魔女の願い
古い記録を閉じると、紙の擦れる音だけが部屋に残った。
窓の外では、風に揺れた木の葉がさらさらと音を立てている。
けれど私は、その音を聞きながらも、さっきまで読んでいた記録のことばかり考えていた。
歴代の継承者。
魔女の心臓を宿してきた人たち。
彼女たちも、心臓を通して魔女の感情を感じていた。
けれど、私ほど強くはなかった。
どうして私だけなのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
「……これ」
私が一枚の紙を指差す。
紙は古く、端が黄ばんでいた。
そこには、魔女が自分の心臓について書いたらしい短い言葉が残されていた。
ノアが隣から覗き込む。
「読めますか?」
「はい。少しだけ……」
私はゆっくりと文字を追った。
そこには、心臓が自分の死後も残ること。
そして、それが次の誰かへ渡っていくことについて書かれていた。
私はそこで、息を止めた。
「……知っていたんですね」
「何をですか?」
「自分が死んだあとも……心臓が残ることを」
ノアは黙って紙を見つめた。
私も、続きを読んだ。
そこには、心臓を宿した人が、自分のものではない感情を抱くことについても書かれていた。
悲しみ。
寂しさ。
誰かを大切に思う気持ち。
それらが、心臓を通して次の人へ伝わっていく。
私は、無意識に胸を押さえた。
まるで、今の自分のことを書かれているようだった。
紙の最後に、小さく書かれた一文があった。
ノアが先にそれを見つけた。
「リゼット嬢」
「はい」
「ここに……あります」
私は紙を受け取った。
そこに書かれていた文字は、今までの記録よりずっと短かった。
けれど、その一文だけで十分だった。
――私で終わらせたい。
胸の奥が、強く痛んだ。
息が詰まる。
同時に、心臓の奥から何かが溢れてくる。
知らない誰かに、この気持ちを背負わせたくない。
そんな感情が、言葉になる前に私の中へ流れ込んできた。
「……魔女は」
声が震えた。
「この心臓を、残したかったわけじゃなかったんですね」
ノアはすぐには答えなかった。
ただ、私の手の中にある紙を見つめている。
「……そう、だと思います」
「自分が死んだあとも、誰かがこれを持つことを……望んでいたんじゃない」
「はい」
静かな返事だった。
私は胸に手を当てたまま、目を閉じた。
今まで、ずっと思っていた。
この心臓は魔女の想いを残すためにあるのだと。
だから、私が感じるものも、受け入れるしかないのだと思っていた。
けれど違った。
少なくとも、魔女自身はそれを望んでいなかった。
「……じゃあ」
私は目を開いた。
「ノアさんが探していたものも……」
そこまで言って、言葉を止める。
ノアは、私が何を言いたいのか分かったようだった。
「はい」
彼はゆっくりとうなずいた。
「僕がずっと探していたのは、あの人の願いでもあった」
ノアは苦しそうに笑った。
「……もし」
私は小さく口を開いた。
「魔女が本当にこれを終わらせたかったのなら」
胸に手を置く。
「私が、この心臓を終わらせることも……魔女の願いを叶えることになるんでしょうか」
ノアは答えなかった。
しばらくして、静かに首を横へ振った。
「それは、僕には決められません」
「……」
「魔女がどう思っていたとしても、今ここにいるのはリゼット嬢です」
まっすぐに私を見る。
「心臓をどうするのかを決めるのは、リゼット嬢自身です」
その言葉が、胸の奥に残った。
魔女の願い。
ノアの約束。
心臓に残された感情。
私はこれまで、それらに囲まれているような気がしていた。
自分の気持ちさえ、その中に混ざってしまっているように思えた。
けれど。
決めるのは私。
その言葉だけは、妙にはっきりと聞こえた。
「……私自身、ですか」
「はい」
ノアは静かに答えた。
「僕も、もう誰かの願いだけを追いかけるつもりはありません」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
ノアは以前よりも、ずっと近くにいるように感じた。
魔女を追いかけている人ではなく。
私の目の前にいる、一人の人として。




