29.不安
「さて、どうやって寮まで戻りますか?」
アルベルト様が治療室から立ち去った後、入れ違いに戻ってきた医師にそう問われ、さあ、どうしましょうか? とため息を吐いた。
「自分で歩いて戻るのは、やはり良くないでしょうか」
「無理をなさるのは良くないですね。悪化する可能性もありますし、その高さの踵の靴では医師として許可できません」
床に置かれた右の靴を指さされ、はっきりそう断言されてしまった。
「では、踵の低い靴なら歩いてみても問題ないでしょうか」
「んー。まあ、お勧めはしませんが」
渋々といった口調の医師の気持ちが変わらないうちにと、私は医務局に戻ってきていた女官に呼びかけた。
「すみませんが、踵の低い靴を貸していただけませんか」
「あなたと私とでは靴のサイズが違いますし、あなたに合う靴を探してくる間、ここを離れる許可がいただけるかどうかですが ・・・」
女官に問いかけるような視線を向けられ、医師は苦々しい笑顔を浮かべた。
「いつ急患が運ばれてくるか分かりませんので、私も彼女も安易にここを離れるわけにはいかないのですよ。誰か迎えに来てくれる人はいないのですか?」
医師に、アルベルト様に寮まで送ってもらっていればよかったのにと言いたげな口調でそう言われ、不躾なお願いをしたことに気づいて頭を下げた。
「無理なお願いをして、申し訳ございませんでした。王都警備の仕事を終えて王宮の騎士寮に戻ってくる兄に連絡を取り、迎えに来てもらおうと思います。その時刻までここで待たせていただいても構わなければ、ですが」
医師と女官が顔を見合わせ、その表情から反応が芳しくないことを察して、これも駄目か、と小さく溜息を吐いたときだった。
「失礼する。入室しても構わないだろうか」
「……っ」
その聞き覚えのある声に、驚きのあまり思わず息を呑んだ。
「オーレン?」
医務局の入り口に立ったオーレンは、医師がどうぞと頷いたのを見て近づいてくる。
その姿を見つめながら、私は目を見開いたまま固まっていた。最後に合ったのがあの状況で、まさかオーレンが私に会いに来てくれるとは思っていなかったからだ。
椅子に腰掛けたままの私が手を伸ばしても届かない位置でオーレンは立ち止まると、医師に私の状態を問い掛ける。医師に説明してもいいか、と問われ頷くと、医師は治療が終わった際に私に言ったことと同じ内容の説明を繰り返した。
「分かりました。では、彼女は私が寮まで送って行きます」
えっ、という驚きの声を飲み込んで、オーレンの横顔を見上げる。医師が、助かったと言わんばかりの嬉しげな声で、よろしくお願いしますと笑いながら答える声を聞きながら、オーレンの表情を凝視してみるものの、この位置からよく顔が見えないせいなのか、彼の真意を推し量ることはできない。
アリアンナ様の前であんな失態を晒した私に、オーレンは怒ったり呆れたりしていないのだろうか。
その時、入り口から急患を告げる声が響き、医師と女官が慌ただしく動き出す。
「コーデリア。ごめん、失礼するよ」
不意に耳元でオーレンの囁く声がして、次の瞬間、ふわりと身体が浮いた。驚きの悲鳴を飲み込むのと同時に、オーレンの爽やかな匂いと温かな体温に包まれていた。
「ここにいては、急患の治療の邪魔になるから。少し我慢して」
急患が運び込まれてくるのに、私がいつまでも診察室にいたら邪魔になるからすぐに移動しなければならない。尤もな理由を言っているのに、何故オーレンはこんなに申し訳なさげに眉を下げて私を見つめているのだろう。
訳が分からないまま、私は少しでもオーレンの負担にならないよう大人しく身を任せた。
医務局から出たオーレンは、植木の側にあるベンチにそっと私を降ろすと、私と視線を合わせるように膝を折った。
「先程はすまなかった」
いきなり謝罪の言葉を口にしたオーレンに、何に対しての謝罪だろうと首を傾げる。ふと、オーレンの瞳が潤んでいるように見えて、ドキッと胸の鼓動がはねた。
