別れの時
魔女の家に戻る道を、私とノアは並んで歩いていた。
「本当に、戻るんですね」
ノアが心配そうに尋ねる。
「ええ、最後に確かめたいことがあります」
「……わかりました」
ノアはそれ以上何も言わなかった。
私は胸元に手を添える。
そこには、魔女の心臓がある。
ずっと私の中にあったもの。
私が生まれたときから、当たり前のようにそこにあったもの。
けれど――。
「ノアさん」
「はい」
「私、決めました」
足を止める。
ノアも振り返った。
「心臓を……終わらせます」
その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい胸の奥が静かになった。
怖くないわけではない。
何か大切なものを失うかもしれない。
それでも、もう迷いたくなかった。
「……そうですか」
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「魔女の願いを叶えるためですか?」
「違います」
私は首を横に振った。
「もちろん、魔女がそう願っていたことは知っています。でも、それだけではありません」
胸元に置いた手に、少し力を込める。
「私が、自分で決めたんです」
今までは、分からないことばかりだった。
胸の奥に生まれる感情が、自分のものなのか魔女のものなのか。
懐かしいと思う気持ちも。
寂しいと思う気持ちも。
誰かを大切に思う気持ちも。
全部が混ざっていた。
だからこそ、私は知りたかった。
心臓がなくなったあと。
何も受け取らなくなったあと。
それでも私の中に残るもの、本当の私の気持ち。
「……簡単ではありませんよ」
「はい」
「心臓は、ただ身体から取り出せば終わるものではありません」
ノアは歩きながら説明してくれた。
魔女の感情を拒めばいいわけではない。
拒んでしまえば、自分自身の感情まで一緒に切り離してしまうかもしれない。
必要なのは、追い出すことではない。
見分けること。
そして、自分のものではない感情だけを手放すこと。
「魔女の家なら、心臓に残っている感情を返すことができるかもしれません」
ノアが言った。
「返す……?」
「はい。あの場所には、魔女が残した魔力があります。心臓がそこに触れることで、魔女の感情とリゼットさん自身の感情を分けることができるはずです」
「でも、私には分かるのでしょうか」
「リゼット嬢だからこそ難しいと思います」
「……私だから?」
「あなたは、人の感情を自分のもののように受け取れるからです」
その言葉に、私は黙り込んだ。
確かにそうだった。
魔女の感情は、いつも私の中に自然に入り込んできた。
悲しみも。
寂しさも。
懐かしさも。
まるで、私が最初からそう感じていたかのように。
「でも、心臓を終わらせるには……」
「自分の感情を手放さずに、魔女の感情だけを見つける必要があります」
私はそれを聞いて、少しだけ怖くなった。
けれど、もう引き返したいとは思わなかった。
しばらく歩くと、木々の向こうに古い家が見えてきた。
魔女が暮らしていた家。
ノアが幼い頃に過ごした場所。
古びた扉を開けると、冷たい空気が流れてきた。
足を踏み入れた瞬間、胸の奥が締めつけられる。
懐かしい。
寂しい。
帰ってきた。
そんな感情が一度に押し寄せてくる。
私は目を閉じた。
「……待ってください」
ノアの声に、私は目を開ける。
ノアは少し離れたところで、真剣な顔をしていた。
「まだ、言っていないことがあります」
「……何ですか?」
「心臓を終わらせるには、代償があります」
胸の奥が、わずかに揺れた。
「代償……?」
「はい」
ノアはゆっくりと私の前まで歩いてくる。
「魔女の心臓は、リゼット嬢の魔力と深く結びついています」
「それは、聞きました」
「ですが、それだけではありません」
ノアは私の胸元へ視線を落とした。
「心臓が宿っていることで、リゼット嬢の魔力には、無意識に身体を守る働きが生まれています」
「身体を……守る?」
「外から向けられた魔力や、強い悪意。場合によっては、普通なら身体に届いてしまうような魔術からも」
私は目を瞬いた。
「私、そんなものを感じたことはありません」
「感じないのが普通なんです」
ノアは静かに答えた。
「リゼット嬢自身が意識して防いでいるわけではありませんから」
つまり。
私は今まで、自分でも知らないうちに守られていた。
「心臓を終わらせると……それがなくなるんですか?」
「はい」
ノアは頷いた。
「リゼット嬢自身の魔力は残ります。でも、今までのように無意識に守られることはなくなる」
「……危険になる、ということですか?」
「今までなら傷つかなかったものに、傷つけられる可能性は高くなります」
その言葉に、私は黙った。
今まで知らなかっただけで。
私はずっと、魔女の心臓に守られていたのだ。
「それは……どのくらい違うんですか?」
「小さなものなら、自分の魔力で防げるでしょう。でも、強い魔術や不意の攻撃まで、以前と同じように防げるとは限りません」
ノアは一度言葉を切った。
「心臓を終わらせたあと、リゼット嬢は今までよりずっと、危険に晒されやすくなります」
