13:やってきた花嫁
ドーソン夫人とシルビアは同じおしゃべりでも少々事情が異なった。
二人とも悪気は無く、思ったことを脈絡無く話すことは共通していたが、ドーソン夫人はその年齢と行動範囲から話す内容は昔話の繰り事、今時の若者への苦言と教訓、天気や健康の話に、近所の農家で生まれた赤子の話など、ウエスト夫人やマーサは時に欠伸を堪えるのに必死になるような、ある意味、退屈な話が主だった。対してシルビアの話は王都での流行や人々のたわいもない噂話だった。
シルビアの話に出てくる人物は、宮廷関係者が多くを占め、ドーソン夫人ですらあまり接点がなかったが、名前は知られている人ばかりだったので、ハートヒル邸の面々には刺激的なものとして受け取られた。
それでもごく稀に、共通の知人の名前も出てくる。
そうなるとドーソン夫人はここぞとばかり声を上げ、懐かしがった。
しかしアリシアとって王都での社交界の話題は、昔の失敗や後悔を思い出させるばかりだった。
「では、ミスター・アーチボルトをご存じなのね」
「はい。ミセス・ドーソン」
「ミスター・アーチボルト! まぁ、アリシアったらご存じなんてものじゃないでしょう。
あなたミスター・アーチボルトと一緒に踊ったじゃないの。
ミスター・アーチボルトはあなたにお熱だったわ」
「そんなことありませんわ」
「あら、そうなの?
ミスター・アーチボルトはこの春、結婚なさったようよ」
決してシルビアはアリシアを揶揄する気持ちはなく、ただ事実を述べただけだった。アリシアもそれは分かっていたし、ミスター・アーチボルトが自分に対してそれほどお熱だったとは思ってもいなかった。
「まぁ、そんなご立派な紳士と踊ったなんて、羨ましいですわ。
さすがはレインバード邸のアリシア嬢。
私なんて伯父の世話でずっと家に籠りきりで、そんな華やかな場所とはとんと無縁でしたの。
勿論、伯父の世話をしたり、非力ながら教区の方々の面倒を見ることは私にとっては大きな喜びでしたわ」
「なんて立派な心がけなのでしょうミセス・マーチン!
それは社交界で脚光を浴びるよりも、もっとずっと大切なことですよ」
甲高い、どこか笑いを含んだ声がハートヒル邸の居間に響き、気の良いブラックウェル夫人が、さも感心したように褒めそやす。
「ブラックウェル夫人ほどのお方に、そんな風に言ってもらえて、私、感動ですわ。
社交界にも出れず長く家に籠って婚期も遅れてしまいました。
でもいくら大勢の紳士と踊ったとしても、結婚出来たかどうかは分かりませんし、ましてエドワードほどの相手と出会えたとは思いませんわ。
そう思うと、私ってとても幸運ですわね」
彼女、エドワード・マーチンの新妻、イブリン・マーチンは大げさに謙遜しつつも嬉しさを隠しきれずに、またもや笑い声を上げながら横目でアリシアを見た。その視線には疑いようもなく嘲りの色があった。
人が増えてもアリシアは変わらぬ扱いを受けていた。食卓を一緒に囲み、夫人の会合にも同席を許された。だがしかし、一人で食事をした方が、もしかしたら心安らかかもしれないとアリシアは恩知らずにもそう思わずにはいられなかった。
彼女にそう思わせたのは件のイブリン・マーチンの存在である。エドワードが帰って来て新妻・イブリンを紹介した時、ハートヒル邸は大層な歓迎ぶりだった。アリシアも同じようにイブリンを迎え入れた。エドワードはアリシアの姿を見て多少は動揺したものの、彼女に恨みがましい所がないのを見て残っていた罪悪感を捨て去った。
彼は恩義に厚い人間だった。その恩義によってイブリンを妻にすることになった。彼はイブリンを大事にすることで、師への恩義を果たそうとしている。
アリシアは彼のそんな性格をよく知っていた。初めて会った時からそうだったではないか。エドワードはドーソン夫人への恩義を口にして、しきりに有り難がっていた。
