帰りたかった場所
ノアが帰った翌日から、私は妙に落ち着かなかった。
胸の奥に残っているものについて考えようとすると、どうしても彼の顔が浮かぶ。
魔女を知っている人。
幼い頃、その人と過ごしていた人。
そして今は、私の胸にあるものについて調べている人。
分からないことばかりだった。
それなのに、ノアと話しているときだけは、不思議と嫌な感じがしなかった。
むしろ――懐かしい。
そんな感情が、何度も胸の奥に浮かんでくる。
会ったばかりの人なのに。
私はその感覚を持て余していた。
そんなある日のことだった。
屋敷を訪れたノアは、以前と変わらない落ち着いた様子で私に頭を下げた。
「リゼット嬢。少し、お付き合いいただけませんか」
「どちらへ行くのですか?」
「魔女が暮らしていた場所を見てみませんか」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
「……魔女の?」
「はい」
ノアは少しだけ迷うように視線を逸らした。
「僕が案内できます」
それ以上は詳しく話さなかった。
私も、聞かなかった。
なぜそこへ行くのか。
何が残っているのか。
何を見ればいいのか。
どれも気になったけれど、今の私には、それ以上に確かめたいことがあった。
自分の胸にあるものが、魔女とどう繋がっているのか。
それを知るための手がかりが、そこにあるような気がした。
私は頷いた。
「お願いします」
屋敷を出て、しばらく歩いた。
町から離れるにつれて、人の姿が少なくなっていく。
道の両側には木々が増え、やがて細い道へと変わった。
ノアは迷う様子もなく進んでいく。
何度も来たことがあるのだろう。
ノアが立ち止まる。
目の前に、一軒の古い家があった。
周囲の木々に半分隠れるように建っている。
壁はところどころ色が褪せ、屋根にも長い年月が積み重なっていることが分かった。
それでも、荒れ果てているわけではなかった。
誰かが最低限の手入れをしている。
そんな家だった。
「ここです」
ノアが言った。
私は家を見上げた。
その瞬間だった。
胸の奥が、かすかに熱を持った。
「……」
痛いわけではない。
苦しいわけでもない。
ただ、胸の奥から、ふっと感情が浮かんできた。
懐かしい。
私は眉を寄せた。
どうして。
ここに来るのは初めてだ。
もちろん、この家に来た記憶などない。
それなのに――。
帰ってきた。
そんな気がした。
「リゼット嬢?」
「……いえ」
私は胸元に手を当てた。
「大丈夫です」
ノアは何も言わなかった。
ただ、私の様子をじっと見ている。
やがて古い扉を開けた。
ぎい、と小さな音が鳴った。
中は薄暗かった。
長い間、人が住んでいない家特有の冷たさがある。
けれど、埃だらけというわけではなかった。
家具も残っている。
古い椅子。
壁際の棚。
その上には小さな瓶がいくつか並んでいた。
机もある。
木製の古い机で、表面には細かな傷がいくつも残っていた。
「……ここに、住んでいたのですか?」
私が尋ねると、ノアは頷いた。
「はい」
短い返事だった。
私は家の中を見回した。
「あなたも、ここに?」
「そうです」
そこで一度、ノアは言葉を止めた。
そして、静かに続けた。
「ここは、僕があの人と過ごしていた家です」
胸の奥が、どくん、と鳴った。
私は何も言えなかった。
ノアは古い机へ近づいた。
「この机も、昔からありました」
机の端に手を置く。
「僕が魔法の練習をしていたのも、ここです」
私はその言葉を聞きながら、机を見つめた。
傷が多い。
何度も何かをぶつけたような跡がある。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
私はそっと指先を伸ばした。
机に触れる。
その瞬間。
胸の奥が、強く温かくなった。
「……っ」
思わず息を止める。
頭の中に何かが浮かんだわけではない。
誰かの姿も見えない。
声も聞こえない。
ただ――。
懐かしい。
その感情だけが、はっきりと胸に広がった。
ここを知っている。
そう思った。
けれど、それは記憶ではなかった。
知っているはずがない。
ここに来たことなど、一度もないのだから。
それでも。
帰ってきたかった。
そんな気持ちが、胸の奥からこみ上げてくる。
「……不思議」
「何か感じましたか?」
すぐそばからノアの声がした。
私は顔を上げた。
「はい。でも……説明できません」
「どんな感じですか?」
「懐かしいです」
自分でもおかしくなって、少し笑った。
「ここに来たことなんてないのに」
ノアは黙って私を見ていた。
驚いているようにも見えた。
けれど、それ以上は何も言わない。
私は机から手を離した。
今度は棚へ向かった。
小さな瓶がいくつも並んでいる。
中には乾いた草のようなものが入っているものもあれば、空になっているものもあった。
一つを手に取ろうとして――やめた。
勝手に触るのが躊躇われた。
「それは、魔女が使っていたものです」
