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心臓に残るもの

「あなたは……魔女を知っているの?」


 そう尋ねた私に、ノアはすぐには答えなかった。

 窓の外へ視線を向ける。

 午後の日差しが、床に細長く伸びていた。


「知っています」


 やがて、彼はそう答えた。

 短い言葉だった。

 けれど、その声には妙な重さがあった。


「会ったことがあるの?」


「あります」


「……いつ?」


「かなり昔です」


 私は眉を寄せた。

 目の前の青年は、私よりいくつか歳は上そうだが、そこまで離れているようには見えない。


「昔って……あなたが子供の頃?」


「はい」


「それなら、魔女は今……?」


 ノアは答えなかった。

 それだけで分かった。

 もう、この世にはいない。


 遡れば数百年前の魔女。

 どこか遠いものに感じていた存在。

 けれど、ノアにとっては単なる昔話ではないらしい。


「あなたは、魔女に会っていた」


「はい」


「それで、私のところへ来たの?」


「それも理由の一つです」


「それも?」


 ノアは少しだけ困ったように笑った。


「まだ、あなたに話すべきことを整理できていません」


「整理?」


「何から話せば、あなたを混乱させずに済むのか」


 その言葉が、なぜか引っかかった。

 私を心配しているようにも聞こえる。

 でも、それ以上に――何かを恐れているようにも聞こえた。


「じゃあ、一つだけ教えて」


「何でしょう」


「魔女の心臓って、本当に昔から存在してるの?」


「はい。そこまでの魔力を持った魔女は、稀ですが」


「私の母や祖母じゃない。それよりもっと前から?」


「そうです」


 ノアは頷いた。


「記録が残っているだけでも、何人もの継承者がいます」


「みんな、普通の人だった?」


「ええ。貴族もいましたし、平民もいました。魔法使いもいれば、ほとんど魔法を使えなかった者もいた」


 ただ、とノアが続ける。


「強い魔力を持っていること。そして、心臓に残された感情を受け止められること。それが最低限の条件だと考えられています」


「感情を、受け止める……?」


「魔女の心臓に残っているのは、記憶ではないからです」


 私は胸元を見る。


「だから、突然悲しくなったりするの?」


「おそらく」


「知らない場所を懐かしいと思ったり?」


「そういうこともあるでしょう」


「……嫌ね」


 思わず口から出た。

 ノアがこちらを見る。


「嫌ですか」


「だって、自分の気持ちなのか分からなくなるじゃない」


 私は胸元を握った。


「悲しいと思った。でも、それが私の悲しみなのか、魔女の悲しみなのか分からない。誰かを大切に思ったとしても、それが私の気持ちなのか分からない」


 口にすると、今まで曖昧だった不安が形になった。


「それじゃあ、私が何を感じても、信じられないじゃない」


 ノアは黙って聞いていた。

 慰めようとはしなかった。

 そのことが、少しだけありがたかった。


「……全部が心臓の感情というわけではありません」


「え?」


「あなた自身の感情もあります」


「どうやって分かるの?」


「それは、簡単には」


 ノアが言葉を止める。

 そして少し考えてから、


「分からないこともあると思います」


 正直な答えだった。

 私は苦笑した。


「あなた、さっきから分からないことばかりね」


「すみません」


「謝らなくていいわ」


 少しだけ笑う。

 すると、胸の奥が温かくなった。


 今のは――何だったのだろう。

 嬉しかった。


 ノアが謝ったことがおかしくて、少し笑った。

 それだけのはずなのに。

 胸の奥に、別の感情が重なったような気がした。

 懐かしい。

 温かい。

 誰かとこうして話すことが、ずっと昔から続いていたような。


 私は思わずノアを見る。

 彼も、私の様子に気づいたらしい。


「今、何か感じましたか」


「……少し」


「どんな?」


「分からない」


 さっきまでの彼の言葉を、そのまま返す。

 ノアは苦笑した。


「そうですか」


「でも……あなたと話していると、変な感じがする」


「変?」


「初めて会ったはずなのに」


 そこまで言って、胸が強く締めつけられた。

 懐かしい。

 悲しい。

 会いたかった。

 そんな感情が一度に押し寄せてくる。

 私は椅子の背にもたれた。


「……っ」


「リゼット嬢?」


「大丈夫」


 呼吸を整える。


「ただ、急に……」


 目を閉じる。

 頭の中に景色が浮かんだわけではない。

 誰かの声が聞こえたわけでもない。

 ただ、胸だけが知っている。


 ――この人を知っている。

 そんな感覚。


「……嫌だ」


 小さく呟いた。


「何がですか」


「分からないことばかりなのが」


 私は胸元から手を離した。


「私はずっと、自分の心は自分のものだと思ってた」


 当たり前だと思っていた。

 悲しければ私が悲しい。

 嬉しければ私が嬉しい。

 誰かを好きになったら、それは私が好きになったのだと。

 なのに今は、その当たり前さえ疑わなければならない。


「ノアさん」


「はい」


「あなたは、私をどうするつもりなの?」


 ノアの表情がわずかに強張った。


「……まだ何も決めていません」


「魔女の心臓を調べるために来たんじゃないの?」


「それはそうです」


「だったら、私から心臓を取るつもり?」


 沈黙が落ちた。

 私は答えを待った。

 けれど、ノアはすぐには口を開かなかった。


「僕は」


 やがて彼は、静かに言った。


「あなたに何かを強いるために来たわけではありません」


「でも、心臓をどうにかしたいとは思っている?」


「……はい」


 その答えだけは、迷いがなかった。

 胸の奥が、冷たくなる。


「どうして?」


「それは――」


 ノアは言葉を止めた。

 まるで、まだ話せないことがあるように。


「魔女と、何か約束したの?」


 その瞬間。

 初めて、ノアの顔から余裕が消えた。

 長い沈黙のあと、彼は小さく頷いた。


「……約束があります」


 それ以上は話さなかった。

 私はそれ以上、聞かなかった。


 今の私には、まだ分からない。

 魔女が何を望んでいたのか。

 ノアがなぜ私のところへ来たのか。

 そして、この胸にあるものが、私の人生に何をもたらすのか。


 ただ一つだけ分かったことがある。

 魔女の心臓は、ただの古い伝説ではない。

 たった一人を選び、宿る心臓。

 そして今、それは私の中にある。


 ならば私は、知らなければならない。

 この心臓が何なのか。


 そして――

 私自身が、何を感じているのかを。


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