「あなたが王宮を出てニコル・ライドネスと密かに会っていると想像しただけで、頭に血が昇ってしまった。こんな怪我までさせてしまうなんて、本当に申し訳ない」
そう言って頭を下げるオーレンを見つめながら、そう言えば彼が私を見つけて追いかけてきた時、そのようなことを責めるような口調で言っていたことを思い出した。
けれどあの時は、私もアリアンナ様と語らっているオーレンの姿を見て冷静ではいられず、オーレンの腕に手を回したアリアンナ様への怒りで完全に我を忘れていた。あの時の自分の失態を思い出し、今更ながらに冷や汗が噴き出す。
「いいえ。元はと言えば、あなたに黙って外出した私が悪かったんだわ。リリィ嬢に会いに行くと言ったら、きっと反対されると思ったから」
「……リリィ嬢に会いに行った?」
顔を上げたオーレンの表情が、みるみる険しくなっていく。その表情から、やはり私の予想は的中していたようだ。
「反対したでしょう?」
「そうだね。でも、どうしてもと言われていたら、私も同行すると答えていただろうけれど」
「……それも、嫌だったの」
私の返答に、オーレンの顔が不安げに曇る。
私が彼にそんな顔をさせているのかと思うと罪悪感が沸き上がってくる。と同時に、彼の気持ちがアリアンナ様だけに向けられているのではなく、私にも多少なりとも関心を抱いてくれているのだという確信が持て、ほの暗い悦びめいた感情も込み上げてくる。
けれど、本当にオーレンを愛しているなら、彼の心を弄ぶような真似をして喜んではいけないのだと、自分を戒めるように拳を握り締めた。
「私、リリィ嬢を前にして、冷静でいられるとは思わなかったの」
正面にあるオーレンの目を見つめながら、冷静に自分の思いを伝えようと気持ちを整える。
「過去のいざこざは勿論の事、アルベルト様と別れてすぐに新たな恋人と暮らしているという噂も信じ難くて、彼女のことがどうしても許せなかった。だから、私と会って話がしたいという彼女からの手紙を受け取った時、どうしても一言文句を言ってやりたいと思った。でも、あなたに相談したら反対されるか、一緒について行くと言われると思ったから黙っていたの」
「どうして私が一緒について行くのは嫌だったんだい?」
「……、女同士で罵り合う醜い姿を見られたくなかったの」
そう答えてしまってから、それでは実際に罵り合ったと白状しているようなものだと気付いた。恥ずかしさのあまりオーレンの顔を見ていられなくなり視線を伏せると、オーレンの笑いを噛み殺したような吐息が耳をくすぐる。
「ふーん、そう。だから、ニコルと一緒に?」
「いいえ。あなたに誤解を与えたくなかったから、彼には同行すると言われたけれど断ったの。家からナタリーに来てもらったわ」
どうしても信じられなければ、ウィンスバーグ伯爵家に問い合わせて貰えれば、と続けようとしたけれど、不意にオーレンが額に手を当て、がっくりと項垂れてしまったのに驚いて言葉を飲み込んだ。
「あの、オーレン……?」
「……それなのに、俺は勘違いしてあんな真似を」
独り言に近いオーレンの呟きが耳に届いて、その言葉の意味するところを察して頬が熱くなる。
私がアリアンナ様と会話を交わしているオーレンを見て不安に駆られたように、オーレンも私とニコルの仲を邪推して不快な思いをしていたのだろう。
もし、オーレンが私に何の情も抱いていないのなら、人目のある王宮内で、あんなふうに前後の見境もなく私を問い詰めたりしないのではないか。
アルベルト様が言った通り、オーレンが私の事をアリアンナ様との関係を隠蔽する為の存在でしかないと思っていたら、きっとこんな風に嫉妬することはない。それとも、それも全て計算づくでの演技なのだろうか。……分からない。オーレンが私にくれる言葉や示す態度を全てそのまま信じたいのに、信じて裏切られることが怖くて、疑うことで自分の心を守ろうとしてしまう。
そんなふうに自分の事ばかり考えている私に、オーレンは真摯に頭を下げる。
「あなたを疑ったばかりか、こんな怪我まで負わせてしまって。本当にすまなかった」