それが正しい行いなのかどうなのかは別として、アリシアのエドワードに対する敬愛の情が失われてしまったのは事実だった。だが元より真剣な愛情によって結ばれようとした二人ではない。利害が一致しただけである。本心からの愛があればもっと怒ったり悲しんだりしたであろうに、アリシアにはその気持ちは起きなかった。
ただただ失望した。エドワードの過剰に恩義を大事にする姿勢と、それ以上に、即決出来なかった自分自身にだ。母親への手紙を書いていなかった時点で、彼女はエドワードを一方的に責めることは出来ないと思った。
そうしてアリシアは失望することにも疲れ果てた。
ライアンの影響を払拭するのに三年かかったが、その経験からエドワードのそれからはもっとずっと早く立ち直れそうだった。
おかげでエドワードとイブリン夫妻に対しても無関心を装うことは造作も無いことだった。
それなのにイブリンがアリシアに執着した。
彼女は二十五歳でやっと結婚相手を見つけ、己の身分を手に入れ勝ち誇った気分になっていた。だが、ハートヒル邸周辺で一体、誰にそれを誇ると言うのだろう。
ドーソン夫人を筆頭に夫人たちは地位も名誉も資産もあった。マーサは未婚ではあるものの、イブリンよりもずっと良い結婚をするに決まっている。となれば、残されたのはアリシアである。同じような身の上でありながらもイブリンは彼女を貶めることで、これまでの鬱憤を晴らそうとしていた。イブリンはドーソン夫人たちには抜け目なくこびへつらい、ついでに自らを売り込み、返す刀でアリシアにさりげなく嫌味を匂わすのを忘れない。
初めの頃はアリシアにひっつき、それとなくクロウ家のことを探っていたこともあった。
イブリンが気になったのはジョセフ・クロウだった。
「どんなお子さんなの? さぞや健康で元気いっぱいなのでしょうね。男の子はやんちゃなくらいでなくてはね。……危ない遊びとかしたりしてお母さまを困らせたりしているのでしょうね? 羨ましいことだわ」
いかにも楽しそうな話題のようでいて、ジョセフの身に何かあって、レインバード邸の遺産が転がり込んで来て欲しいと望んでいるのが透けて見えていた。
ドーソン夫人はそれを聞いて「あなたも早くお子さんが出来ればいいわね」と朗らかに言ったが、アリシアは不吉さに心が冷える気がしたものだ。その内、レインバード邸の内情が知られると、イブリンががっかりしつつ、そうなる原因になったヨアン夫妻を侮蔑し、さらにアリシアを見下すようになった。
***
「まぁ、そのやり方と言ったら、私、感心してしまいそうになるほどお上手なんです。
あなたはこんな喩えをしたらきっとご不快になると思いますけど、私、つい自分は今、レインバード邸にいるのではないかと錯覚してしまうのです。イブリンはキャロラインのようですわ」
アリシアは日課として散歩を欠かしていなかった。ハートヒル邸から牧師館への道は使わなくなり、新しい散歩道を開発して楽しんだ。一人でゆっくりできるアリシアの大事な時間でもあったが、なぜだかライアンがやって来ることも多かった。
ライアンはシルビアが目を光らせていることもあって、あまりハートヒル邸でアリシアに話しかけることはなくなっていた。散歩の時も十分、気をつけて、出会っても挨拶を交わすだけ、ほんの数歩一緒に歩くだけに留めるように心掛けていた。
ただし、今日はそんな気を遣うのは止めにすることにした。ゆっくりとアリシアの横を歩き、彼女の話を聞く。彼女はすっかりエドワードへの関心を失っているようだが、なんということだろう、自分へのそれも無い様子なのだ。でなければ、彼の前でこう易々とキャロラインの名を出すとは思えなかった。
つまり自分にどう思われても構わない、ということなのだ。しかし、ライアンはそれを嫌だと思わなかった。
まず、イブリンの不満を自分に話してくれたことは、少なくとも自分に親しみをを感じ、信頼を寄せてくれている証である。ハートヒル邸ではイブリンの評価は高かった。年老いた伯父を甲斐甲斐しく世話した恩義を忘れない信心深く情けのある娘、それがイブリン・マーチンだからだ。
