初恋の終わり
翌日。
私は昨日の帰り道から、ずっと同じことを考えていた。
――最初は、そうでした。
ノアが言った言葉が、何度も頭の中に浮かぶ。
私を探した理由。
魔女の心臓を終わらせる方法を探していたこと。
それは分かった。
でも、ノアは最後に「最初は」と言った。
では、今は?
その答えを聞けないまま、私はノアと待ち合わせをしていた。
「お待たせしました」
「いえ。私も今来たところです」
いつも通りのノアだった。
けれど、私は昨日までと同じようには見られなかった。
ノアの中には、私の知らない長い時間がある。
魔女と暮らしていた頃。
魔女を失ったあと。
そして、その約束を果たすために心臓を調べ続けていた時間。
私はまだ、その一部しか知らない。
「今日は、何を調べるんですか?」
「昨日の記録について、もう少し確認したいと思っています」
「心臓を終わらせる方法ですか?」
「……はい」
ノアの返事は短かった。
私たちは町の記録庫へ向かった。
昨日までなら、隣を歩くことが少し嬉しかった。
今も、嬉しい。
でも、その気持ちを素直に受け取れなくなっている自分がいた。
それが心臓のせいなのか。
それとも私自身の気持ちなのか。
まだ分からない。
記録庫の奥で、ノアは古い資料を何冊か取り出した。
私はその隣でページをめくっていく。
しばらくして、ノアの手が止まった。
「……これです」
「何か分かりましたか?」
「心臓について書かれた記録ではありません」
ノアは古い紙を見つめていた。
「昔、あの人と暮らしていた頃の記録です」
私はノアの横顔を見る。
その表情には、懐かしさと寂しさが混ざっていた。
「あの人が亡くなった後、日記などの魔女の記録になるものはすべてここに持ってこられました」
「……読んでもいいですか?」
「もちろんです」
紙には、短い記録が残されていた。
ある女性と、その女性の家で暮らす少年について書かれている。
少年は魔法の練習をしていた。
女性はそれを見守っていた。
そして、ある日。
少年が「大きくなったら、この人を守る」と話していたことまで記されていた。
私は紙から顔を上げた。
「……ノアさんのことですよね」
「はい」
ノアは苦笑した。
「昔の僕は、本当にそればかり言っていたみたいです」
「魔女を守りたかったんですね」
「そうだったんだと思います」
ノアはそう言ってから、少し考えるように黙った。
「……でも」
「はい?」
「今になって考えると、不思議なんです」
ノアが紙を閉じた。
「僕は、あの人にずっと『守らなきゃ』と思っていました」
「はい」
「でも、あの人は一度も僕に守ってほしいとは言わなかった」
私は何も言わずに聞いた。
「むしろ、僕がいつまでもそばにいようとすると、遠くへ行くように言った」
それは知っている。
けれど、ノアの声には昨日までとは違うものがあった。
「僕は、それが嫌でした」
「……嫌だった?」
「はい」
ノアは少し笑った。
「子供でしたから。自分が必要とされていないような気がして」
その言葉に、胸がきゅっとした。
「でも、今なら少し分かります」
ノアは窓の外へ目を向けた。
「あの人は、僕に自分のところへ戻ってきてほしかったわけじゃない」
「……」
「僕が、自分の人生を歩けるようになることを望んでいた」
静かな声だった。
「それなのに僕は、ずっと『守る』という言葉にこだわっていました」
ノアは自分の手を見つめる。
「守らなければいけないと思っていたから、離れることができなかった」
私は、その言葉を聞きながら考えていた。
ノアは魔女を好きだった。
そう、聞いていた。
けれど――。
今のノアが話しているのは、恋人に向ける気持ちとは少し違って聞こえた。
助けてもらったこと。
そばにいてほしかったこと。
必要とされたかったこと。
いつか恩を返したかったこと。
そして、その人を失いたくなかったこと。
それらが全部重なっていたのではないだろうか。
「ノアさん」
「はい?」
「魔女のことを……今でも好きですか?」
聞いた瞬間、ノアが黙った。
昨日までなら、私はこの質問をするのが怖かったかもしれない。
けれど今は、聞かなければいけない気がした。
ノアはしばらく考えていた。
「……好き、だと思います」
その答えに、胸が少し痛む。
けれど、ノアは続けた。
「ただ」
ゆっくりと顔を上げる。
「昔、僕が思っていた『好き』と、今の僕が感じているものは、同じではない気がします」
「違う……?」
「はい」
ノアは困ったように笑った。
「僕はずっと、あれが恋だったと思っていました」
その言葉に、私は息を止めた。
「でも、今になって考えると……あの人に救ってもらったことへの感謝だったり、憧れだったり。家族のように感じていた部分もあったんだと思います」
胸の奥が、静かに揺れた。
「だから、あの人がいなくなったあとも、僕は『約束を守らなければ』と思い続けた」
ノアは少しだけ目を伏せた。
「それが、恋が終わっていないということだと思っていたんです」
私は何も言えなかった。
ノアにとって魔女は、ただ好きだった人ではなかった。
自分を救ってくれた人。
自分を育ててくれた人。
そして、自分がいつか守りたいと思った人。
その全部が混ざっていたのだ。
「……じゃあ」
私は、恐る恐る尋ねた。
「ノアさんにとって、魔女との約束は……もう終わったんでしょうか」
ノアはしばらく答えなかった。
やがて、静かに首を横に振った。
「まだです」
「まだ……?」
「僕が心臓を終わらせる方法を見つけて、それをリゼット嬢自身が選べるところまで来なければ」
ノアは私を見る。
「僕の約束は終わりません」
その目は、まっすぐだった。
けれど、そこに昨日までとは違う何かを感じた。
魔女だけを見ている目ではない。
少なくとも、私はそう思った。
「……分かりました」
私は小さく頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
ただ、ノアと向かい合っていると、不思議と胸が温かくなる。
昨日までは、その感情さえ疑っていた。
魔女の心臓が、ノアを懐かしんでいるのかもしれない。
魔女が、ノアを大切に思っていたから。
だから私も、ノアを大切に思ってしまうのかもしれない。
そう考えていた。
けれど今。
ノアが魔女のことを語る姿を見ていると、少しだけ違うような気がした。
魔女への想いと。
私がノアを見て感じるものは。
本当に、同じなのだろうか。
その答えは、まだ分からない。
ただ一つだけ。
ノアのことを知りたいと思った。
魔女が知っていたノアではなく。
私が今、目の前で見ているノアのことを。




