魔女の心臓を持つ令嬢
昔から、この国には一つの奇妙な話が残っている。
――魔女の心臓は、死んでも消えない。
はるか昔。
強大な魔力を持つ一人の魔女が死んだ。
そのとき、彼女の身体から離れてもなお残ったものがあった。
心臓。
ただし、それは生きた人間のように鼓動し続けるものではなかった。
魔女が生涯の中で抱いた、あまりにも強い感情と魔力。
それらが心臓に染みつき、魔女の死後も消えずに残ったのだという。
それが、この国で最初に知られた「魔女の心臓」だった。
それから長い年月の中で、同じような魔女が、ごく稀に現れるようになった。
強大な魔力を持つ魔女。
その中でも、死後に魔力と感情を心臓へ残す者は、ほんの一握りしかいない。
そうして残された心臓は、やがて一人の人間へと宿る。
血筋によって決まるわけではない。
貴族だからでも、魔法使いだからでもない。
その心臓を受け止められる者が生まれたとき、その身体に宿るのだという。
詳しい条件については、古い記録にもほとんど残っていない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
――魔女の心臓を宿す者は、生まれたときからその心臓を持っている。
だから私は、生まれたその日から「魔女の心臓」を持っていた。
そう母から聞かされていた。
◇
「また、変な夢を見たのですか?」
朝食の席で、侍女に尋ねられて、私は首を横に振った。
「夢じゃないわ」
「では……?」
「分からない」
自分でも説明できなかった。
目を覚ましたとき、胸の奥がひどく温かかった。
悲しいわけでもない。
嬉しいわけでもない。
それなのに、どうしようもなく誰かを懐かしく思うような感覚があった。
胸元に手を当てる。
そこには、生まれたときからある赤い痕があった。
花のようにも見える、不思議な形。
母はこれを見たとき、ひどく驚いたという。
そして、祖母から聞かされていた古い話を私に教えてくれた。
魔女の心臓。
まれに現れる、強大な魔力を持つ魔女の残り香。
それが、今は私の中にある。
どうして私なのかは分からない。
母が残してくれた古い記録には、こう書かれていた。
『心臓は血を選ばない』
その下には、別の筆跡でこう続いていた。
『強い魔力を持ち、心臓の感情を受け止められる者に宿る』
それ以上のことは、分からなかった。
「……まただ」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
私は思わず胸元を押さえた。
「お嬢様?」
「大丈夫」
私は笑った。
こういうことは昔からあった。
突然、胸の奥に自分でも説明できない感情が湧く。
子供の頃は、それも自分の気持ちなのだと思っていた。
悲しいなら悲しい。
寂しいなら寂しい。
そういうものだと思っていた。
けれど、成長するにつれて少しずつ違和感を覚えるようになった。
私は知らない人を、どうしてこんなにも懐かしく思うのだろう。
行ったことのない場所を、どうして恋しく感じるのだろう。
自分にはないはずの思い出を、どうして胸が知っているような気がするのだろう。
その答えを、私は知らない。
知ろうともしていなかった。
――今日までは。
◇
「リゼット様。お客様がお見えです」
昼を過ぎた頃、侍女がそう告げた。
「お客様?」
「はい。ノア・エルディア様と名乗る魔法使いの方です」
聞き覚えのない名前だった。
私は首を傾げた。
「私に?」
「はい。ただ、少し変わった用件だそうで……」
そこで侍女が言葉を濁した。
私は応接室へ向かった。
扉を開ける。
窓際に、一人の青年が立っていた。
黒に近い髪。
落ち着いた瞳。
魔法使いらしく長い外套をまとっているが、どこか旅人のような雰囲気があった。
私を見ると、青年は静かに頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。リゼット嬢」
「構いません。ですが……お名前を伺っても、私はあなたを存じ上げません」
「ノア・エルディアです」
やはり知らない。
「今日は、どのようなご用件でしょう」
ノアはすぐには答えなかった。
代わりに、私の顔を見つめる。
正確には――胸元を。
その目は、レースの生地に隠れている印を見つめていた。
その視線に、私は反射的に手を添えた。
「……いきなり、何ですか」
「失礼。そこに、印があるはずです」
ノアの声が、わずかに低くなる。
「いつからありますか」
「……生まれたときからです」
「やはり……」
彼の表情が変わった。
驚きというより、確信に近かった。
「あなたは、魔女の心臓を知っていますか」
胸が、どくん、と鳴った。
「……どうして、その名前を?」
「昔から、いくつもの記録を調べてきました」
ノアは一歩だけ近づいた。
「そして、あなたの名前に辿り着いた」
「私の?」
「魔女の心臓は、何百年も前から存在している」
それは私も知っている。
「いつ魔女の心臓を持つ者が現れるか、誰にも分からない。血筋でもない。けれど、心臓を受け止められるだけの魔力を持つ者が生まれたとき――」
ノアの視線が、再び私の胸元へ向いた。
「その人間が、新しい宿主になる」
「……それが私だと」
「はい」
言葉にされると、不思議だった。
知っていたはずのことなのに。
誰かに断言されると、自分の身体の中にあるものが、急に遠い存在になったように感じる。
「あなたの中にあるものは、ただの魔法ではありません」
胸の奥が、また熱くなる。
今度は寂しさではなかった。
誰かを待っているような、切ない感情。
私は眉を寄せた。
「……これも?」
「え?」
「この感情も、魔女の心臓のせいなの?」
ノアは黙った。
しばらくして、静かに答えた。
「可能性はあります」
「可能性?」
「心臓が残しているのは、魔女の記憶そのものではない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「じゃあ、何?」
「感情です」
胸に手を当てる。
温かい。
知らない誰かを思うような感情。
それが自分のものなのか、それとも魔女のものなのか。
私はまだ知らなかった。
そしてこの日。
私は初めて、自分の胸にあるものが、ただの古い伝承ではないことを知った。
何百年もの間、誰かから誰かへ渡り続けてきたもの。
それが今、私の中にある。
そして――
目の前にいるこの青年は、その心臓について、私が知らない何かを知っている。
「ノアさん」
「はい」
「あなたは……魔女を知っているの?」
彼の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
その答えを、私はまだ聞いていなかった。