しかしその底に潜むずる賢さをライアンもまた感じとり、アリシアにその事を話したのだ。「あの人はあなたを傷つけるのが楽しいようで、見ていてとても不愉快に思います」と。その答えがアリシアのキャロラインのようだという発言を引き出した。いい傾向だとライアンは思った。イブリンへの言及だけでなく、それを冗談めかして笑い飛ばす姿は今のアリシアの大人の余裕に加え、昔のアリシアのうかつさに似た無邪気さがあって、とても愛くるしい。
そこでライアンも笑いながら言った。
「こんなことを言ったら、あなたはきっとご不快にお思いになるかもしれませんがね。
イブリン・マーチンをキャロライン・クロウのようだなんて、それは過大評価が過ぎますよ。
似てはいますがね。彼女はもっと小物でしょう。
よくて小さなキャロルと言ったところですね」
「まぁ……」
アリシアは足を止めライアンを見上げた。口元が皮肉っぽく笑っていた。
今までキャロラインのことは『彼女』とか『あの人』としか言わなかったのに、今日はちゃんと名前で呼んだ。恨みがましくもなく賛美する風でもなく、アリシアをからかう為にキャロラインの名前を出したのだ。
それも言い得て妙だ。小さなキャロルだなんて!
つい、アリシアは笑ってしまった。ライアンも声を出して笑い出した。
ひとしきり笑い合った後、アリシアは口を押さえ、周囲を見回した。茂みと木立に囲まれた散歩道は、二人の姿を様々な視線から隠してくれている。
「いけないわ、ミスター・ソーン。
ミセス・マーチンのことをそんな風に言うなんて」
「先に言ったのはあなたですよ、ミス・クロウ。
この話はこの場だけのものです。にしても自分で言っておきながら、これからミセス・マーチンを見る度に思い出してしまいそうです。彼女の前で噴き出さないようにしないと」
「まぁ、怖いわ。ミスター・ソーンには気を付けないと。
私も心の中でどんな風に言われているか分かったものではないですね」
あなたのことはどうか『私の愛しいアリシア』と呼ばせて下さい。
そうライアンは心の中で思ったが、口には出さなかった。
アリシアの中では自分とエドワードは同等の扱いだということが分かっていた。二人ともアリシアを裏切った。
ライアンは自らの心の弱さを呪い、そのせいで一人の女性の運命を少なからず狂わせたことを悔やんだ。
今頃、アリシアは恋にも愛にも、尊敬の念にも絶望しているに違いない。
しかし、出来ることならもう一度、彼はアリシアを愛し、愛される権利を得たいのだ。
ただ、それには時間が必要だろう。すぐに自分を愛する気持ちを持って欲しいなど虫の良い話だ。再会した直後に求婚するなんてさすがにまずかった。おまけにアリシアが見抜いたように彼の愛情には多分に同情と憐憫が含まれていた。それに往時の好ましい印象が加わった結果の求婚だったのだ。
夕食の席でエドワードという存在が彼を煽らなかったらあそこまでみっともない求婚はしなかったはずだ。そのエドワードは最悪の形でアリシアの相手候補としてその座を降りた。
同じくらいの時間、三年は長すぎるが、そうだ、そんなにも長い時間を自分はアリシアを放置していた! 今度はもっとゆっくりと付き合ってアリシアの愛情が自分に向けられるように努力し、出来うるならば再び求婚をしようと決意した。その気持ちは今度こそ真の、そして熱烈な愛情からくるものだった。
「あなたの気持ちが少しは晴れると良いのですが。
ハートヒル邸はあなたにとって居心地の良いものではなくなったのではないですか?」
穏やかな口調でライアンは本題を話始めた。
「多少は。
けれどもドーソン夫人やマーサは変わらぬ親切を示して下さいますし、あれくらいは辛抱しようと思いますの」
「そうは言いますがね、ミス・クロウ。
ああいう毒はじわじわと周りを侵食するものです。私の噂もそうです。最初は小さな囁きでも、それを否定しないでいると次第に大きな声になり、真実になってしまう……」
「ではどうすればいいと?
