第六話 手は震えなかった
書き溜めた反故紙の中に、和尚から誠に宛てられた文が幾通か混じっていた。
そのほとんどは、簡素な仏道の教えや、季節の挨拶に過ぎない。
だが宛名の一角には、必ず「貞心」の二文字が記されている。
それは誠にとって、他の誰にも渡せぬ、たった一つの証であった。
編纂が進むにつれ、誠は一つの決断を下さねばならなくなっていた。
(この文も、世に出すべきであろうか)
和尚の言葉を、一言でも多く後の世に残したい。
その願いは本物だった。だが、宛名までそのまま世に晒せば――「貞心」という二文字までもが、誰の目にも触れることになる。
行灯の灯りの下、誠は文机に一通の書状を広げた。
和尚の筆跡が、静かにそこに横たわっている。
(和尚様の言葉は、世界のものだ。だが、この宛名は――)
誠は文箱の隅から、小さな鋏を取り出した。
冷たい金属の刃を開き、書状の端、「貞心」と記された箇所へと近づけていく。
躊躇いは、なかった。
ジョキリ、と。
刃が古い和紙を噛み、裁つ。
乾いた小さな音。宛名の記された一片が、するりと切り離され、文机の上に落ちた。
誠はその手元を、じっと見つめていた。
――手は、震えなかった。
怒りでも、悲しみでもない。
それは、ただ必要な作業を、必要な手順で進めているだけの、静かな確かさであった。切り離された本文には、もはや誰の目にも「二人だけの関係」を読み取ることはできない。それは万人のための、美しい和尚の言葉になった。
そして、切り落とされた「貞心」の二文字だけが、誠の手のひらの上に残された。
誠はその小さな紙片を、しばらく灯りにかざして眺めていた。
指先に伝わる紙の薄さと軽さに反して、それはひどく重いもののように感じられた。
やがて誠は、その一片を懐紙に包み、文箱の奥深く、他の何物にも紛れぬ場所へとしまい込んだ。
本文を文箱へ戻す誠の指先は、先ほどと変わらず、落ち着いていた。




