第十話 消えていく声
あの日以来、誠は『蓮の露』を開くことが、以前ほど容易ではなくなっていた。
帖面を手に取るたび、そこに整然と並ぶ歌の数々は、確かに美しい。
だが、その美しさの向こうに、かつて確かにあったはずの何かが、うっすらと透けて見えなくなっていることに、誠は気づき始めていた。
(和尚様の、あの笑い方は――)
思い出そうとする。
だが、記憶の中の和尚は、いつからか『蓮の露』に記された、調和に満ちた唱和の姿にすり替わっていた。
歯の抜けた口元を大きく開けて笑う、あの飾らぬ笑い声。
子供らと戯れながら見せた、少し間の抜けた表情。
それらが、誠の中で、日に日に輪郭を失っていく。
誠は文箱の奥から、あの懐紙に包まれた紙片を取り出した。
「貞心」とだけ記された、宛名の一片。指先でそっと開き、灯りにかざしてみる。
だが、この小さな紙切れを見つめたところで、和尚の生の温もりが戻ってくるわけではない。
切り離された宛名は、もう誰の名を呼ぶこともない。
ただ乾いた墨だけが、紙の上に静かに残っていた。
(私は、何を握りしめているのだろう)
誠は懐紙を丁寧に畳み直し、再び文箱の奥へと戻した。
その手つきは、いつもと変わらず慎重であったが、以前のような確かな安らぎは、もうそこにはなかった。
『蓮の露』を書き上げたあの日、誠は確かに満ち足りていた。
だが今、同じ帖面を前にして込み上げてくるのは、満足ではなく、名状しがたい飢えであった。
編纂すればするほど、遠ざかっていく声がある。
磨けば磨くほど、掌からこぼれ落ちていくものがある。
誠は行灯の灯りを見つめながら、しばらくその場に座り込んでいた。
外では、秋の虫の音が、途切れることなく続いていた。