私、つい最近まではハートヒル邸を出ようと思っていたのです。
その理由と言うのが、今思うと本当に思い上がったもので、『恵まれすぎている』というものでした。
ええ、私ときたらドーソン夫人の与えてくださった居心地の良いハートヒル邸を出て、別の職場を探そうとしていたのです。
それを止めたのがミスター・マーチンの求婚でした。彼は私の行いは間違っていると言いました。
その通りでした。
こうなってみて、私は以前のハートヒル邸がいかに住みやすい場所で、自分が恵まれているのか、よく分かりましたわ。
でもね……」
アリシアは一旦、言葉を切ってライアンを見た。彼は肯定も否定もせず彼女の話を聞く姿勢だった。
「でも私、恵まれているのが恐ろしいのですわ」
胸がちくりと痛んだ。かつてライアンが刺した棘が、またもや彼女を苛んだのだ。
「私はレインバード邸の娘として恵まれた生活をしていました。けれどもそれは薄氷の上の幸福でした。
そのままずっと幸せでいられる保証と財産があればそれで良かったでしょう。
でも私はそうではなかったのです。それを母や周りの人間はそれとなく、時にははっきりと分からせようとしていました。
それなのに、本気で結婚というものに立ち向かわなかった。
キャロラインやイブリンは立派です。やり方がどうであれ、そうしなければ自らの身を立ち行かせることが出来なかったのですもの。
けど私はどうでしょうか。恋に恋をするあまり、気が付いたら多くのものを失っていました。
いいえ、ミスター・ソーン。あなたが謝ることではないのです。それは違います。
だってミスター・マーチンのことはあなたにはなんら責任はないのですもの。私が愚図愚図していたのがいけなかったのですわ。本気で結婚する気だったら、ミスター・マーチンに早く帰って来て欲しいという手紙を書いたはずです。その手紙を読めばミスター・マーチンは恩義を振り切って、誠実さを選んでくれたかもしれません。
なのに私はミスター・マーチンの求婚をああ良かったと漠然と受け入れ、ただ待っていた。
いつもそう。いつもそうなのです、私は」
ライアンはアリシアの気持ちが高ぶっているのを感じ、近くにあった大き目の石に座るように促した。出来れば手を握って落ち着かせたかったが誰が見ているのか分からないので、ぐっとこらえた。
「少しでも恵まれた環境にあると、それに甘んじて努力を忘れる怠惰な人間。それが私なのです。
イブリン程度、そう小さなキャロル程度の存在では、私はまだまだ恵まれていると言えましょう。なにしろレインバード邸には大きなキャロラインがいたのですもの。その存在すら私は危機感を抱かなかった。
勿論、今は違います。小さなキャロルでも十分、私を叱咤激励してくれることでしょう」
「あなたは自分を苦境に置きたがるのですね」
「そうでなければ不安なのです。
レインバード邸の今の財政状況は知っています」
はっとライアンはアリシアの顔を見た。
「母は商家の生まれなので、ああ見えて倹約ややりくりに長けています。それがレインバード邸では大きな役目を負っていたことは今ではよく分かります。
母はなんとかやっていくでしょう。でも私の面倒まで見てもらう訳にはいきません。
ハートヒル邸で家庭教師でもドーソン夫人の話し相手でも、なんでもやらないと」
「あなたは見上げた方だ。思慮深く自己批判に余念が無い」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの胸に刺さった棘が抜けた気がした。
ライアンは自分をもう『何も知らず、何も考えずにのうのうと生きている娘』とは見ていない。
「ありがとうございます」
「ですがそのやり方は健全ではありません。
どうせなら、もっと健全な方法で苦労してみませんか?」
「はい?」
「家庭教師をしませんか? 私が斡旋する家庭で」
ライアンによってアリシアはまた新たな宿題を押し付けられてしまった。