怖いと思った。
それは、今までになかった恐怖だった。
「でも」
ノアは私の恐怖心に気づいたのか、慌てたように言葉を重ねた。
「リゼットさんが危険に晒されるなら、僕がそばにいます」
「え?」
「僕が、リゼット嬢を守ります」
言い切ったあと。
ノア自身が、少しだけ目を見開いた。
「……あ」
どうやら、自分でも今の言葉に気づいたらしい。
固まる私を見て、少しばつが悪そうに視線を逸らす。
「……すみません。少し、言い過ぎました」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
「どうして笑うんですか」
「だって……ノアさんがそんなことを言うなんて、少し意外だったので」
「……僕だって、言うことくらいあります」
少しだけむっとした顔をする。
その表情がおかしくて、また笑ってしまう。
けれど。
胸の奥は、不思議なくらい温かかった。
「ありがとうございます」
私は笑みを残したまま、ノアを見る。
ノアは、迷ったような顔をしていた。
「僕は……」
言葉が途切れる。
「無理に終わらせる必要はないと思っています」
「どうしてですか?」
「……危険だからです」
その答えは、あまりにも真っ直ぐだった。
けれど、ノアはすぐに続けなかった。
何かを考えるように視線を落として、それから小さく息を吐く。
「でも、僕が決めることではありません」
「……はい」
「リゼットさんが、自分で決めることです」
そう言ってから、ノアは私を見た。
私は胸元に手を当てる。
「……それでも、終わらせたいです」
「本当に?」
「はい」
ノアは黙って私を見る。
「魔女の心臓がなくなった私が、何を感じるのか知りたい」
それが怖くないと言えば、嘘になる。
今まで感じてきたものの中に、どこまでが私自身のものだったのか。
ノアへの気持ちも。
この胸の奥にある温かさも。
全部を確かめるのは、きっと簡単ではない。
それでも。
「だから、終わらせます」
私は、自分の意志でそう言った。
ノアはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました」
その声には、まだ心配が残っていた。
けれど、それ以上に私の決意を受け止めようとしていることが伝わってくる。
私は深呼吸をし、目を閉じた。
胸の奥が熱くなる。
懐かしい。
寂しい。
大切。
失いたくない。
そんな感情が、一度に押し寄せてきた。
「……っ」
思わず息を呑む。
誰かの記憶が見えるわけではない。
何かの場面が浮かぶわけでもない。
ただ、感情だけが流れ込んでくる。
温かい。
悲しい。
恋しい。
それが、あまりにも自然に自分の中へ入ってくる。
この気持ちは、どこから来たのだろう。
「……分からない」
思わず呟いた。
「全部、混ざっています」
「はい」
ノアは静かに答えた。
「だから、簡単には終わらないんだと思います」
私は胸の奥に意識を集中させる。
魔力を押し出すのではない。
拒むのでもない。
自分の中にあるものを、一つずつ見分けていく。
懐かしさ。
寂しさ。
誰かを待ち続けた感情。
誰かを守りたいという強い願い。
それらを見つけるたびに、私は心の中で告げた。
――これは、私のものではない。
絡まった糸が少しずつほぐれていく。
けれど、そのたびに胸が痛んだ。
魔女の感情と、私の感情。
境目が分からなくなる。
私は思わず胸を押さえた。
「……っ!」
「リゼット嬢!」
「大丈夫です……」
まるで大切なものを手放しているようだった。
何度も迷った。
これは本当に手放していいものなのか。
私の中に残しておきたいものではないのか。
けれど、そのたびに思い出す。
私は、私自身の心で決めると。
だから、もう一度手放す。
ひとつ。
またひとつ。
胸の奥に絡みついていた感情が、ゆっくりとほどけていく。
「……もう少しです」
ノアの声が聞こえた。
私は頷いた。
最後に残ったのは、温かさだった。
誰かを大切に思う気持ち。
失いたくないという気持ち。
守りたいという気持ち。
その中に、ノアへの感情も混ざっている気がした。
だからこそ、怖かった。
これを手放したら。
ノアへの気持ちまで消えてしまったら。
「……ノアさん」
「はい」
「もし、何も残らなかったら……」
声が震えた。
「そのときは……」
ノアは少しだけ笑った。
「そのときも、僕はここにいます」
その言葉に、胸が温かくなった。
――ああ。
この温かさは、まだ分からない。
だからこそ、確かめたい。
「……分かりました」
私は最後の感情に触れた。
そして、ゆっくりと手放した。
胸の奥で、何かがほどける。
長い間そこにあったものが、静かに消えていく。
痛みはなかった。
ただ、胸の奥にあった重さが、少しずつ軽くなっていく。
最後に、小さな光が私の胸から離れた。
それはしばらく空中で揺れていた。
まるで、名残を惜しむように。
私はその光を見つめた。
「……さようなら」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そして光は、静かに消えた。




