屋に入ってきた。
「あらまぁ、若い紳士がこんな天気の良い日に部屋に籠っているなんて不健康ですよ。
ドーソン夫人のご一行についていかれなかったのですか?」
既婚で一人前と自負しているイブリンは年上の男性二人にも姉気分のように振舞っていた。
サムはつまらなそうに新聞を読んでいるライアンを見てから、イブリンに答える。
「生憎、馬車の都合が付きませんでね。
ミス・ドーソンもミス・クロウと近くの村に。
ウエスト夫人の為に用意していたパイを小作人家族に分かち合うことになりましてね」
それを聞いたイブリンは残念そうにため息をつく。
「あのパイ、そちらにやってしまったのですね。余っているのなら私に下されば良かったのに。
いえね、うちの主人が前にとても美味しいと言っているのを聞いてまして……それで、ですよ。
新婚ですもの。つい主人優先の考えになってしまいますの。お許しくださいね。
今朝も出来ればドーソン夫人にお付き合いしたかったのですが、なにしろ一家を預かる主婦ですもの。そうそう家を空ける訳には行きません。主婦ってやることがたくさんあるんですよ。おまけに教区の方々に早くも信頼され頼られてしまったので、ますます忙しいんですの」
忙しいと言いつつも、日を置かずハートヒル邸に入りびたり、今も勧められもしない椅子に座るイブリンはうそぶく。
それからキョロキョロと狡賢そうに視線を巡らすと声を低めた。
「ミス・クロウがお仕事を変えるそうですよ。どこに行かれるかご存知?
ハートヒル邸で満足していると思っていたのに、意外ですわ。何か嫌なことでもあったのかしら?
まぁね、ミス・ドーソンが社交界に披露されればあっという間にご結婚ということになるでしょう。
そうしたらちょっと居たたまれないかもしれませんわねぇ。
おまけにミス・ドーソンの婚家についていくことも出来ずにドーソン夫人の相手ですものね。
本当にねぇ、ミスター・ソーンもミスター・ブラックウェルも実に親切な紳士でいらっしゃいますわ。
私、常々、そう思って尊敬していますの。
だって、あのドーソン夫人のお相手をきちんとなさっているのですもの。
若い男性には退屈ではありません?」
「あなたも大変よく尽くしていますね」
ライアンはイブリンを肯定も否定もしない。ドーソン夫人のおしゃべりにうんざりすることがあることを認めない訳にはいかないが、時に的外れな指摘や困ったからかいもあったとしても、全体として悪意はない。それに何と言っても愛情深い夫人である。ライアンにとっては小さな頃から慣れ親しんできた人なのだ。
敵意と害意に満ちたイブリンの口車に乗って、その夫人を批判するなんて遠慮願いたいものだ。
「あら、ミスター・ソーン。もったいないお言葉です。
私は慣れておりますから。ずっと老人の相手をしてきたのですから造作もないことですわ。
ちょっとよい気分にすればご機嫌になるものです。簡単なことですわ。
ミスター・ソーンはそこが少し惜しいですわね。今度、私が夫人のお好きなお世辞を教えて差し上げます。
特別ですよ……ふふふ……ミス・クロウには内緒です。
意地悪では無くってよ。だって、あの方、もうここからいなくなるのでしょう?
なら必要ありませんもの。
これからは私がドーソン夫人の世話を一手に引き受けることになるのね。伯父から解放されたと思ったら、今度はドーソン夫人!
ああ、私ったら、どうしてこんなにお人よしなのかしら? でも、伯父も夫人も私を必要としているのですから、それに応えて差し上げなくては。
間違いなくミス・クロウよりもずっと上手にお相手出来ると思います」
「ええ、あなたは今やすっかりドーソン夫人のお気に入りのようですね」
サムもまた、イブリンに同調することはなかった。
意外と賢い男だな、とライアンはサムをそう評価したものだ。
マーサを狙っているサムは、その祖母であるドーソン夫人にいくらうんざりしてはしていても、そう易々と心の内を明かすことは慎んでいた。特にイブリンには警戒をしていた。彼女は到底信用で出来ない。言質を取られ、いざという時にイブリンに足元をすくわれたらたまったものではない。
イブリンは二人の紳士を持ち上げながら自分の苦労を慰めてもらい、一緒になってドーソン夫人の愚痴をこぼし合いたいと狙っていたのだが、そういう訳で、彼女の目論見は果たされたことがなかった。それでも何度もこの話を持ち出すのは、明らかにサムがドーソン夫人に相手に倦んでいるいるように見えるからだ。その観察眼は見事と言えよう。
元より軽薄で享楽的なサム・ブラックウェルはドーソン夫人にも、そして、この田舎のハートヒル邸にも飽きがきていた。肝心のマーサが色よい返事なり態度を見せてくれれば彼の虚栄心も満たされ楽しいだろうに、のらりくらり交わすだけでまったく手ごたえがなかった。
アリシアよりも年下で、サム・ブラックウェルのような見目と調子の良い若い男に言い寄られながらも、マーサ・ドーソンが簡単に彼に落ちなかったのは、彼女自身の知性や品性によるものもあるだろうが、大きな要因はライアン・ソーンの存在だった。十七歳のアリシアにはライアン一択だったが、マーサには天秤にかける男がいたのだ。それが彼女を恋の予感に昂揚させつつも冷静にしたのだ。
そんな訳でハートヒル邸で無為に過ごすサムは不機嫌だった。あと数日で王都に帰るとなってもその気分は晴れない。彼はもともと、つまらない気分でここにやってきていた。気晴らしになるかもしれないからと母親に付き添い、わざわざここまで来てさえも、手ぶらで帰るのか。
***
次の日、そんな鬱屈した気分を持てあましながら、外をぶらぶらしていたサムの視線がある女性の姿を捉えた。
楚々とした後姿はアリシア・クロウ。ハートヒル邸の家庭教師。
サムは足を速め追いつくと、帽子を脱いで声を掛ける。
「やぁ、おはよう」
「おはようございます。ミスター・ブラックウェル」
アリシアは少し意外に思った。こんな朝に散歩をするような人間には見えなかったからだ。
しかも、なぜか当たり前のような顔で隣を歩きだした。
「あなたはいつも散歩していますね」
「そうですね。歩くのは健康に良いですから」
アリシアの最近のお気に入りの散歩道は木立の中に入っていく。故郷のミドル州に似た良い場所ではあったが、茂みや大きな木で物陰が多いことが今日はひどく不安で嫌な気持ちにさせる。
「素晴らしい心がけです。私ときたら、ハートヒル邸ではなまけてばかりでお恥ずかしいです。
そろそろここもお暇するとなって、俄然、この辺りの景色や風景に心ひかれましてね。
名残惜しいのでしょう。よければ私に案内してくれませんか?」
「いえ……私、もうハートヒル邸に戻りますので」
「そんなことは言わずに。
是非、ご一緒させて下さい。あなたのお勧めの場所も教えて下さると、思い出になりますし。
さぁ、参りましょう!」
そう言われるとアリシアは断れなくなった。ハートヒル邸の大事なお客人である。元来の情の深さが性格の弱さとなって表れてしまい、仕方がなく一緒に歩く羽目になってしまった。
サムは隣を歩く家庭教師を盗み見てほくそ笑んだ。
初対面では美しいが物悲しい陰気臭い女性と思ったが、何週間か過ごしてみればそれなりに良く見える。自分も相手もハートヒル邸を離れることが決まっているのだから後腐れもなさそうだ。
暇つぶしと憂さ晴らしに、ちょいとひっかけてみようかと、サムは邪心を抱くに至った。




