第三話 霙の夜と無音
天保元年、師走の末。
急使が誠のもとに駆け込んできたのは、霙まじりの冷たい雨が瓦を叩く夜であった。
「和尚様が、御重体にございます」
その報せを聞いた刹那、誠の手から茶碗が滑り落ち、乾いた音を立てて土間に転がった。拾い上げる余裕もなく、誠はすでに戸口へと駆け出していた。
島崎までの道のりを、誠がどう歩いたか、覚えていない。
霙は容赦なく頬を打ち、笠の下から差し込む冷気に、指先の感覚はとうに失われていた。それでも足だけは止まらなかった。
木村家に駆け込むと、床に伏す和尚の姿があった。思いのほか、苦しげな様子はない。むしろ誠の姿を認めると、皺の刻まれた眼をわずかに細めた。
いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今は相見て 何か思はむ
その声は、弱々しくはあったが、確かに和尚のものであった。誠はその場に崩れるように座り込み、震える手で和尚の手を取った。
武蔵野の 草葉の露の ながらへて ながらへ果つる 身にしあらねば
続けて詠まれたその一首に、誠の喉から声にならない音が漏れた。
この身は、いつまでも生き永らえられるものではない――そう告げる和尚の声音に、これまで感じたことのない怖れが、誠の胸の底から突き上げてきた。
生き死にの 境離れて 住む身にも さらぬ別れの あるぞ悲しき
誠は、絞り出すようにそう返した。
仏の道を志す身であっても、この別れの悲しみからは逃れられない――その一首を詠み終えた誠の頬を、堪えきれぬ涙が伝った。
それから幾日か、誠は和尚のかたわらを離れなかった。
日に日に衰えていく息遣いを、ただ見つめ続けることしかできなかった。
そして、年が改まって間もない朝。
和尚の手から、ゆっくりと力が抜けていった。
誠がその手を握りしめたまま、どれほどの時が経ったであろうか。気づけば、木村家の者たちのすすり泣く声が、遠くから聞こえるように耳に届いていた。
握りしめた手は、まだ温かった。
だが、その温かさは、もう二度と誠だけに向けられることはない。
誠だけの名を呼ぶ声は、これきり、永遠に絶えたのである。
その事実の重みに、誠はしばらく声も出せずにいた。
葬儀には、遠近から夥しい数の人々が訪れた。
誰もが口々に、和尚の思い出を語った。
「あの手まりをつく姿の、なんとも愛らしかったこと」
「子供らに交じって、無邪気に遊んでおられた御方じゃ」
その語り口の、あまりに滑らかで、あまりに凡庸なことに、誠の中で何かが軋んだ。
彼らが語る和尚は、誠が知る和尚とは、似ているようでいて、決定的に何かが欠けている。
(この人たちは、何も知らない)
誰もが「良寛様」を懐かしみ、悼んでいる。
だが、その死の間際、震える声で二首の歌を誠だけに残したことを、誰も知らない。誠だけが、その最期の言葉を、その手の温もりの消えゆく瞬間を、知っているのだ。
その独占の実感は、悲しみに深く根を下ろしながらも、同時に誠の胸の奥に、ひどく泥臭い、抑えがたい熱を灯していった。




