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魔女を知る男

 ノアが帰ったあとも、リゼットは応接室に残っていた。

 机の上には、彼が置いていった古い記録がある。


 何度読み返しても、そこに魔女本人のことが詳しく書かれているわけではない。

 名前すら残っていない記録も多かった。

 ただ、何百年の間、いくつかの心臓が受け継がれていること。

 そして、その心臓を持った者の中には、説明のつかない感情を抱えた者がいたこと。

 それだけだった。


 けれど、リゼットにはひとつだけ、以前とは違って見えるものがあった。

 ノアの存在だ。

 今まで魔女は、古い記録の中にしかいなかった。

 自分の胸にある心臓も、ただ受け継がれてきたものとして考えるしかなかった。


 それなのに、ノアは魔女を知っている。

 彼の記憶の中には、確かに魔女が生きていた時間がある。

 それを思うと、どうしても知りたくなった。

 魔女は、どんな人だったのか。

 そして。

 ノアにとって、どんな人だったのか。


 数日後。

 リゼットはノアから届いた手紙を受け取った。

 調べていた資料について、いくつか話したいことがあるという。


 指定された場所は、屋敷から少し離れた町の図書館だった。

 昼を過ぎた頃、リゼットが中へ入ると、奥の窓際にノアがいた。


「すみません。待たせましたか?」


「いえ。僕も今来たところです」


 ノアの前には数冊の本が積まれていた。


「また調べてくれたんですね」


「前に話した記録を、もう少し遡ってみました」


 ノアは一冊を開いた。


「ただ、心臓そのものについて新しいことが分かったわけではありません」


「そうですか」


「その代わり、魔女について少し」


 リゼットの指が止まる。

 ノアはそれに気づいたようだったが、何も言わずに本を閉じた。


「……聞きますか?」


「はい」


 リゼットは頷いた。

 ノアは少し考えてから話し始めた。


「僕があの人に会ったのは、子供の頃です」


 その声は、前に聞いたときよりも静かだった。


「当時の僕は、魔法が上手く使えませんでした。魔力だけはあったので、周りからは期待されていた。でも、失敗ばかりで」


 小さな火を出そうとして、部屋を焦がした。

 水を出そうとして、床を水浸しにした。

 力を抑えようとすればするほど、余計に魔力が暴れた。


「ある日、森を一人で歩いていました」


 そのとき、魔女と出会った。

 ノアが話す姿を見ていると、リゼットには不思議な感覚があった。


 胸の奥が、ほんの少し温かくなる。

 まるで、その話を聞くことを心臓が待っていたかのようだった。


「その人は、何も聞かずに家へ入れてくれました」


 怪我をしていれば治してくれた。

 腹が減っていれば食べ物を出してくれた。

 魔法を失敗して落ち込んでいれば、隣に座ってくれた。


「魔法の練習も、その人のところでしました」


「厳しかったですか?」


「逆です」


 ノアが笑った。


「僕が失敗するたびに、『今のは惜しかった』って言うんです」


「……惜しかった?」


「明らかに失敗していても」


「それは、ずいぶん優しいですね」


「そうなんです」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「だから、僕はあの人のところへ行くのが好きでした」


 その言葉に、リゼットの胸がまた温かくなる。

 けれど今度は、それだけではなかった。

 懐かしい。

 帰りたい。

 大切にしたい。

 そんな感情が重なっていく。

 リゼットは胸元に手を置いた。


「ノアさんは、魔女のことが好きだったんですね」


 ノアが黙る。


「……初恋だったと思います」


 胸の奥が、どくりと鳴った。


「子供の頃、僕が『ずっと一緒にいたい』と言ったことがあるんです」


「……魔女は、何と?」


「笑っていました」


 ノアも少し笑う。


「それから、『いつか自分のところへ帰る必要がなくなるくらい、遠くへ行けるようになりなさい』って」


「……遠くへ?」


「当時は意味が分かりませんでした」


 ノアは本を閉じた。


「僕はずっと、いつかあの人の役に立てるようになろうと思っていました。魔法を覚えて、強くなって。あの人を守れるようになればいいと」


「……大切に、思っていたんですね」


「はい。……結局一緒に過ごせたのは、二年ほどでしたが、僕にとっては大切な時間でした」


 リゼットはそれ以上、何も言えなかった。

 ノアが魔女を好きだった。

 その事実そのものよりも、その言葉を聞いた瞬間、自分の胸の奥に浮かんだ感情が気になった。


 寂しい。

 少しだけ、苦しい。

 そして――なぜか、ノアのことをもっと知りたいと思った。


 これは誰の感情なのだろう。

 魔女の心臓に残っているものなのか。

 それとも、自分自身のものなのか。

 分からない。

 けれど、今はまだ答えを出せなかった。


「……すみません。話しづらいことを聞いてしまって」


「いや」


 ノアは首を横に振った。


「むしろ、話しておいたほうがいいと思ってた」


「どうして?」


「君があの人の心臓を持っている以上、俺が何を知っているのかを隠す意味はないから」


 その言葉に、リゼットは顔を上げた。


「だったら……もっと聞かせてください」


「魔女のことを?」


「はい」


 少し迷ってから、リゼットは続けた。


「その人が、どんな場所で暮らしていたのか。何を大切にしていたのか。何を考えていたのか」


 心臓の中に残っているものを知りたい。

 そう思った。

 けれど、それだけではなかった。

 ノアが知っている魔女を知れば、自分の中にある感情が何なのか、少しだけ分かるかもしれない。


「分かりました」


 ノアは頷いた。


「俺も、まだ調べたいことがある」


「一緒に?」


「ああ」


 短い返事だった。

 それなのに、不思議と胸が軽くなった。

 リゼットは小さく頷く。


「じゃあ、お願い」


「こちらこそ」


 窓の外では、夕方の光がゆっくりと薄れていた。

 机の上に広げられた古い記録の文字が、少しずつ影の中へ沈んでいく。

 その向こうにいる魔女が、どんな人だったのか。

 リゼットには、まだ分からなかった。


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