あなたを選んだ理由
ノアは、私の隣に立ったまま、机の上に広げられた記録を眺めていた。
さっきまでとは、少しだけ空気が違っている気がした。
魔女の願い。
心臓を終わらせたいという、あの人の願い。
それを知った今も、私の中にはまだ迷いが残っている。
けれど、少なくともひとつだけ、はっきりしたことがある。
最後に決めるのは、私なのだ。
「……もう少しだけ、見てみましょうか」
ノアが言った。
「はい」
私は頷いた。
まだ机の上には、開かれていない記録がいくつも残っている。
ノアが紙の束を端から確認していく。
「これは……継承者についての記録ですね」
「さっき見たものとは違いますか?」
「少し違います。こちらは、心臓そのものよりも……宿す側について書かれているみたいです」
ノアが一枚の紙を抜き取った。
古い紙だった。
文字もところどころ薄れている。
けれど、そこに書かれている言葉は読むことができた。
――心臓を宿す者には、一定の条件がある。
その一文を読んで、私は自然と身を乗り出した。
「条件……」
「はい」
ノアが続きを追う。
「強い魔力を持つこと。そして、心臓から流れ込む感情を、魔力として受け取れること」
「それは、前にも出てきましたね」
「ええ。ただ……」
ノアの指が、文章の途中で止まった。
「ここからが少し違います」
その先には、こう書かれていた。
――受け入れるだけの余白を持つこと。
私は、その言葉をじっと見つめた。
「余白……?」
「おそらく、魔力の性質についてでしょう」
ノアは別の紙を取り出した。
「魔力は、量だけで決まるものではないそうです」
「量だけじゃない?」
「はい。人によって、魔力の流れ方や性質が違う。炎に近い魔力もあれば、水のように馴染みやすいものもある。外から入ってきた魔力を強く弾く性質の人もいれば、取り込んで自分の魔力と混ぜられる人もいる」
私は自分の胸元に手を当てた。
今まで、自分の魔力について深く考えたことはなかった。
魔法を使える。
普通より魔力が多い。
その程度にしか思っていなかった。
「……じゃあ、私は?」
私が尋ねると、ノアは黙って記録を読み返した。
そして、別の一文を見つけた。
「これです」
紙に書かれていたのは、短い文章だった。
――心臓との適合が強い者は、外部から与えられた感情を、自身の魔力と衝突させず受け入れる。
私は息を止めた。
「……私が、それなんですか?」
「おそらく」
ノアは静かに頷いた。
「リゼットさんの魔力は、外から入ってきたものを拒絶する力が弱い。むしろ、自分の魔力の中へ取り込んで馴染ませる性質を持っているんだと思います」
「だから……魔女の感情を」
「強く受け取ってしまう」
その言葉が、胸に落ちた。
今まで感じてきたもの。
知らない場所に覚えた懐かしさ。
理由もなく込み上げてきた寂しさ。
自分のものなのか分からないほど強かった感情。
それらは、私が心臓に選ばれたからだけではなかった。
私の魔力が、心臓を拒まなかったから。
いや。
それだけではない。
心臓から流れ込んだものを、自分の中へ受け入れられる性質を持っていたから。
「……だから、私だったんですね」
思わず、そう呟いた。
けれど、ノアはすぐに言った。
「正確には、少し違います」
「え?」
「『私だった』というより……条件に合っていたから、心臓が宿ったんです」
私はノアを見る。
「そこに、魔女の意思はありません」
その言葉を聞いて、私は黙り込んだ。
魔女が私を選んだわけではない。
私を特別だと思って、心臓を渡したわけでもない。
血筋でもない。
誰かが決めた運命でもない。
ただ、私の魔力が――。
あの心臓を受け入れられるものだった。
「……じゃあ、歴代の人たちは?」
「同じ条件を満たしていたとしても、適合の強さには個人差があったのでしょう」
ノアは、これまでの記録を並べていく。
そこには、歴代の継承者について残された短い記述があった。
心臓から感情を受け取った者。
時折、知らない感情に戸惑った者。
心臓の存在を意識しながらも、ほとんど影響を受けなかった者。
共通しているのは、心臓を宿していたことだけ。
感じ方は、それぞれ違っていた。
「少なくとも、記録に残っている範囲では、リゼットさんほど強く影響を受けた人はいません」
胸の奥が、少しだけざわついた。
「でも……どうして私の魔力だけ、そんな性質を持っているんでしょう」
今度は、ノアもすぐには答えなかった。
紙を何枚もめくる。
古い記録を探す。
けれど、それらしい答えは見つからない。
私は、もう何も残っていないのだと思った。
そのときだった。
「……待ってください」
ノアの手が止まった。
「まだ、あります」
「え?」
ノアが、一番下にあった紙を引き出す。
それは他の記録よりもずっと短かった。
研究者が、最後に残した覚え書きのようなものだった。
そこには、こう書かれていた。
――心臓との適合は、魔力量では説明できない。
――他者の感情を受け入れる性質が強い者ほど、心臓との結びつきも強くなる。
――ただし、その性質が生まれつき存在する理由については、未解明。
私は、その最後の一文を見つめた。
「……分からないんですね」
「この記録を書いた人にも、分からなかったようです」
「じゃあ、結局……」
「いえ」
ノアが、静かに首を横に振った。
「ひとつだけ、分かっています」
「……何が?」
「リゼットさんの魔力は、誰かの感情を受け入れることができる」
ノアの声は、穏やかだった。
「だから、魔女の心臓とも強く結びついた」
私は、自分の胸に手を置いた。
鼓動を感じる。
その奥にある、もうひとつの存在。
ずっと私と一緒にあったもの。
もし心臓がなくなったら。
そこに残る私は、何なのだろう。
「……ノア」
「はい」
「もし、この心臓がなくなったら……」
その先を言うのが、少し怖かった。
けれど、ノアは急かさなかった。
「私は……私のままでいられるんでしょうか」
ノアはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「それを確かめる必要があるのかもしれません」
私は顔を上げた。
「心臓があるから感じるものと、リゼットさん自身が感じているもの。その違いを」
私は、自分の胸に触れたまま、ノアを見る。
「……自分の心を、ですか」
「はい」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、また小さな感情が流れ込んできた。
誰かにそばにいてほしいような。
誰かを失いたくないような。
そんな温かな感情。
私は目を閉じた。
これは、魔女のものなのだろうか。
それとも――。
この心臓が私に宿った理由は、もう分かった。
これから先、心臓をどうするのかを決めるとき。
魔女の願いだけでもない。
ノアの願いでもない。
私自身が、決める。
そのためにはまず。
この胸の中にあるものが、誰の心なのか。
それを知る必要がある。
私はゆっくりと胸元から手を離した。
隣には、ノアがいる。
今までなら、彼の存在さえも、魔女の心臓が感じさせているものなのではないかと疑っていた。
けれど――。
その答えも、いつか自分で確かめればいい。
私はもう一度、机の上の記録を見つめた。
魔女の心臓が、私を選んだ理由は分かった。
あとは。
心臓を抱えたまま生きるのか。
それとも、終わらせるのか。
その答えを――私自身の心で決めるだけだった。