「気にしないで。こんなの全然大したことないわ。それに、あなたに黙って勝手な真似をした私が悪いの」
膝を折ったままのオーレンに手を伸ばし、そっと彼の柔らかな髪を撫でた。
そんな私の行動が予想外だったのか、オーレンがハッと息を呑んで顔を上げる。いつもの自信に満ちた表情はそこにはなく、彼は迷子の子供が親の姿を求めて彷徨っているような不安な目をしていた。
「……コーデリア。私のことが嫌になったのではない?」
「え?」
いきなり何を言うのかと訝しんで首を傾げると、オーレンは戸惑った表情を浮かべながらポツリと呟いた。
「あの時、触らないでと言われたから。私に触れられるのさえ我慢ならないほど嫌われてしまったのかと」
思わぬ言葉に目を丸くしている私を、オーレンは審判を待つ者のような表情で見つめている。
記憶を辿り、自分がいつそんなことを口走ったのかに思い至った私は、思わず吹き出してしまった。
「あれは、あなたに言ったのではないわ」
「え?」
「……その。アリアンナ様があなたの腕を掴んでいらしたから」
まさかオーレンが、あの言葉を自分が言われたと受け止めていたとは思ってもみなかった。
いや、エリクス殿下が現れるまで、アリアンナ様はオーレンの腕から手を離さずにいたから、もしかしたら彼女も私がオーレンにそう言ったと認識していたのだろう。
つまり、私の言い方が悪かったのだ。
「ごめんなさい。勘違いさせるようなことを言って」
あの時、オーレンが急に私の手を離したのが、私を疎ましく思ってではなかったことが分かって、ほっと胸を撫で下ろす。
ふと、オーレンの手が私の頬にそっと触れた。私の傍らに腰を下ろした彼に壊れ物を扱うように優しく抱き寄せられ、温かな腕の中に包まれる。じんわりと心の奥から身震いするような幸せが込み上げてきて、私はその瞬間だけ全てを忘れてその幸福感に身を委ねた。
「よかった。私はてっきり、あなたに嫌われてしまったのだと思っていた」
「そんな事、ある訳ないじゃない」
この光景を傍から見れば、私達は幸せな恋人同士にしか見えないだろう。
けれど、心の片隅に巣食った不安はすぐに私の頭の中で膨らんでいく。
本当は、オーレンに訊くつもりでいた。彼がリリィ嬢の取り巻きになっていた本当の理由を。
オーレンが本当に愛していたのはアリアンナ様で、彼女の婚約者であるエリクス殿下をリリィ嬢に奪われないよう画策していたのではないか、と。私の推測はほぼ当たっているだろうと思うが、一度オーレンに確認しておきたかった。
けれど、エリクス殿下の護衛であるアルベルト様がオーレンとアリアンナ様の仲を確信している今、私は何も知らない振りを貫き通した方がいいのかも知れない。下手に過去をほじくり返して彼の本当の気持ちを追求したら、オーレンが私から離れていってしまうかも知れない。
それは嫌だ。彼が私の側からいなくなることも、彼の身を危うくすることも。
「ねえ、オーレン」
彼の胸に顔を埋めながら甘えるように名を呼ぶと、私の頭頂部に顎を乗せているオーレンが「……ん?」と色気を含んだ声で答える。鼓動が高まり、身体が熱くなるのを感じながら、更に彼の胸に縋り付いた。
「私も、アリアンナ様とお話しているあなたを見掛けて、冷静ではいられなかったわ。あなたを疑っている訳じゃないけれど、あの御方はとてもお綺麗だから嫉妬してしまうの」
普段の私なら口にしない言葉を拗ねた口調で言うと、オーレンが私を抱き締めている力が少し強くなった。
「そうか。すまなかった。けれど、嬉しいよ。コーデリアが嫉妬してくれて。……そう言ったら怒る?」
もうっ、と拗ねながら彼の胸を軽く拳で叩くと、オーレンが嬉しそうに喉を鳴らして笑った。
「愛してるわ、オーレン」
私もだよ、と返してくれるオーレンの声を味わうように目を閉じ、彼の背に回した腕に力を込めながら切に願う。
……どうか、私を裏切らないで。私の為にも、あなたの為にも。
けれどそれは、彼の初恋が実らないことを意味する。
それを願う私は、本当に彼の幸せを望んでいるといえるのだろうか。




