30.噂話
その後、私はオーレンの手を借りて寮に戻った。
夕食は、病気や怪我などで食堂へ出向けない者用に作られている持ち出し用のものを管理人の女官にもらってきてもらい、部屋で済ませた。
幸いなことに、翌日、目覚めた時には足の具合は随分と良くなっていた。狭い部屋の中を歩き回ってみて勤務可能だと判断し、身支度を整えて部屋を出る。
「……?」
なぜだか、他の侍女達の視線がいつもよりも突き刺さる気がする。
ニコルと二人で王都へ繰り出したのではないかという誤解か、はたまたオーレンやアリアンナ様の前で座り込んで泣くという醜態を晒した事か。或いは元婚約者のアルベルト様に抱きかかえられて運ばれる姿を目撃されたせいか。いずれにせよ、きっと、あらぬ噂を立てられているのだろう。
今後の居心地の悪さを思うと、正直、気が滅入りそうだった。けれど、自分がこれからやろうとしていることを思えば、これしきのことで挫けてなんかいられない。
寮のエントランスまで出たところで、セシルがこちらに近寄ってきた。
「足の具合は大丈夫なの?」
「ええ。歩いても痛みもほとんどないわ」
それはよかった、と微笑んだセシルは何か問いたげな表情をしていたけれど、私にニコルとのことを問い正したりすることはなかった。
他の侍女達の耳目がある中でそんなことをすれば、皆の注目を集め、私を吊るし上げることになってしまう。だから、本当の事を知りたいという気持ちを抑えて、追求しないでいてくれているのだろう。
表面上、いつもと変わらないセシルと、いつもより少しだけゆっくりとした歩調で職場へと向かった。
ジュリア殿下の部屋で仕事に取り掛かると、すぐに殿下から声が掛かった。
「コーデリア。あなた、歩いて大丈夫なの?」
ジュリア殿下が私の怪我のことをご存じだとは思わなかったので、正直驚いた。動揺を誤魔化すように、にこやかに答える。
「殿下のお耳にまで届いていたなんて恐縮です。幸いにも、大事には至らず、歩くのにも支障はごさいません」
「それでも、今日は大事を取って公務への随行はせず、この部屋にいなさい。いいわね?」
公務に随行すれば、それなりの距離を歩くことになるし、殿下が椅子に座っても後ろで立って控えていなければならない。更に、不測の事態が起きれば、その対応のために走り回らなければならないことだってある。
私の足の具合を心配してくれているジュリア殿下の優しさをありがたく受け入れ、今日は一日王太子妃の私室で、なるべく動き回らない仕事をすることになった。
ジュリア殿下が公務へ向かうと、待っていましたとばかりにセシルが私の腕を掴んで衣裳部屋に引っ張り込む。彼女の物問いたげな視線は朝からずっと感じていたので、さほど驚かずに済んだ。
「コーデリア。聞きたいことがあるの」
「ニコル様の事?」
先回りしてニコルの名を出すと、セシルは薄暗い衣裳部屋の中でも分かるくらい顔を赤くした。
「……違うわ」
「え、そう? てっきりその事かと思っていたわ。勿論、昨日はニコル様とは会ってないわよ」
「えっ、そうだったの? ……って、そんなことより、オーレン様とアリアンナ様が只ならぬ仲だって噂が流れているのは知っているの?」
「知らないわ。誰がそんな出鱈目なことを……!」
セシルの言葉に驚いたのは本当だったが、私はそれ以上に大袈裟に驚いてみせた。
けれど、心の内では、やはりそういう噂が流れてしまっているのか、と歯噛みしていた。昨日のあの場面を見ていた者達が噂しているのか、それとも他にそういう噂を立てられるような事が、それ以前からあったのか。
でも、今はそんなことはどうでもいい。その噂は根も葉もない嘘なのだと主張しなければならない。噂話に振り回されて取り乱したり悲しんだりすれば、噂話に信憑性をもたせてしまう。
「オーレンは私の事を愛してくれているのに、どうしてそんな噂が立つのかしら。昨日だって、オーレンは医務局まで迎えに来てくれて、寮まで送ってくれたのよ」
「そうらしいわね。……じゃあ、あの噂は嘘なのね?」
「当然よ。オーレンはアリアンナ様とは旧知の仲だから、第二王子との結婚式を控えて何かと不安のあるアリアンナ様の相談に乗ることもあるのでしょうね。それを、そんな風に邪推する人がいるなんて、困ったものだわ」
余裕ぶってそう答えると、セシルは納得したように頷いた。
「そうよね。良かった。じゃあ、昨日あなた達が広場で何か揉めていたって話も、オーレンがあなたに辛く当たったってことじゃないのね?」
「まあ、そんな話になっているの? あれは、私とニコル様が一緒に外出したんじゃないかって思い込んだオーレンが、戻ってきた私を問い詰めたの。勿論、誤解はすぐに解けて仲直りしたわ」
「あのオーレン様が嫉妬……? 本当に愛されているのね、コーデリア」
意外そうに目を見開いた後、羨ましそうに息を吐いたセシルに笑みを浮かべながら、ここが薄暗い衣裳部屋の中で良かったと思った。明るい所だったら、笑顔に余裕のないことに気付かれたかも知れない。
