第八話 蓮の露
天保六年、初夏。
幾年にもわたる編纂の末、ついに一帖の歌集が形をなした。
書き上がった帖面を前に、誠はしばらく思案していた。
この歌たちに、いかなる題を冠すべきか。誠自身、幾つかの候補を思い浮かべては、どれもしっくりと来ず、筆を執っては置く、ということを繰り返していた。
その頃、誠のもとをしばしば訪れていた静里に、誠は思い切って帖面を見せた。
静里は幾日か持ち帰り、丹念に読み込んだ後、こう言った。
「これは――『蓮の露』と名づけるが、よろしかろう」
誠は、その一言に、しばらく声を失っていた。
「蓮の露、と」
「蓮の葉に結ぶ露は、清らかでありながら、儚い。日の光を受けては、きらきらと輝きながら、いずれは滑り落ち、消えていく。この歌集にある、和尚様と貞心尼様との交わりも、まさにそのようなものではありませぬか」
その言葉を聞いた誠の胸に、深い納得と共に、ある種の安堵が広がった。
自らの手で選び、磨き上げてきたこの帖面に、ふさわしい名を、他ならぬ静里が与えてくれた――そのことが、誠には、ひどく有り難く思われた。
「静里殿の仰せの通りにいたします」
誠はそう答え、表紙に、静里の授けたその題を、丁寧な筆致で記した。
『蓮の露』。
文字を書き終えた誠は、指先で、表紙をそっと撫でた。
(これで、和尚様は)
言葉にならぬまま、誠の胸に満ちてくるものがあった。
もう二度と、和尚の声を直に聞くことはできない。
あの霙の夜、握りしめた手の温もりも、二度とは戻らない。
だが、この一帖さえあれば――誠が選び、誠が磨き上げた「美しい和尚」の言葉さえあれば――二人は、もう永遠に離れることはない。
誠は帖面を胸に抱き寄せた。
新しい紙の匂いと、かすかに残る墨の香りが、鼻先をくすぐる。
その喜びに、一片の曇りもなかった。
窓の外では、初夏の陽射しが、蓮の葉に残る朝露を、きらきらと光らせていた。
誠はしばらくその光を眺め、それから、もう一度帖面へと視線を戻した。
これで、良い。
誠はそう、静かに己に言い聞かせた。




