第九話 山田静里の刺
『蓮の露』が世に知られるようになって幾年か経った、ある日のことである。
静里が、久方ぶりに誠の庵を訪ねてきた。
「貞心尼殿。何度読み返しても、良い歌集じゃ」
静里は、持参した『蓮の露』の帖面を、懐かしそうに撫でながらそう言った。
誠と静里の付き合いは、もはや浅いものではない。この帖面に題を与えたのも、他ならぬ静里であった。誠にとって、静里の言葉は、単なる読者の賛辞ではなく、共にこの一帖を作り上げた同志からの言葉であった。
だからこそ、誠はその場で、静里の言葉に深く頷いた。
「和尚様のお心が、これほどまでに澄み渡っておいでとは。貞心尼殿の御筆あってこそでしょう」
静里は続けて、あの月を詠んだ一連の唱和――
向かひゐて千代も八千代も見てしがな
から始まる贈答――を殊のほか褒め、その調べの美しさを、丹念な言葉で称えた。
誠の胸には、温かなものが広がった。
長年の理解者から向けられる言葉には、他の誰の賛辞とも違う重みがあった。
だが、静里が語れば語るほど、誠の中で、小さな違和が兆し始めていた。
(この人は――)
静里は、誠と和尚が過ごした年月の多くを、傍らで見てきた人である。
和尚の飄々とした人柄も、老いてなお子供らと戯れる姿も、風の噂に聞き及んでいたはずだ。
それなのに、静里の口から語られる「和尚様の御心」は、あの調和に満ちた唱和の歌々――誠が選び、誠が磨き上げた部分――にだけ、向けられている。
霙の夜のことも、老いの嘆きも、静里は一言も口にしなかった。
それらは、誠自身の手で、とうに火に投じられ、灰になっているのだから、当然のことではある。
だが、これほど長く誠を知る静里でさえも、誠が示したものだけを、和尚の全てだと信じているという事実に、誠は言いようのない寒さを覚えた。
「和尚様のお心が澄み渡っておいでとは。貞心尼殿の御筆あってこそ」
静里の、無邪気な賛辞が、不意に冷たい刃となって誠の胸を突いた。
長年、誠のことを誰よりもよく知っているはずの、この人でさえも。
静里が「和尚様のお心」と呼んでいるもの。
それは、生身の和尚の心そのものではない。誠がこの手で選び抜き、切り落とし、並べ直した、誠の作り上げた「美しい幻」に過ぎないのだ。
静里は、和尚を称賛しているのではない。
誠が都合よく切り刻んだ「作品」を、称賛しているのだ。
そのことに思い至った刹那、誠の胸に兆したのは、喜びでも誇らしさでもなかった。
得体の知れぬ、冷たいものが、腹の底からゆっくりと這い上がってくる。
(私は、和尚様を残そうとして――)
(私が愛したあの人を、私の手で、削り落としてしまったのではないか)
その先の言葉は、誠の中でうまく像を結ばなかった。
誠は、静里の前で、努めて穏やかな表情を崩さぬようにしていた。
だが膝の上に置いた指先は、いつの間にか強張っていた。
静里が帰った後、誠は文机の上に置かれたままの『蓮の露』を、しばらくじっと見つめていた。表紙の題字――静里が与えてくれたその文字を見つめる誠の眼には、これまでとは違う、かすかな翳りが差していた。