私が、自分に対するオーレンの気持ちを微塵も疑っていなかったら、今セシルに話した通り、自分はオーレンに愛されているのだと思い込んでいただろう。
けれど、私は気付いていたから。オーレンの、アリアンナ様を見つめる眼差しは、単に第二王子妃となる幼馴染に向けるものではないと。
ただの思い過ごしだと笑い飛ばせればどんなにいいか。けれど、そうやって楽観的でいたことで、私はかつて婚約者を奪われてしまった。だから、どうしても臆病になってしまう。
もし、オーレンとアリアンナ様が何の障壁も無く結ばれるのであれば、オーレンの幸せの為に私が身を引く、という選択肢もあり得なくもない。そもそも王太子殿下の側近で次期宰相候補である見目麗しいオーレンと、婚約破棄された地味な私とでは釣り合うはずもないのだから。
けれど、アリアンナ様は第二王子の婚約者だ。この政略結婚は王権強化の為に欠かせないとても重要な縁組で、王命によって定められている。それなのに、噂話に尾ひれがついて不貞を疑われたら、オーレンは罪に問われ何もかも失ってしまうだろう。
それだけは防がなければならない、絶対に。
終業の鐘が鳴ると、私はいつもの場所に立ってオーレンを待つ。その間、目の前を行き交う人々がこちらに視線を向け、何か言葉を交わしているのを見る度に、オーレンとアリアンナ様の仲を疑う噂話をしているのではないかと心配になる。
だから、行き交う人々の波の中からオーレンの姿が見えた時には、これまでになくホッとした。もしかしたらオーレンはもう私の所に来てくれないかも知れないという、根拠のない不安が払拭された安堵感で笑みが零れる。
いつものように並んで話しながら食堂へ行き、通路を挟んで斜めに向かい合うように座った席で会話を交わす。
いつもは人の多い場所での会話は気恥ずかしさもあって俯きがちになっていたけれど、今日は意識して顔を上げ、いかにもオーレンとの会話を楽しんでいるよう周囲に見せつけた。大袈裟にはしゃぎ過ぎて、時折オーレンが困ったように眉を下げるくらいに。
食事が終わると、いつもなら食堂の前で別れ、私は他の侍女達と寮へ帰るのだけれど、今夜はそうしなかった。
オーレンの腕に縋りつき、どうかしたのかと心配そうなオーレンに、甘えるように何でもないと答えながらも腕は離さないでいた。
そんな私達を冷やかしたり、冷めた目で見ながら人々が各所に散っていく。彼らの口から、私達の熱愛振りが噂となって広まれば、オーレンとアリアンナ様の噂などすぐに消えてしまうだろう。
私の思惑も知らず、オーレンは我儘な子どもをあやすように私の頭を撫でながら、寮まで送ってくれる。
そうやって十日ほどが経過する頃、オーレンとアリアンナ様の噂話は耳にしなくなったとセシルから聞いた。
その代わり、私の淑女らしからぬ大胆なアプローチが、一部の保守的なご婦人達や、密かにオーレンに憧れを抱いている令嬢達のご機嫌を損ねているらしい。
だから、仕事終わりでオーレンとの待ち合わせ場所に向かう途中、その人が声を掛けて来たときも、そういった苦言を呈されるのだと思っていた。
保守的なご婦人というには派手で、恋心を抱いている令嬢というには年齢を重ねているように見えるその女性は、声を掛けてきた瞬間から敵意剥き出しの挑発的な笑みを浮かべていた。
「はじめまして。以前、オーレンとお付き合いしていました、カリーナ・フェンデリックですわ。少し、お話よろしいかしら?」
まさかそれが、過去オーレンと関係を持った女性のうちの一人だとは思ってもみなかった私は、驚きの声を飲み込み、平静を装って応じるだけで精一杯だった。
年齢はオーレンよりもゆうに十歳は年長に見えるそのご婦人、カリーナ・フェンデリックは、五年前に夫を亡くし、夫の財産を相続して気儘に暮らしているらしい。以前、オーレンから貴族社会の人間関係を教わった際、そんな説明を受けたことを朧げながら覚えている。けれど、彼女がかつてオーレンの遊び相手の一人だったということまでは聞いていなかった。
オーレンは私にいろんなことを教えてくれたが、さすがに自分の女性遍歴を語ることはなかった。オーレンが遊び回っていた時分には、私もオーレンに興味など無かったから、どこの誰とお付き合いしていたかなんて正確には知らない。勿論、カリーナがその内の1人だなんて思いもしなかった。
それはさておき、彼女の言うお話の内容か穏やかではないものなのは分かりきっていたので、私達はこの時間人がいない近くの庭園に場所を移した。
「あなた、最近調子に乗り過ぎなのではなくて?」
先を歩いていたカリーナは、振り向きざま、手にした扇子をこちらに突きつけた。
「おっしゃっている意味がよく分かりませんが」
「お黙りなさい!」
敢えてとぼけた返答をした私に、カリーナは容赦なかった。
「あなた、随分とオーレンに付き纏っているそうじゃない」