ノアが言った。
「詳しくはわかりませんが、魔法に使う薬草などを入れていたそうです」
「そうなのですね」
私は瓶を見つめた。
「危ないからと、棚は触らせてくれませんでした」
ノアが懐かしむように笑う。
すると、また胸の奥が温かくなった。
大切にしたい。
そんな感情だった。
私は少し戸惑った。
何を大切にしたいのかは分からない。
この瓶なのか。
この場所なのか。
ここで暮らしていた誰かなのか。
分からない。
ただ、捨ててほしくない。
そんな気持ちだけがあった。
私は瓶を元の場所へ戻した。
その隣には、古い魔法書が置かれていた。
表紙は擦れていて、何度も開かれた跡がある。
ページの端も少し丸くなっていた。
ノアがそれを見て、わずかに目を細めた。
「それも、あの人が使っていたものです」
私は魔法書に手を伸ばした。
指先が表紙に触れる。
今度は、胸の奥がきゅっと締まった。
悲しい。
けれど、何が悲しいのか分からない。
「……誰かを待っていたような気がします」
口から言葉がこぼれた。
ノアがこちらを見る。
「誰が、とは分かりません」
私は魔法書から手を離した。
「ただ……そんな気がしました」
家の中は静かだった。
外から風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
その静けさの中にいると、ここで誰かが暮らしていたという事実だけが、不思議なくらい近く感じられた。
私は部屋の隅に目を向けた。
そこには小さな椅子があった。
大人が座るには少し低い。
「これは……?」
「僕が使っていたものです」
ノアが答えた。
「子供の頃の僕が」
私は椅子を見る。
胸の奥が、また少しだけ温かくなった。
けれど、さっきまでとは違った。
寂しさ。
それから、誰かを大切に思うような、柔らかな感情。
私は椅子に触れなかった。
ただ見つめていた。
ノアも、何も言わなかった。
その沈黙が、妙に心地よかった。
やがて私は、小さく息を吐いた。
「この家には……いろいろ残っているのですね」
「ええ」
「長い間、誰も住んでいないのに」
「捨てられなかったのでしょう」
ノアの声は静かだった。
私はもう一度、部屋を見回した。
古い椅子。
傷のついた机。
小さな瓶。
魔法書。
食器棚に残された何枚かの皿。
どれも特別なものには見えない。
けれど、ここで暮らしていた誰かにとっては、きっと違ったのだろう。
私はそのことを、なぜか知っているような気がした。
何を知っているのかは分からない。
ただ、大切だった。
「……何か感じましたか?」
ノアが尋ねた。
私は少し考えてから答えた。
「……懐かしいです」
そして、胸元に手を当てる。
「でも、私はここを知りません」
ノアは黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「やはり、場所にも反応するんですね」
「……やはり?」
「いえ」
ノアは首を横に振った。
「僕も、まだ分かっていないことがたくさんあります」
その言葉を聞いて、少しだけ驚いた。
魔女のことも。
心臓のことも。
ノアは私よりずっと多くのことを知っているのだと思っていた。
けれど、そうではないらしい。
「では……私たちは、まだ何も分かっていないのですね」
「そうかもしれません」
ノアは古い魔法書へ目を向けた。
「だからこそ、調べる必要があると思います」
「調べる……」
「魔女について残っているものを」
私は頷いた。
この家を見て、初めてそう思った。
心臓が何なのかを知りたいだけではない。
自分の中に突然湧いてくる感情が、どこから来るものなのか。
なぜ、知らない場所を懐かしいと思うのか。
なぜ、会ったことのない誰かを大切に思うような気持ちが生まれるのか。
その答えを知りたかった。
「私も、調べてみたいです」
ノアがこちらを見る。
「魔女のことを知れば、何か分かるかもしれません」
「はい」
私はもう一度、部屋を見渡した。
ここには、魔女が生きていた時間が残っている。
けれど、それを見ても、私はその人の姿を思い浮かべることができない。
声も知らない。
何を話していたのかも分からない。
ただ、懐かしい。
大切だった。
帰ってきたかった。
そんな感情だけが、胸の奥に残っている。
それだけでも、今の私には十分だった。
「では、帰りましょうか」
ノアが扉へ向かう。
私は最後に一度だけ振り返った。
古い机。
小さな瓶。
魔法書。
椅子。
どれも静かにそこにある。
なのに、なぜか胸の奥が少しだけ寂しかった。
まるで、もう一度ここへ帰ってきたかった誰かの気持ちを、ほんの少しだけ預かったように。
私はその感情を胸に抱えたまま、家を出た。
今度は、ただ知りたいと思っていた。
魔女がどんな人だったのか。
ノアと、どんな時間を過ごしていたのか。
そして――。
どうして私は、その人を知らないはずなのに、こんなにも懐かしく思うのか。
その答えを探すために。




