約束
しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。
窓の外では、夕暮れが少しずつ町を染めている。
私は膝の上で手を重ねた。
魔女の心臓を終わらせる方法。
そのためには、今この心臓を持っている自分の意思が必要になる。
そしてノアは、その方法を長い間探していた。
だったら。
その先にある「約束」とは、何なのだろう。
「……話したくないことなら、無理に聞きません」
そう言うと、ノアが顔を上げた。
「違います」
すぐに返ってきた声は、思っていたよりも強かった。
「話したくないわけではありません。ただ……僕自身が、ちゃんと向き合わなければいけないことなので」
ノアはしばらく黙ってから、ゆっくり口を開いた。
「僕があの人と暮らしていた頃のことは、前にも話しましたよね」
「はい」
「僕は、あの人に何度も助けてもらいました」
それは知っている。
魔法がうまく使えなかったこと。
何度失敗しても、魔女がそばにいてくれたこと。
そして、いつか遠くへ行けるようにと言われたこと。
だから私は、それ以上を促すように小さく頷いた。
「僕は子供でしたから」
ノアが、少しだけ笑った。
「自分が何もできないことが嫌で。いつか、あの人に何かを返したいと思っていました」
「それが……約束だったんですか?」
「はい」
ノアは一度、息を吐いた。
「いつか、僕があの人を守ると」
胸が、わずかに痛んだ。
けれど、今はそのことを考えないようにした。
ノアの言葉を聞きたかった。
「ただ……子供の僕は、『守る』という言葉の意味を分かっていなかったんだと思います」
「……どういうことですか?」
「僕は、強くなって、あの人のそばにい続けることが守ることだと思っていました」
ノアは視線を落とした。
「だから、あの人に遠くへ行けと言われたときも、納得できなかったんです」
それは、以前聞いた話だった。
けれど、今のノアの口から聞くと、少し違って聞こえた。
「僕は、あの人の言うことを聞いて離れることが、約束を破ることのように思えていました」
「……でも、魔女はそう思っていなかった」
「はい」
ノアは静かに頷く。
「むしろ、僕が離れていくことを望んでいたんだと思います」
その言葉に、私は黙った。
「そして、最後にあの人が残した言葉があります」
ノアの声が、少しだけ低くなる。
「自分のために生きてほしい、と」
部屋の中が静かになる。
「そのときの僕には、その言葉の意味が分かりませんでした」
ノアは胸元に手を置いた。
「でも、あの人がいなくなってから、少しずつ分かってきたんです」
「何が、ですか?」
「僕があの人を守るためには、あの人が残したものを、誰かに背負わせ続けることも終わらせなければいけない」
「……心臓のこと?」
「はい」
ノアはまっすぐ私を見た。
「魔女がいなくなったあとも、心臓だけは残ってしまった。そして、それは生まれた子に受け継がれていく」
ノアの声には、長い時間をかけて調べてきた者の重みがあった。
「そのたびに、あの人が残した感情まで、知らない誰かが抱えることになる」
私はそっと自分の胸元に触れた。
ここ数日、何度も感じてきたもの。
懐かしさ。
寂しさ。
帰りたいという気持ち。
誰かを待ち続けるような感情。
それが、自分のものではないかもしれないと思うだけで、胸が苦しくなる。
「だから……」
ノアが言った。
「この心臓を終わらせる方法を探していました」
「それが、約束を果たすことなんですか?」
「そうです」
ノアは迷わず答えた。
「僕が子供の頃に言った『守る』という約束を、ようやく正しい意味で果たせるかもしれないと思ったんです」
私はしばらくノアを見つめた。
魔女を守る。
そのために、魔女の心臓を終わらせる。
一見すると矛盾しているようにも思える。
けれど、ノアにとっては違うのだろう。
魔女が残したものを、これ以上誰かに背負わせない。
それが、ノアなりに見つけた「守る」という答えなのだ。
「……だから、私を探したんですね」
ノアの表情が曇る。
「魔女の心臓を持つ人を」
「……はい」
「私を見つけて、心臓を終わらせる方法を探していた」
「最初は、そうでした」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
「最初は……?」
ノアは答えなかった。
答えようとして、言葉を探しているようだった。
「それなら」
静かに尋ねた。
「今は?」
ノアの瞳が揺れる。
けれど、すぐには答えが返ってこなかった。
その沈黙が、かえって苦しかった。
「……今日は、もう帰りましょう」
私は立ち上がった。
ノアも何か言おうとしたが、結局、黙って立ち上がる。
二人で部屋を出た。
並んで歩く道は、いつもと同じはずだった。
それなのに、今日は少しだけ遠く感じる。
ノアは魔女との約束を果たすために、自分を探した。
それは分かった。
でも――。
最初は、魔女の心臓を持つ人として。
では、今は?
その答えだけが、聞けなかった。
隣を歩くノアを見た。
何かを言いたそうにしているのに、何も言わない。
その横顔を見ていると、胸の奥がまた温かくなる。
けれど、その感情が何なのかは分からない。
魔女の心臓が感じているのか。
それとも、自分自身が感じているのか。
まだ、答えは出なかった。
ただ一つ。
ノアが長い間守ろうとしてきたものが、魔女だけではなくなっていることを。
私も、ノア本人でさえも、まだ知らなかった。