蔑むようにこちらを睨むカリーナに、いくら私の事が憎くとも、初対面の人間に対してこれは失礼だろうと溜息が出そうになった。
「付き纏うもなにも、私達は正式にお付き合いをしておりますので、許されている時間を共に過ごすのは当然かと」
最近はやや行き過ぎな面もあるけれど、という心の声を飲み込みながら、努めて冷静に淡々と答えると、カリーナは何が可笑しかったのか喉を反らせて笑った。
「遊ばれているくせに能天気なものね」
完全にこちらを見下しているその態度が癪に障った。
そもそも、オーレンの元恋人というだけで、彼女への私の感情は複雑なのだ。なのに、あからさまにこちらを『遊ばれているのに分かってない痛い女』扱いされては、こちらも礼儀なんて考えていられない。
私は、理解力のない相手を馬鹿にするかのように、冷ややかにカリーナに言い聞かせた。
「いいえ、私達は真剣にお付き合いをしておりますのよ」
「馬鹿ね。彼があなたみたいな女に、本気で惚れるはずがないわ」
私より十歳以上は年上であるはずなのに、私より華やかで艶やかなカリーナにキッパリとそう断言され、怯みそうになる気持ちを奮い立たせる。
「認めたくないというお気持ちは分かりますが、これが事実です。私達は、すでに互いの家を生き来する仲なのですわ」
畳み掛けると、カリーナの成熟した美しい顔が歪んだ。かと思うと、そこからひねり出したように勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ハッ。何が何でも、オーレンが自分を愛していると思いたいようだけれど、残念だったわね。彼の心には昔から、思い続けている女性がいるのよ。それこそ、私を含め幾人もの女が心を尽くして慰めても、決して消えることのない愛しい女性が」
カリーナの目が、まるで私の心を見透かすかのように細くなる。
「それは、あなたではないわ」
その言葉に胸を撃ち抜かれたような衝撃を受け、顔から血の気が引いていく。
オーレンを愛し、恋人として側にいたことがある彼女には、やはりオーレンの胸に秘めた思いに気付く機会があったに違いない。アリアンナ様を見つめる彼の表情で、察してしまった私のように。
けれど、それを事実だと認める訳にはいかない。オーレンとアリアンナ様の仲を邪推する噂がまだ人々の記憶に鮮明な今なら、猶更。
私は冷静さを取り戻すために深呼吸すると、呆れたように失笑しながら首を横に振った。
「あなたがそう思われるのはあなたの自由ですわ。オーレンの心を繋ぎ止めることができず、彼を諦める為に、どんな理由をお作りになるのも自由です。でも、それは事実ではありません。オーレンの心を射止めたのが私だというのが、あなたの自尊心を保つには不足なのかもしれませんが……」
乾いた音と共に頬を打たれた衝撃で、最後まで言葉を続けることができなかった。
カリーナは物凄い形相でこちらを睨みながら、苦しげに顔を歪めて肩で息をしていた。頬を叩かれたのはこちらなのに、叩いた側である彼女の方が酷く傷ついた顔をしている。暴力を振るうつもりはなかったのに、思わず手が出てしまったのだろう。私の頬を張った手をぎゅっと握り、目を泳がせている。
私が叩かれた衝撃から回復するより僅かに早く、カリーナは身体を震わせて身の内から湧き上がる感情を抑えるように大きく息を吐くと、嘲笑うかのような笑みを口の端に浮かべた。
「そちらこそ、好きにすればいいわ。いずれ無様に捨てられるのは分かりきっているのだから。その時になって思い知るがいいわ、愛されてなどいなかったのだと」
踵を返して去っていくカリーナを、頬の痛みを堪えて笑みをつくりながら無言で見送った。
敢えて何も言わなかったのではなく、何も言い返せなかったのだ。彼女の言った事は、やがて起こりうる未来なのだから。
ただ一つ、希望があるとしたら。
オーレンがアリアンナ様への思いを断ち切る為に、アリアンナ様以外の女性と結婚する、その相手に私を選んでくれることだ。彼の言葉や言動の端々から、そうしてくれるのではないかという期待は日に日に膨らんでいる。そうなれば、カリーナが言ったような無様に捨てられる未来を回避できる。
オーレンがどう足掻こうが、アリアンナ様と結ばれることはない。ならば、彼がいかにその心に開いた穴を埋め、彼女と共に生きられない人生に幸福を見出してゆくかだ。もしその相手に私を選んでくれるとしたら、これほど嬉しいことはない。
私は彼によって絶望から立ち直ることができ、今、こうして生きていられる。その恩義だけではなく、私はオーレンを守りたい。
カリーナは、オーレンが胸に秘めている相手の名をはっきりと口には出さなかったが、私以外にもその思いを語らないとも限らない。自分がオーレンの遊び相手で終ってしまった悔しさを紛らわすため、無責任な噂を流し、そのせいでオーレンが窮地に立たされることになったら。
そんな未来を想像するとゾッとして、叩かれた頬が余計に染み入るように痛んだ。




